新海誠の第2作『雲のむこう、約束の場所』の舞台は本州最北端の東津軽郡・外ヶ浜町。令和4年に相次いだ自然現象を『天気の子』で予言していたと言える。8月3日の豪雨に見舞われた津軽半島の北端は土砂崩れにより津軽線がストップ。復旧の目処は立っておらず廃線もありうる。津軽線で三厩駅に行けないとなれば、新海誠の軌跡を辿るには片手落ち。復旧を待つか、デビュー20周年の今年に行くか。ヒロキやサユリが通った沿線は乗れないが、それでも行くしかない。蟹田の宿泊所は予約いっぱいだったが、三厩の龍飛旅館だけ予約。いざ塔のむこう、約束の場所へ。
Day1: 池袋から新宿
ユニオンの塔
サユリが記憶を失う原因であり、ヒロキがPL外殻爆弾で破壊するユニオンの塔のモデルは北海道ではなく池袋にある。豊島清掃工場の焼却炉。上京した新海誠が武蔵浦和からいつも眺めていた白い塔。
自分にとっては大事な何かかもしれない、そこに行けば出会うべき運命が待っている。そんな予感から『雲のむこう、約束の場所』は生まれた。次は新海誠のこえを受け取った自分が、あの塔のむこうへ行く。
新宿あいうえお
劇中でヒロキは新宿駅から埼京線で大宮駅に行き、そこから新幹線で帰郷したが、今回はバスタ新宿から深夜バスで向かった。
ご主人によると、岡部と富澤のモデルは新海誠と交流があったアニメ監督の出渕裕と脚本家の伊藤和典。今回は時間がなかったが、改めて詳しい話を聞きたい。
Day2: 青森から外ヶ浜
青森駅
9月25日(日)8時。青森駅。タクヤとサユリが書籍を買いに来て、その帰りに初めてふたりで会話をした駅。本来なら電光掲示板にあるはずの三廏行きがないのが寂しい。今日はここからJR津軽線に乗り、55.8キロ先の終点「三厩駅」を目指す。青森駅の前で津軽ラーメンを食べて銭湯に入る予定だったが、早めに外ヶ浜に向かうことにした。
津軽線は想像していたより新しい。のどかな田園風景が続き、大雨の被害を感じない。蟹田の手前の瀬辺地で降りる。
瀬辺地(せへじ)
瀬辺地駅の近くにはヒロキやサユリがくぐった高架橋がある。写真の場所とは異なるようだが、光が射しこんで来るむこうからヒロキがやって来る気配がした。
瀬辺地駅の隣には青森湾を望む神社がある。外ヶ浜には義経伝説が残るが、名もなき寺社が多い。鳥居を通して青森湾が望める。紛れもなく絶景。なぜ新海誠が描かなかったのか気になったが、その理由はあとでわかる。
途中の民家にはビール缶を使った風鈴があった。こういった遊び心に出逢えるのも交通機関ではなく徒歩ならでは。約束の場所は足で稼ぐ。
蟹田(かにた)
青森湾を右手にルート280の海岸通りを徒歩50分。燦々と照りつける太陽を従えて汗が吹き出てくる。ヒロキは新宿で孤絶を味わうが、夏の終わりの津軽には不思議な温もりがあった。雲が見守ってくれるような、海峡のむこうに約束の場所があるような。蟹田に入り、今度は陸奥湾を右手に従えると、ついに外ヶ浜町。映画で何度も観た光景。3人が約束の場所を語り合った海岸。
桜町踏切。夏が蘇った。天門が作曲した『遠い約束』が流れた。ヒロキとタクヤとサユリがいた。三厩駅までの電車は乗れなかったが、歩いてよかった。
桜町踏切から歩いて蟹田駅へ。途中でヒロキたちの中学校がある。
蟹田駅は劇中で「南蓬田(よもぎた)駅」として登場。プレハブの跨線橋を渡ってホームに降りる。
ヒロキが三厩までの電車を待っているとき、向こうからサユリがやって来る。ふたりで帰った思い出。サユリはヒロキに夢で逢ったと告げ、その後、サユリは永い眠りに堕ち、夢の世界の住人となる。この告白はサユリからのSOS。夕暮れの告白がふたりを結んだ。新海誠のセリフは未来予想図。
ホームのむこうには、ヒロキとタクヤがいた。ふたりはいつも並んで、部活帰りに塔を見上げた。直線の美しさ、迫ってくるような伸び。何のために聳えているのか理由が分からない。だから、たまらなく惹かれてしまう。
空のむこうには、白いまっすぐなユニオンの塔がある。新海誠は駅の向きを反転させた。これがアニメーションの力。聖なる捏造。ユニオンの塔は見えないが、そこには「見えない塔」があった。
タクシーを待つまで町を散策。蟹田川と陸奥湾。初めて見た。川と海が合流する場所を。これを永遠というのか。海がない小海町の出身者の新海誠が外ヶ浜を第二の故郷にしたように、ここは新海誠と蟹田をつなげた場所。町の福祉施設「ぽっぽ湯」に浸かり、タクシーへ。駅前市場の「ウェル蟹」で昼食の予定だったが思ったより時間を喰ってしまい、寺山修司の『地平線のパロール』を読みながら車を待つ。事前に「ワンタク」をネットで予約していた。ワンタクは観光や通勤が目的で大雨の被害に遭う前から始められた。本来、三厩駅まで1万円以上かかるが、なんと500円で行けてしまう。
三厩(みんまや)
ルート14を走る途中に、大雨の被害の痕を見る。運転手の鈴木さんによると廃線の可能性もあるそうだ。なんせ三厩駅から青森までの津軽線に乗るのが1日十数人。大赤字もいいところだろう。
ヒロキの実家があり、電車が走らなくなった三厩駅の線路には草花が生い茂る。
三厩駅の待合室は『秒速5センチメートル』の岩舟駅のモデル。やはり新海誠は自分の無意識と対話できる監督。世界中でこの場所を《桜花抄》の舞台に選ぶのは新海誠だけだろう。
三厩駅から龍飛旅館まで1時間歩く。津軽は山と海が近く土地が狭い。その分、両方の恵みを受ける。外ヶ浜は青森の神秘を最も感じる場所。
三厩は義経が平泉から脱出した伝承があり、観光誘致に使っている。義経寺が最たるもの。全国にヤマトタケルの足跡があるのと同じ。
だが新海誠は一切出さなかった。どこまでも素直に外ヶ浜の風景を伝えた。これでいいのだ。
龍飛旅館の前に義経海浜公園がある。その中に食堂があるので遅い昼食をとった。名物の豚丼と若生おにぎりが売り切れており、できるのはラーメンのみ。ガッカリしたが、これがこの旅のハイライトでもあった。なんてことない醤油ラーメンだが、これが美味い。素直に醤油と出汁の旨味が利いて麺に絡む。新宿であらゆるラーメン屋を食べ歩いているが、気になるのが技巧が前面に出過ぎていること。職人さんの努力の結晶ではあるが、もっと素直に醤油と出汁の旨味を信じてはどうか。
夕方と寝る前に夏の汗を流す。青森ヒバの浴槽。温泉は泉質、泉質と言われるが、湯と同じくらい大切なのが浴槽。良いワインを紙コップで飲むと美味しさが半減するように、浴槽が良いと温泉の良さが倍増する。青森ヒバは津軽でしか生育しない天然木。ヒノキチオールというオイルが肌をツルツルすべすべにし、森林浴しているやさしさに包まれる。本当は朝も浸かりたかった。津軽を旅したときは、またここに来よう。
夕食の宴は旅館飯。郷土料理じょっぱ汁の鍋も良かったが、なんと言っても、りんごジュース。津軽に来たらりんご。一日の労を内側から洗い流す。この恍惚が150円で買える。こうして津軽の夜は更けた。
Day 3: 三厩から今別へ
三厩
日の出を望むため、4時半に起きる。長袖1枚で十分。もう数時間で半袖が欲しくなる。季節は夏の終わり。今日も暑くなりそうだ。5時に旅館の前の海浜公園へ。「おはよう」の挨拶なのか、カモメが元気に鳴いている。6時前、雲のむこうから日が射してきた。水平線にオレンジロードができる。印象、日の出。我発見せり。ここにモネのル・アーヴル港があった。朝食を食べてスマホでNFLの結果をチェック。旅情が薄まるが気になるものは気になる。新海誠作品と同じく、圧倒的なものは理屈を凌駕する。
9時半に旅館を出発し、よしつねの湯へ。龍飛旅館は朝風呂に入れないのが残念だ。青森ヒバのやさしさは朝にこそ本領を発揮するだろう。一番の目的は湯より、ほぐし処。昨日、津軽を歩き回り、今日も10キロ以上歩くので腰がつらい。マッサージは旅の贅沢のひとつ。リラクゼーション葉、工藤 彩乃さん。40分間ずっと話をしてくれた。しゃべれども、しゃべれども。静岡県三島の出身、東京でタイ古式マッサージを学んだ。旦那様が三厩出身。
「地震が来ても、町が水没しても此処を離れない」
生まれた場所ではなく、そういう存在を故郷と呼ぶのだろう。『雲のむこう、約束の場所』は2回観たがよく分からなかったらしい。理解されない素晴らしさも新海誠の凄さ。あの作品は1ミリたりとも直すべきところのない傑作だ。どこにも手を入れられないし、入れてはいけない。圧倒的にすごいものは理解されない。それでいい。よしつねの湯を去るとき、工藤さんが呼び止めて『雲のむこう、約束の場所』のガイドマップをくれた。
今別
いよいよ旅のハイライト、今別駅を目指す。ルート280を征く。
空気がうまいからか、カモメも元気だ。都会の動物よりも生命力を感じる。
腹が減った。スマホの地図に載っているほとんどの店が閉業していたが今別郵便局過ぎると地場産品等販売所「なもわ~も」があった。地元のおばあさんが入ってきて「なんかあるか?」と訊けば、店員のおばさんは「もうなんも残ってねえよ」。なんと長閑なキャッチボール
サーモン丼、もずくうどん。サーモンは冷凍だった。食べ終えて近くの公衆トイレに入ろうとすると鍵がかかっていた。スタッフの女性が鍵を開けてお手洗いを貸してくれた。これも都会の人の多さでは絶対に気づかない。客が自分ひとりだったからこそ気づいてくれた。群れに答えなどない。
今別の町中に入るとひとが多くなる。ご近所さん同士の会話が何を言ってるのか分からない。方言は土地を表す。言葉によって津軽にいることを実感した。新海誠がリアリティ重視で映画を作ったら字幕翻訳が必要だろう。それにしても津軽は本当に神社が多い。ふっと何かに誘われ階段を登る。
ここがタクヤがヒロキを待っていた高架橋。なんでもない景色に情景は宿る。新海誠は風景ではなく情景を描く監督だ。
いよいよ旅のフィナーレ。緑の光線。ヒロキ、タクヤ、サユリの想いは大空に羽ばたくヴェラシーラにあるが、新海誠の心は鉄道と駅にある。
メインテーマである『遠い呼び声』、エンディング曲の『きみのこえ』が聴こえてきそうな情景。新海誠にとって「こえ」は記憶。かつて数時間に一本しか走らない鉄道レールに耳をすませ、少年は遥か新宿への想いを馳せた。
東京で生きる新海誠にとって「地元の風景と似ている」と言うローカル線の走る津軽は、もうひとつの故郷。小海町ではなく、上京してから見つけた心のふるさと。サユリがレールの上を歩くのは新海誠自身でもある。このレールの遥か彼方へ、想いを、こえを届ける。いつも心に約束の場所を抱えて。