シネマの流星

映画とは魔法。どこでもドアであり、タイムマシン。映画館の暗闇はブラックホール。スクリーンの光は無数の星たち。映画より映画館のファン

『男はつらいよ 私の寅さん』〜非売品の肖像に刻まれた、寅さんという贈与

『男はつらいよ 私の寅さん』〜非売品の肖像に刻まれた、寅さんという贈与

『男はつらいよ 私の寅さん』は、1973年公開の日本映画。山田洋次監督によるシリーズ第12作。九州旅行へ出る“とらや”の留守番、幼なじみの放送作家・柳文彦(前田武彦)との再会、そしてその妹で画家のりつ子(岸惠子)との出会いが、寅さんの「人に尽くす優しさ」と「距離を保つ賢さ」を同時に照らし出す。

題名の“私の”は、家族も、友も、マドンナも、各々の胸に「自分だけの寅さん像」を持っているという宣言である。

スタッフ

  • 監督:山田洋次
  • 脚本:山田洋次、朝間義隆
  • 製作:島津清
  • 音楽:山本直純
  • 撮影:高羽哲夫
  • 編集:石井巌
  • 配給:松竹
  • 公開:1973年12月26日
  • 上映:107分

ロケ地

  • 大分県:大分空港(国東市)、高崎山自然動物園(大分市)
  • 熊本県:阿蘇(阿蘇市・南阿蘇村〈栃木温泉〉)、杖立温泉(小国町)、熊本城公園・熊本市街
  • 上天草市:合津港
  • 神奈川県:鎌倉市(画伯宅)
  • 阿蘇山:山上身代不動・啖呵売

冬は温暖な地、夏は涼しい所へ旅をする。この作品から寅さんの旅先が固定される。

キャスト

『男はつらいよ 私の寅さん』〜非売品の肖像に刻まれた、寅さんという贈与

  • 車寅次郎:渥美清
  • 志村りつ子:岸惠子
  • 柳文彦:前田武彦
  • 諏訪さくら:倍賞千恵子
  • 竜造:松村達雄
  • つね:三崎千恵子
  • 博:前田吟 

九州へ旅行するにあたって、おばちゃんが「私は箱根より西に行くのは初めてなんだよ」と言っているが、実際には第3作『男はつらいよ フーテンの寅』で湯の山温泉(三重県)に行っている。

前田武彦が演じる寅次郎の小学校時代の同級生・柳文彦は第28作『男はつらいよ 寅次郎紙風船』でも登場する。本作でのあだ名は「デベソ」、第28作でのあだ名は「カワウソ」に変わる。

あらすじ

『男はつらいよ 私の寅さん』〜非売品の肖像に刻まれた、寅さんという贈与

夢の序幕で「謀反人・車寅次郎」が悪徳商人を一刀両断。現実では、とらや一家が九州旅行へ。留守番を任された寅さんはむくれながらも、帰宅する家族のために炊事や風呂を整え、みなの胸を温める。ほどなく寅さんは小学校時代の親友・柳文彦と再会し、文彦の妹で画家のりつ子と出会う。初対面から応酬で火花を散らす二人だが、やがて寅さんはりつ子に惹かれていく。りつ子は心寄せていた同業の画家の結婚話に打ちのめされ、寅さんは見舞いに通う。やがてりつ子は寅さんの想いに気づき、「女として見られるのは嬉しい、でも困る」と告げる。寅さんは絵の邪魔をしたくないと身を引き、旅へ。のちに阿蘇の露店には、りつ子が「非売品」として描いた寅さんの肖像が飾られている。正月、スペインから届く年賀状には「私の寅さん」の文字。

映画レビュー:『男はつらいよ 私の寅さん』

『男はつらいよ 私の寅さん』〜非売品の肖像に刻まれた、寅さんという贈与

家族旅行の留守を任された寅さんが、文句を言いながらも台所に立ち、湯を沸かし、戻る人の疲れを先回りして受け止める。その身振りは、「家の外にいる者」でありながら、家を温める者でもあるという逆説を示す。

りつ子との関係は、「贈与」と「距離」において最も美しい。寅さんは恋に火がつくが、りつ子にとっては“生業を支える友”であって、“生計を共にする夫”ではない。りつ子が口にする「嬉しい、でも困る」には、女としての肯定と、創作を守る決意が同居する。寅さんはその矛盾をねじ伏せない。口説き落とす代わりに、一歩退く。ここで守るとは、近くに置くことではなく、創作の場を乱さない距離を選ぶこと。

非売品の肖像は、その距離の象徴である。りつ子は寅さんを描くことで、「所有せず、忘れない」形に留める。寅さんはそれを店先に掲げ、売らずに見せる。ふたりのあいだを行き交うのは、貨幣で換算できない価値、気遣い、励まし、誇りであり、映画はその見えないやり取りを可視化する。

「私の寅さん」という題は、視点の転回でもある。さくらにとっての寅さん、りつ子にとっての寅さん。それぞれが少しずつ違う顔をしている。英雄の夢で始まり、留守番で温められ、画家の非売品で結ばれない。どの寅さんも嘘ではない。人は他者の中に、自分だけが知る“私の〇〇”を住まわせる。その重なりが人間関係の厚みであり、シリーズが長く呼吸し続ける源泉だ。

『私の寅さん』は、恋の成否を越えて、「相手の仕事と生を邪魔しない」という優しさを映画の真ん中へ置く。去ることは逃避ではなく、相手の時間を尊ぶために余白を残す、その静かな誇り。寅さんの失恋には、その愛情の形がある。

マドンナ・岸惠子(志村りつ子)の魅力

『男はつらいよ 私の寅さん』〜非売品の肖像に刻まれた、寅さんという贈与

岸惠子が体現するりつ子は、「凛とした自尊」と「生活の不器用さ」を併せ持つ。絵の前では譲らないが、台所では少し頼りない。強いのに、弱さを飾らない。

初対面の応酬で見せる切っ先の鋭さ、失恋でさらす影の薄さ、そして「嬉しい、でも困る」と言うときの繊細な呼吸。岸惠子の声と所作は、恋と仕事のあいだで揺れる職業人のリアリティを置き去りにしない。

りつ子は、寅さんを救わないし、救われもしない。代わりに、非売品の肖像を通じて「忘れない」を贈る。岸惠子の気品が、この“忘れないという贈与”に説得力を与え、題名の“私の”を温かく響かせる。りつ子が言う「いつまでもいい友達でいたかった」は、創作と友情を両立させるための、成熟した選択の言葉である。だからこそ、阿蘇の風の中で微笑む寅さんの横顔は寂しくない。そこには、手放すことで守られた関係の形が、静かに刻まれている。

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男はつらいよの傑作シリーズ

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『ニューシネマ・パラダイス』〜人生という映画に、巻き戻しはない

『ニューシネマ・パラダイス』

『ニュー・シネマ・パラダイス』(原題:Nuovo Cinema Paradiso)は、1988年公開のイタリア映画。監督・脚本はジュゼッペ・トルナトーレ。

映画監督として成功したサルヴァトーレが、映写技師アルフレードの訃報をきっかけにシチリア島の故郷を振り返り、映画に夢中だった少年時代、青年期の初恋、故郷との別れを思い出していく。

映画を愛する映画、映画館を舞台にした映画は数え切れないほどある。失われた故郷や青春を振り返る作品も珍しくない。それでも『ニュー・シネマ・パラダイス』は、現在では「イタリア映画の入口」と呼べるほど世界中で愛され、映画ファンにとっては身分証明書のような一本になった。

スタッフ

『ニューシネマ・パラダイス』

  • 監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
  • 脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
  • 製作:フランコ・クリスタルディ
  • 製作総指揮:ミーノ・バルベラ
  • 音楽:エンニオ・モリコーネ、アンドレア・モリコーネ
  • 撮影:ブラスコ・ジュラート
  • 編集:マリオ・モッラ
  • 製作会社:クリスタルディフィルム/レ・フィルム・アリアーヌ/TFIフィルム・プロダクション/RAI3/フォーラム・ピクチャーズ
  • 配給:ティタヌス/日本ヘラルド
  • 公開:1988年11月17日(イタリア)/1989年12月16日(日本)
  • 上映時間:155分(イタリア初公開版)/123〜124分(国際版)/173分(ディレクターズ・カット版)

1988年にイタリアで劇場公開されたオリジナル版は155分だった。しかし興行成績が振るわず、トトとエレナの恋愛や後日談を中心に削り、約123分に短縮した国際版が作られた。この再編集もジュゼッペ・トルナトーレ自身が手がけ、この国際版が世界的な成功を収めた。現在ではニューシネマ・パラダイス=123分のイメージとなっている。

『ニューシネマ・パラダイス』完全版

2002年には、エレナとの再会などを収めた173分の完全版(ディレクターズ・カット版)が公開された。123分版にも、エレナの母親が立ったままトトと電話で話す場面が存在したが、現在一般的に流通する公開版・ソフト版には収録されていない。

シチリア州パラッツォ・アドリアーノ

映画の舞台となるシチリア島の「ジャンカルド村」は架空の村で、主要な撮影はパラッツォ・アドリアーノで行われた。現在も映画に登場した広場や町並みを見ることができ、ムニチピオ脇のニューシネマパラダイス館では、映画に関係したスタッフらが案内することもある。パラダイス座の客席として使われた教会内部、アルフレードの家の玄関、トトの家の玄関など、撮影の痕跡が町に残されている。

海岸の場面はチェファルやバゲリーア周辺、少年トトが通う学校はカステルブオーノ、トトとアルフレードが今生の別れをする「ジャンカルド駅」はラスカリ駅で撮影された。作中の音声はすべてアフレコによって録音されている。

作中に登場する映画

  • 『どん底』
  • 『駅馬車』
  • 『揺れる大地』
  • 『チャップリンの拳闘』
  • 『無法者の掟』
  • 『にがい米』
  • 『白い酋長』
  • 『ジキル博士とハイド氏』
  • 『風と共に去りぬ』
  • 『ヴィッジュの消防士たち』
  • 『アンナ』
  • 『CATENE』(作中題『絆』)
  • 『素直な悪女』
  • 『掠奪された七人の花嫁』
  • 『白夜』
  • 『青春群像』
  • 『貧しいが美しい男たち』
  • 『ユリシーズ』
  • 『さすらい』
  • 『嘆きの天使』
  • 『街の灯』
  • 『激怒』
  • 『白雪姫』
  • 『カサブランカ』
  • 『戦場よさらば』
  • 『ロビンフッドの冒険』
  • 『素晴らしき哉、人生!』
  • 『ベリッシマ』
  • 『夏の嵐』
  • 『マンボ』
  • 『ヨーロッパ1951年』
  • 『ウンベルト・D』
  • 『サリヴァンの旅』
  • 『越境者』
  • 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』
  • 『ならず者』
  • 『黄金狂時代』
  • 『熱砂の舞』
  • 『ノックアウト』
  • 『ナポリの黄金』
  • 『シーク』
  • 『ローマの休日』
  • 『ヒズ・ガール・フライデー』
  • 『グランド・ホテル』
  • 『美女と野獣』
  • 『玩具の国』
  • 『底抜け極楽大騒動』
  • 『丘の羊飼い』

キャスト

『ニューシネマ・パラダイス』

  • サルヴァトーレ・ディ・ヴィータ(少年期):サルヴァトーレ・カシオ
  • サルヴァトーレ・ディ・ヴィータ(青年期):マルコ・レオナルディ
  • サルヴァトーレ・ディ・ヴィータ(中年期):ジャック・ペラン
  • アルフレード:フィリップ・ノワレ
  • エレナ(若年期):アニェーゼ・ナーノ
  • エレナ(中年期・ディレクターズ・カット版):ブリジット・フォッセー
  • マリア(中年期):アントネッラ・アッティーリ
  • マリア(壮年期):プペッラ・マッジョ
  • アデルフィオ神父:レオポルド・トリエステ
  • スパッカフィーコ:エンツォ・カンナヴァーレ
  • イグナチオ:レオ・グッロッタ
  • アンナおばさん:イザ・ダニエーリ
  • 鍛冶屋:タノ・チマローザ
  • 広場をうろつく男:ニコラ・ディ・ピント
  • リア:ロベルト・レーナ
  • ペッピーノの父親:ニーノ・テルツォ

ラストシーンに登場する映像技師は、ジュゼッペ・トルナトーレ自身が演じている。当初はフェデリコ・フェリーニに出演を依頼したが断られた。

中年期のエレナ役にはシルヴァーナ・マンガーノを起用する構想もあったが、体調が芳しくなかったためオファーを断念した。

主人公サルヴァトーレの愛称「トト」は、イタリアを代表する喜劇王トトに由来し、作中でもトトの出演映画が上映される。

あらすじ

ローマ。映画監督として成功し、中年になったサルヴァトーレのもとへ、ある晩、故郷に暮らす母から電話が入る。知らせは、アルフレードの死だった。サルヴァトーレはベッドの中で横になりながら、長く離れていた故郷ジャンカルドと、少年時代の日々を思い出していく。

第二次世界大戦が終わって間もないシチリア島。幼いサルヴァトーレは「トト」と呼ばれ、母マリアと妹とともに小さな村で暮らしている。父は戦争へ行ったまま戻らず、家族は父のいない生活を続けている。

村の中心にある広場には、教会に併設された小さな映画館「パラダイス座」がある。娯楽の少ない村で、映画館には老若男女が集まり、スクリーンに映し出される映画に笑い、泣き、声を上げる。上映前にはアデルフィオ神父が作品を確認し、男女がキスをする場面になるとベルを鳴らす。該当箇所は映写技師アルフレードによって切り取られ、実際の上映ではキスシーンが映らない。観客たちはそのたびに不満の声を上げる。

映画に夢中になったトトは映写室へ何度も入り込み、仕事を見ようとする。アルフレードは最初こそ邪魔者扱いして追い返すが、やがてトトを可愛がるようになり、映写機の操作方法を教える。

ある晩、満員で映画館へ入れなかった村人たちのため、アルフレードは向かいの建物の壁へ映画を投影する。ところが上映中、可燃性の高いフィルムから火災が発生する。炎は映写室へ広がり、パラダイス座は全焼する。トトは炎の中からアルフレードを救い出すが、アルフレードは大火傷を負い、視力を失う。

やがて映画館は再建され、「新パラダイス座」として生まれ変わる。映写機を扱えるトトは、まだ少年でありながら映写技師として働き始め、家計を支える。

年月が流れ、青年となったトトはムービーカメラを手に入れ、自分でも撮影するようになる。ある日、駅でエレナを見かけ、トトは恋をする。トトは思いを伝え続け、やがてエレナも受け入れ、二人は恋人同士になる。

しかし、トトには兵役が待っている。徴兵され、村を離れる。除隊してジャンカルドへ戻ると、新パラダイス座の映写室には別の男が座り、エレナの姿もなく、連絡も取れなくなっている。

失意のトトに、アルフレードは村を出るよう勧める。まだ若いトトは外の世界へ行き、自分の道を探すべきだと話し、故郷へ戻ってきてはいけないと告げる。

トトは母や妹、アルフレードに見送られながら列車へ乗り、ローマへ向かう。その後、映画の世界へ進み、映画監督サルヴァトーレとして成功する。

それから約30年。アルフレードの死を知ったサルヴァトーレは、葬儀に参列するため久しぶりにジャンカルドへ帰る。年老いた母と再会し、村を歩き、かつての人々とも顔を合わせる。

しかし、サルヴァトーレが記憶しているジャンカルドとは多くが変わっている。新パラダイス座はすでに閉館し、建物も解体されることになっている。サルヴァトーレは村人たちとともに、かつて映画を上映した建物が爆破される瞬間を見届ける。

アルフレードの妻から、サルヴァトーレへ遺品が渡される。アルフレードが生前、サルヴァトーレのために残していたフィルムだった。

ローマへ戻ったサルヴァトーレは、一人で映写室に座り、そのフィルムを上映する。

スクリーンに現れたのは、少年時代にアデルフィオ神父の指示でアルフレードが映画から切り取っていた、無数のキスシーンだった。サルヴァトーレは涙しながらスクリーンを見つめ続ける。

映画レビュー:失ったものは、人生から消えない

映画を愛する映画は、いくらでもある。映画館に住みつく少年も、スクリーンに人生を教わる若者も、閉館する映画館を惜しむ物語も、故郷を離れた人間が昔を振り返る話も、決して『ニュー・シネマ・パラダイス』だけではない。

それなのに、なぜこの映画だけが、これほど多くの人の人生に入り込んでくるのか。

理由は、『ニュー・シネマ・パラダイス』が映画の素晴らしさを語るだけの映画ではないからだ。むしろ映画ではどうにもならないものを描いている。

時間である。

映画なら巻き戻せる。好きな場面を何度でも見ることができる。死んだ俳優もスクリーンでは生きている。壊された建物も、若かった顔も、失われた恋も、フィルムの中では永遠に残る。

しかし人生は巻き戻らない。

アルフレードは死ぬ。パラダイス座は壊される。エレナとの青春は戻らない。トト自身も、映画に目を輝かせていた少年には戻れない。

この当たり前の事実を、『ニュー・シネマ・パラダイス』は2時間かけて、ゆっくり心に沁み込ませていく。そして、昔へ戻れないことを受け入れたうえで、それでも人生は悪くなかったと歌い上げる。

トトは故郷を捨てた。アルフレードの言葉に従い、列車に乗った。母の老いも、アルフレードの晩年も、パラダイス座の衰退もほとんど知らない。

人生の損得だけを計算すれば、サルヴァトーレは多くのものを失っている。その喪失があったから映画監督サルヴァトーレがいる。エレナと結ばれていた人生と、映画監督になった人生。どちらが正しかったのか。答えはない。

人生には、何かを得ることで失うものがあり、何かを失うことで生まれるものもある。人は全部を持って生きることができない。

『ニュー・シネマ・パラダイス』が胸に刺さるのは、そこを知っているからだ。

少年トトにとって世界は可能性に満ちている。映画も観たい。アルフレードとも一緒にいたい。エレナとも結ばれたい。故郷も愛している。映画監督にもなりたい。全部欲しい。子どもの時間とは、まだ何も捨てなくていい時間なのだ。

だが大きくなるにつれ、人は何かを選び、そのたびに何かを失っていく。仕事を選べば、別の人生が消える。選んだ瞬間には、その意味が分からない。30年後になって初めて、「あの別れが人生を変えた」と知る。

だからアルフレードの愛情は残酷だ。普通なら、愛する人間にはそばにいてほしい。ところがアルフレードは逆をする。トトを追い出す。帰ってくるな、とまで言う。アルフレードはトトが大きくなるために、自分自身がトトの人生から消えることを選ぶ。

愛とは、そばに置くことだけではない。その愛情の深さは、受け取った瞬間には分からない。トトが本当の意味でアルフレードの愛を知るのは、アルフレードが死んでからだ。人は、愛されている最中には愛の大きさに気づけない。

人は親が死んでから思い出す言葉がある。友人と離れてから分かる優しさがある。なくなった店を見て、そこが自分の人生の一部だったと知る。

観客はトトの人生だけを見ているわけではない。自分の人生を見ている。アルフレードを見ながら、もう会えない誰かを思い出す。パラダイス座を見ながら、なくなった故郷の店や学校や映画館を思い出す。エレナを見ながら、結ばれなかった人を思い出す。トトの顔を見ながら、自分にも世界のすべてが新しかった時代があったことを思い出す。

観客自身の記憶が、『ニュー・シネマ・パラダイス』の続きを作るのだ。

これは映画ファンだけの映画ではない。人生を一度でも振り返ったことがある人の映画なのだ。そのすべてが最後の「キスシーン」に集約される。

アルフレードが残したフィルムに映っているのは、かつて神父によって切り取られた無数の接吻である。少年トトが観られなかった場面。映画から捨てられた断片。

アルフレードが最期にトトへ残したのは「完全な映画」ではない。失われたものだけを集めた映画である。

人は人生を振り返るとき、すべてを均等には思い出さない。残るのは断片だ。誰かの笑顔。別れ際の声。夏の匂い。駅のホーム。初めて入った映画館。好きだった人と交わした短い会話。もう一度見たいと思う、ごくわずかな瞬間だけが残る。

人生とは、ある意味で編集された映画なのだ。忘却という編集者が、ほとんどの場面を切り落とす。最後に残るのは、なぜ残ったのか自分でも分からない数秒間の記憶ばかりである。

アルフレードのフィルムも同じだ。切り落とされたキスだけがつながれている。

物語もない。登場人物も違う。映画としてはバラバラだ。それなのに、サルヴァトーレにとっては世界で一本しかない映画になる。

なぜなら、そこには少年トトが失った時間が入っているからだ。

映画は時間を取り戻せない。だが、失ったものへもう一度、触れさせることができる。

取り戻すことと、触れ直すことは違う。

ただ光が点滅し、昔のキスが次々と映る。そしてサルヴァトーレは笑い、泣く。あの涙は「昔は良かった」という涙ではない。人生を受け取った人間の涙だ。

失ったものも、得たものも、間違えたことも、会えなかった人も、選ばなかった人生も含めて、「これが自分の人生だった」と受け取る。

だから『ニュー・シネマ・パラダイス』は、郷愁の映画でありながら、過去へ逃げない。むしろ過去と別れるためにある。アルフレードがトトを駅から送り出したように、最後にはトト自身が少年時代を送り出す。

別れるから忘れるのではない。忘れないために、別れる。

ここに、人生への肯定がある。人生を肯定するとは、すべてがうまくいったと思い込むことではない。失敗も、別れも、後悔も、もう戻らない時間も含めて、自分の人生だったと認めることだ。

パラダイス座は、スクリーンの中ではなく、自分の記憶の中にある。

『ニュー・シネマ・パラダイス』がこれほど愛されるのは、映画という光を使って、失われていく人生を愛する映画だからだ。

戻ってきたものを見つめて、人はようやく気づく。失ったから、なかったことになるのではない。終わったから、意味がなくなるのでもない。愛した時間は、終わったあとも人生の一部として残り続ける。

そのことを、これほど優しく、これほど映画的に教えてくれる作品は他にない。

『ニュー・シネマ・パラダイス』は、映画へのラブレターである以上に、過ぎ去ってしまった自分の人生へのラブレターなのである。

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映画音楽レビュー:音楽は、物語より先に「失われた時間」を知っている

『ニュー・シネマ・パラダイス』は、始まった瞬間から泣ける。まだアルフレードは登場していない。少年トトも、パラダイス座も、エレナも出てこない。何が失われたのか、観客は何も知らない。

映っているのは、シチリアの青い海と、窓辺に置かれた鉢。そして、エンニオ・モリコーネとアンドレア・モリコーネの音楽だけである。

それなのに、なぜか懐かしい。自分はこの村に住んだこともない。アルフレードにも会ったことがない。パラダイス座で映画を観たこともない。それでも、あの海を見ていると「帰ってきた」という感覚がある。

ここにモリコーネの凄さがある。普通、映画音楽は物語が起こったあとに感情を補強する。誰かが死ねば悲しい音楽が流れ、恋が始まれば美しい旋律が流れる。

『ニュー・シネマ・パラダイス』は逆だ。音楽が、物語より先に記憶を作ってしまう。

まだ何も知らない観客に、「これは、失われてしまった何かを思い出す映画なのだ」と身体で理解させる。

オープニングの海が美しいから泣けるのではない。海は何も語らない。青く、広く、静かにそこにあるだけだ。むしろ重要なのは、あまりにも何も起こらないことだ。

人間は年老いる。町は変わる。映画館はなくなる。愛した人はいなくなる。それでも海だけは、昔と同じように光っている。人がいなくなったあとも、風景は残る。この残酷なほどの静けさに、モリコーネの旋律が重なる。何も起こっていないのに泣ける。物語が始まる前から、映画はすでに喪失の後にいる。

有名なメインテーマ「Cinema Paradiso」も、不思議な曲だ。聴いていると胸は締めつけられる。しかし絶望ではない。温かい。どこか明るささえある。それなのに泣ける。

この矛盾が、『ニュー・シネマ・パラダイス』そのものなのだ。

失ったものが美しかったからこそ、喪失は悲しい。悲しいのは、そこに幸福があったからだ。「Cinema Paradiso」の旋律には、その幸福と喪失が同居している。聴いていると、「楽しかった」と「もう戻れない」が同時にやってくる。

人間が本当に泣くのは、悲しいときだけではない。むしろ、幸せだった時間が過去になったと知ったときに泣く。モリコーネの音楽は、その複雑な涙を旋律にしている。

『ニュー・シネマ・パラダイス』の音楽には、何度聴いても不思議な既視感がある。

初めて聴いたはずなのに、昔から知っていたような気がする。それは旋律が必要以上に複雑ではないからだ。

音楽が前へ前へと主張するのではなく、ゆっくり戻ってくる。モリコーネの旋律は、記憶のように現れ、膨らみ、離れていく。だから音楽を「聴いている」というより、昔のことを思い出させられている感覚になる。

画面にはトトの少年時代が映っている。だが、モリコーネの旋律を聴いているうちに、観客は自分の少年時代を思い出している。トトが映画館へ走っていく姿から、自分が夢中になった何かを思い出す。アルフレードの顔から、もう会えない人を思い出す。

故郷の広場から、自分が育った町を思い出す。映画の記憶と、自分の記憶が重なっていく。だから『ニュー・シネマ・パラダイス』は、途中から「他人の回想」を観る映画ではなくなる。いつの間にか、自分の人生を観ている。その変換を起こしている最大の力の一つが、モリコーネの音楽なのだ。

そして、「Cinema Paradiso」と並んで忘れられないのが「愛のテーマ」である。ずっと続いていたなら日常に溶けていたかもしれないものが、途中で終わったために記憶の中で永遠になる。モリコーネのラブテーマには、その「終わったから残る」という逆説がある。

何かの拍子に、記憶は上映を始める。その瞬間には昔の感情まで戻ってくる。作品の外側にある、観客の人生まで鳴らしてしまう。

ニューシネマ・パラダイスとは、映画作品であり、モリコーネが鳴らす鐘のタイトルである。

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『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』〜黄昏に輝く寅さんの愚直な優しさ

『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』〜黄昏に輝く寅さんの愚直な優しさ

『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』は、1976年公開の日本映画。山田洋次監督によるシリーズ第17作。

タイトルの「夕焼け小焼け」は、龍野出身の詩人・三木露風の作詞による童謡『赤とんぼ』に由来し、作中では市長室の額、観光課長の案内、防災無線のメロディにまで響く。作品全体が「帰郷」と「黄昏」の情感で統一され、寅さんは芸術と生活、理念と現実の狭間で、他者への思いやりという一つの答えを選び取る。

スタッフ

  • 監督:山田洋次
  • 脚本:山田洋次、朝間義隆
  • 音楽:山本直純
  • 撮影:高羽哲夫
  • 編集:石井巌
  • 配給:松竹
  • 公開:1976年7月24日/109分

今作ではオープニング曲の2番の歌詞が変わっている。

当てもないのにあるよな素振り それじゃ行くぜと風の中 止めに来るかと後振り返りゃ 誰も来ないで汽車が来る 男の人生一人旅 泣くな嘆くな 泣くな嘆くな影法師 影法師

キャスト

『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』〜黄昏に輝く寅さんの愚直な優しさ

  • 車寅次郎:渥美清
  • 芸者ぼたん:太地喜和子
  • 志乃:岡田嘉子
  • 池ノ内青観:宇野重吉
  • さくら:倍賞千恵子
  • 観光係員・脇田:寺尾聰
  • 鬼頭:佐野浅夫

宇野重吉と寺尾聰の親子共演が実現した作品である。

あらすじ

冒頭、寅次郎は旅の宿で『ジョーズ』さながらの悪夢を見る。久々に「とらや」へ戻るも、満男の入学祝をめぐる内輪揉めで家を飛び出し、上野の焼き鳥屋で出会った無銭飲食の老人を救う。老人は横柄な客人として一泊し、謝礼に落書きのような絵を残す。半信半疑で神保町の古書店に持ち込むと七万円の値がつく。老人は日本画壇の巨匠・池ノ内青観であった。

ほどなく寅さんは播州龍野へ。市に招かれた青観と再会し、接待の席で芸者・ぼたんと出会う。親しくなって別れたのち、柴又に戻った寅の前に、ぼたんが突然現れる。貯めた二百万円を悪辣な客・鬼頭に騙し取られたという。寅さんは奔走するが、法にも暴にも頼れない壁に突き当たる。最後に寅は青観の元を訪ね、ぼたんが売れる絵を描いてほしいと直訴。芸術の理念を掲げ渋る青観に、寅は不器用な怒りをぶつけて去る。

やがて龍野のぼたんの家に、牡丹の絵が届く。市は二百万円での譲受を申し出るが、ぼたんは「一生の宝物」として手放さない。寅は東京の空を見上げ、青観に詫びと感謝を捧げる。夕焼けの色に染まりながら、物語は人の心の温度だけを確かに残す。

ロケ地

兵庫県たつの市(龍野橋、龍野公園、武家屋敷跡、中原邸、梅玉旅館〈宴会〉、国民宿舎「赤とんぼ荘」前、ヒガシマル醤油第二工場 ほか)

東京都:台東区上野(焼き鳥屋周辺)、千代田区(神保町・大雅堂)、足立区(西新井大師・啖呵売)、港区赤坂(鬼頭のマンション)

映画レビュー:『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』

『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』〜黄昏に輝く寅さんの愚直な優しさ

『寅次郎夕焼け小焼け』は、寅さん映画の中でも「芸術」と「生活」、そして「愛」と「金」という、人間存在の根源的な対立を鮮やかに描き出した一篇である。そこに横たわるのは、ただの浪花節や人情話ではなく、「生きることは何を価値とするか」という問いである。

物語に登場する青観画伯は、芸術を「金のためではない」と言い切る。ここには「純粋芸術」の理念が響くが、同時にそれは、現実の痛みを救えないという限界も示される。対して寅次郎は、芸術を資産と見なし、ぼたんを助けるために絵を求める。芸術を「生活を守る道具」として差し出せ、という寅さんの物言いは、芸術家のプライドを逆撫でするが、その背後には「人が人を救うにはどうすればいいのか」という切実な思いがある。ここで衝突しているのは、芸術の理念と人間の生存であり、理念は現実に試される。

ぼたんの200万円をめぐるエピソードは、「金は人を縛るが、同時に人を救う力も持つ」という逆説を浮かび上がらせる。

それは、寅さんの愚直な思いやりだ。寅さんは、芸術や金の価値を超えて、ただ人を救いたいという衝動から動く。無鉄砲で、粗野な行為こそが、ぼたんの心を支えた。ぼたんが涙ながらに「幸せだ」と口にするのは、絵が手に入ったからではなく、寅さんが一心に自分を思ってくれたという想いに向けられたものである。

終盤、ぼたんが「絵を絶対に譲らない。一生の宝物にする」と言うとき、それは芸術作品の経済的価値を称える言葉ではない。その絵には寅さんの思いやりが宿っているからこそ、かけがえのないものになった。芸術が人を救うのではなく、人の思いやりが芸術に命を与える。この逆転こそが本作の核心である。

寅さんは、夕焼けのような存在である。陽の光が落ちていく儚さと、にじむ温もり。そのどちらも抱えながら人と関わり、やがて去っていく。寅さんの愚直さは不完全でありながら、だからこそ他者を照らす。

『寅次郎夕焼け小焼け』は、芸術でも金でもなく、人の思いやりが人を生かすのだという真理を描き出す。夕焼けの一瞬を「宝物」と呼べるのは、そこに人と人との心が触れ合った証があるからである。

マドンナ・太地喜和子(芸者ぼたん)の魅力

『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』〜黄昏に輝く寅さんの愚直な優しさ

ぼたんは、豪快さと傷つきやすさを同居させる存在だ。宴席での気っ風の良さは、自尊の形であり同時に弱さを隠す鎧でもある。彼女が見せる涙は、金の喪失よりも、人の信義が踏みにじられたことへの痛みの涙だ。だからこそ、寅の不器用な思いやりに触れた瞬間、ぼたんは「生きる力」を取り戻す。

太地喜和子は、笑い声の潤いと目元の影で、この二重性を立ち上げる。牡丹の絵を「絶対に譲らへん」と言い切る場面で、ぼたんは被害者の位置を降り、人としての誇りを取り返す。あの宣言は、経済の言葉を超えて自分の生を所有するという意思表明である。

寅さんの優しさに居場所を得て、芸者「ぼたん」は一人の女「ぼたん」として立ち上がる。夕焼けの色が消えていくように、恋は成就しない。それでも彼女の胸には、譲らない宝物と、帰るべき心の方角が残った。そこに、美しさの核心がある。

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男はつらいよの傑作シリーズ

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『ドラゴン怒りの鉄拳』〜セリフを持たない革命 、映画の文法を変えた肉体

『ドラゴン怒りの鉄拳』〜セリフを持たない革命 、映画の文法を変えた肉体

『ドラゴン怒りの鉄拳』(原題:精武門)は、1972年に公開された香港映画。主演はブルース・リー。『ドラゴン危機一発』に続く第2作であり、香港公開後わずか2週間で興行記録を更新、アジア全域に衝撃を与えた。

20世紀初頭の上海を舞台に、師の死の真相を追う青年・陳真が、屈辱と怒りを引き受けながら自らの身体で答えを出していく姿を描く。

スタッフ

『ドラゴン怒りの鉄拳』〜セリフを持たない革命 、映画の文法を変えた肉体

  • 監督:ロー・ウェイ
  • 脚本:ロー・ウェイ
  • 製作:レイモンド・チョウ
  • 音楽:ジョセフ・クー
  • 撮影:チェン・チンチュー
  • アクション指導:ハン・インチェ
  • 製作:嘉禾有限公司/四維影業公司
  • 配給:ゴールデン・ハーベスト
  • 公開:1972年3月22日、1974年7月20日(日本)
  • 上映時間:102分(日本初公開版)

この作品からブルース・リーも製作に関わるようになり、トレード・マークともなった怪鳥音とヌンチャクが初めて登場する。

『ドラゴン怒りの鉄拳』〜セリフを持たない革命 、映画の文法を変えた肉体

舞台は上海だが、撮影は香港のセット撮影で行われた。

キャスト

『ドラゴン怒りの鉄拳』〜セリフを持たない革命 、映画の文法を変えた肉体

  • 陳真(チェン):ブルース・リー
  • 霍麗児(ユアン):ノラ・ミャオ
  • 師範:ティエン・フォン
  • 鈴木寛:橋本力

ブルース・リーは、たった独りでアメリカン・ニューシネマを超えた。揺るぎない緊張感、はち切れんばかりの情熱、荒々しい脚本、歌舞伎の見栄、人を殺めたあとに見せる哀しみ、そして理不尽への怒りを爆発させる死への暴走。たった独りで、しかもセリフを必要とせずアメリカン・ニューシネマを超えてしまった。

あらすじ

『ドラゴン怒りの鉄拳』〜セリフを持たない革命 、映画の文法を変えた肉体

清朝末期の上海。精武館の創始者であり武術の大家・霍元甲が謎の死を遂げる。遠方から戻った愛弟子・陳真は、師の死に疑念を抱く中、日本人柔道場による侮辱に怒り、単身で乗り込む。対立は激化し、やがて師の死が陰謀であったことが明らかになる。官憲から追われ、精武館の存続と引き換えに差し出されようとする陳真は、最後に自らの身体で答えを示す選択をする。

映画評:ブルース・リーは、たった独りで時代になった

『ドラゴン怒りの鉄拳』〜セリフを持たない革命 、映画の文法を変えた肉体

アメリカン・ニューシネマの主人公たちは、二人で走る。

『俺たちに明日はない』のボニーとクライド。『イージー・ライダー』のワイアットとビリー。『真夜中のカーボーイ』のジョーとラッツォ。

『スケアクロウ』のマックスとライオン。

既存の社会からはみ出した者たちは、隣にいる誰かと孤独を分け合いながら、逃走し、抵抗し、やがて滅びていく。

二人であることには意味がある。

一人では抱えきれない怒りを分ける。絶望を会話に変える。片方が迷えば、もう片方が前へ進ませる。二つの身体が並ぶことで、社会から取り残された者たちの孤独は、初めて物語として回り始める。

だが『ドラゴン怒りの鉄拳』には、ブルース・リーしかいない。

仲間はいる。恋人もいる。精武館という共同体もある。しかし、怒りも、屈辱も、反抗も、破滅も、最終的にはすべて陳真ひとりの身体へ集中していく。誰かと感情を分け合うのではない。誰かに背中を預けるのでもない。陳真は独りで時代を背負い、独りで社会と衝突し、独りで滅びへ向かう。

これは、単にバディ映画から一人を減らしたという話ではない。

普通なら二人以上の人物に分担させる感情を、ブルース・リーは一つの身体に同居させている。怒る者と、それを止める者。戦う者と、戦いの虚しさを知る者。復讐へ進む者と、その先に死しかないと理解する者。そのすべてを、ブルース・リー独りが演じている。だから陳真の身体には、常に矛盾がある。

拳は前へ出ようとする。しかし顔には哀しみが残る。敵を倒した瞬間にも、勝利の喜びはない。怒りを爆発させながら、怒りによって自分も壊れていくことを知っている。ブルース・リーのアクションが単なる格闘技の披露に見えないのは、動きの中に「進みたい身体」と「もう戻れない心」が同時に映っているからだ。

アメリカン・ニューシネマの名優たちは、ふたりの関係によって社会への反抗を表現した。会話し、笑い、喧嘩し、裏切り、支え合う。その関係の変化が、時代への違和感を浮かび上がらせた。

ブルース・リーには、その会話の相手すら必要ない。

拳を構えるだけで、社会との対話が始まる。背筋を伸ばすだけで、服従への拒絶になる。相手を睨むだけで、歴史的な屈辱が画面に立ち上がる。ブルース・リーの身体は、登場人物の身体であると同時に、踏みつけられてきた人々の感情そのものになる。

ここに、ブルース・リーの途方もない大きさがある。

世界最高峰のアメリカ映画でさえ、反体制の怒りや滅びの美しさを描くために、二人以上のスターを必要とした。二人の視線、二人の人生、二人の死を組み合わせることで、ようやく一つの時代を表現した。

ところがブルース・リーは、たっ独りでそれを成立させた。

陳真は、誰かと逃げない。社会の外へ出る道も探さない。理不尽な世界の中心へ、正面から歩いていく。逃走ではなく突進であり、会話ではなく衝突である。ニューシネマの主人公たちが車やオートバイで社会から遠ざかっていったのに対し、陳真は自分の足で社会へ近づいていく。近づけば近づくほど、生き残る可能性は失われる。それでも止まらない。

この止まれなさが、アメリカン・ニューシネマの精神そのものだ。

反抗とは、勝てるから立ち向かうことではない。負けると分かっていても、受け入れられないものを受け入れないことだ。滅びの美学とは、華やかに死ぬことではない。生き延びるために自分を曲げるくらいなら、最後まで自分の姿勢を変えないことである。

陳真の最後の飛び蹴りは、敵を倒すための攻撃ではない。結果だけを考えれば、あまりにも無謀である。銃口の前に飛び込めば、未来はない。だが、あの瞬間に陳真が守ろうとしているのは命ではない。屈辱に膝をつかなかった自分の形だ。

その選択を、ブルース・リーは台詞で説明しない。助走し、跳び上がり、全身を弾丸に変える。映画はそこで静止する。陳真の生死より先に、抵抗の姿だけを永遠に残す。

怒りを飲み込んできた時代。侮辱に耐えてきた社会。声を奪われた人々。そうした無数の感情が、一つの身体へ流れ込む。陳真が一人であるからこそ、その孤独は個人的なものを超える。隣に誰もいない身体は、逆に数え切れない人々の代わりになれる。

ブルース・リーはアメリカン・ニューシネマを模倣したのではない。二人でしか運べない時代の重さを、一人で持ち上げてしまった。

拳が強かったからではない。速かったからでもない。ブルース・リーという人間が、世界と対等に向き合えるほど大きな身体を、スクリーンの中に作り上げたからだ。

映画レビュー:怒りは拳ではなく、立ち姿に宿る

『ドラゴン怒りの鉄拳』〜セリフを持たない革命 、映画の文法を変えた肉体

『ドラゴン怒りの鉄拳』が特別なのは、怒りを発散する映画ではなく、怒りを引き受ける映画だからだ。陳真の怒りは派手だが、感情に溺れない。泣き叫ばない。演説もしない。代わりに、立つ。殴る。止まる。呼吸する。
ブルース・リーの動きは、感情の説明ではなく、感情の処理そのもの。この映画の世界では、屈辱は日常に沈殿している。看板、言葉、視線。誰もが知っているが、誰も止めない。陳真が拳を振るうのは、勝つためではない。沈殿したものを一度、表面に引き上げるためだ。その一撃一撃は、相手よりも、空気を殴っている。
重要なのは、陳真が「正しい側」に立たない点である。組織を代表しても、国家を背負ってもいない。師の死という、きわめて私的な喪失から動き出す。その私性が、やがて公共の緊張へと波及していく。大義は後から付いてくる。最初にあるのは、個人の耐えがたい感覚だ。終盤、官憲の銃口を前にした陳真の選択は、勝利でも敗北でもない。逃走でも服従でもない。姿勢の選択である。
ここで映画は、解決を提示しない。未来を保証しない。ただ、立ち姿だけを刻む。銃声の前にある一瞬の静止が、この映画の核心だ。ブルース・リーは、力を誇示しない。速さを見せびらかさない。身体は、世界に対する一つの文法である。
殴る前の間合い、踏み込む足、止まる背中。『ドラゴン怒りの鉄拳』は、復讐の物語ではなも怒りの解消でもなく、怒りと共に立ち続けることを選んだ一人の姿を、最後まで手放さない映画。だから半世紀を経ても、拳の音より先に、あの立ち姿が胸に残る。
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この映画は、『聖者の光進』に登場します。日本の映画発祥の地・大阪なんば。1970年代の道頓堀を舞台に、映画に魅せられた松本光二が、人生の師となる映写技師・春山タケシと出逢い、街と映画館の深部へ踏み込んでいく。看板絵師、活弁士、もぎり、飛田の遊女、宗右衛門町のホステスとの交流や恋を通して、光二は、自分の言葉と生き方を見つけていく。映画と街と人情が濃密に響き合う群像小説です。

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『うわさの男』(原題:Everybody's Talkin')〜心のマイアミへ、太陽に届かなかった男たちは、永遠に歩き続ける

『うわさの男』(原題:Everybody's Talkin')

  • 作者:フレッド・ニール
  • 歌手:ハリー・ニルソン
  • 制作:1968年6月
  • 長さ:約2分7秒
  • 映画:『真夜中のカーボーイ』(1969年)、小説『聖者の光進』(2026年)

『うわさの男』(原題:Everybody's Talkin')は、1969年公開の映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌として知られる楽曲。劇中で繰り返し流れ、主人公ジョー・バックの孤独、夢、逃避、そして都会に飲み込まれていく感覚を象徴する映画音楽となった。

映画の影響によってハリー・ニルソンの歌唱版が広く知られているが、もともとはフレッド・ニールが作詞・作曲した楽曲である。オリジナルは、1966年12月に発売されたフレッド・ニールのアルバム『Fred Neil』に収録された。

その後、ハリー・ニルソンが1968年6月にシングルとしてカバー。翌1969年5月25日に映画『真夜中のカーボーイ』が公開されると、同曲は再びシングルとして発売され、映画とともに大きな注目を集めた。以後、スティーヴィー・ワンダーやB・J・トーマスなど、多くのアーティストによってカバーされている。

『うわさの男』(Everybody's Talkin')の歌詞

Everybody's talkin' at me
I don't hear a word they're sayin'
Only the echoes of my mind
People stoppin', starin'
I can't see their faces
Only the shadows of their eyes

I'm goin' where the sun keeps shinin'
Through the pourin' rain
Goin' where the weather suits my clothes
Bankin' off of the northeast winds
Sailin' on a summer breeze
And skippin' over the ocean like a stone

Wah, wah-wah-wah-wah
Wah-wah-wah-wah, wah-wah-wah
Wah

I'm goin' where the sun keeps shinin'
Through the pourin' rain
Goin' where the weather suits my clothes
Bankin' off of the northeast winds
Sailin' on a summer breeze
And skippin' over the ocean like a stone

【和訳】

みんなが俺に話しかけてくる
でも、その言葉は何も耳に入らない
聞こえるのは、自分の心に響くこだまだけ
人々が立ち止まり、じっと見つめてくる
彼らの顔までは見えない
ただ、その瞳の影が見えるだけ

俺は行くんだ、太陽が輝き続ける場所へ
土砂降りの雨を抜けて
今の服装が似合う天気の場所へ
北東の風を捉えて進み
夏のそよ風に乗って帆を張り
水面を跳ねる石ころのように、海を渡っていく

俺は行くんだ、太陽が輝き続ける場所へ
土砂降りの雨を抜けて
今の服装が似合う天気の場所へ
北東の風を捉えて進み
夏のそよ風に乗って帆を張り
水面を跳ねる石ころのように、海を渡っていく

音楽レビュー:太陽を信じた男たちと敗北の祝祭

『うわさの男』(原題:Everybody's Talkin')

「うわさの男」におけるニルソンの声は、明るく軽やかでありながら、その奥にかすかな寂しさを漂わせている。力強く感情を押し出すのではなく、風に乗るような透明な歌声によって、ジョー・バックの夢、孤独、逃避を浮かび上がらせた。その声があったからこそ、曲は単なる旅立ちの歌ではなく、都会をさまよう者たちの心を映す映画音楽となった。

『うわさの男』は、旅立ちの歌であるが、希望に満ちていない。明るい陽射しの中を進んでいるように聴こえながら、どこにも居場所を見つけられない者の逃避の歌である。

映画『真夜中のカーボーイ』において、この曲は実に皮肉な響きを持っている。メロディは軽い。風通しがよく、どこか南へ向かうような開放感がある。だが、画面に映るのは、夢を抱いてニューヨークへ向かうジョー・バックの敗北である。自分の若さ、身体、魅力、そして男らしさを信じているが、その信念は強さというより、まだ現実を知らない者の薄い鎧。

『うわさの男』は、その鎧の表面で鳴っている。

この曲の美しさは、明るさと孤独が矛盾せずに同居しているところにある。普通、孤独は暗い音で描かれる。低い弦、沈むピアノ、重い沈黙。だが『うわさの男』は、軽やかなギターとニルソンの澄んだ歌声が、むしろ孤独を透明にする。悲しいと叫ばないからこそ、悲しみが深くなる。寂しいと訴えないからこそ、誰にも届かない感じが残る。

人々は話している。街はざわめいている。だが、その言葉は主人公に届かない。

ここには、都会の本質がある。都会とは、人が多い場所ではない。言葉が多すぎるために、かえって誰の声も届かなくなる場所である。人は隣にいる。視線もある。会話もある。だが、そこに理解はない。『うわさの男』の歌詞にある「みんなが話しかけてくるのに、何も聞こえない」という感覚は、都会的孤独の核心を表現している。

孤独とは、ひとりでいることではない。誰かに囲まれながら、自分だけが世界から少しずれていると感じることである。

ジョー・バックは、テキサスからニューヨークへやって来る。ニューヨークは、成功の場所であり、夢の場所であり、自分が別の何者かになれる場所である。だが、映画が描くニューヨークは、夢を迎え入れる街ではない。夢を商品にし、消費し、すり減らしていく。ジョーの明るさは、その街に入った瞬間から少しずつ傷ついていく。

曲はジョーを慰めるようでいて、同時に幻想を照らし出してしまう。相棒のラッツォは、太陽が輝き続ける場所へ行きたい。雨を抜け、風に乗り、海を渡る石ころのように遠くへ行きたい。その願いは美しい。だが、どこか抽象的で、現実の地面を持っていない。目指しているのは具体的な土地ではなく、「ここではないどこか」である。

人間はしばしば、場所を変えれば自分も変われると信じる。だが、本当に逃れたいものは、たいてい自分の内側にある。ジョーがニューヨークへ向かうとき、故郷から離れているのではない。自分自身の空白から逃げている。自分には価値があるはずだ、自分は愛されるはずだ、自分は選ばれるはずだ。その思いだけを抱えて、巨大な街へ飛び込んでいく。

『うわさの男』は、その「はずだ」の音楽である。

だからこの曲は、自由の歌でありながら、どこか頼りない。旅に出る歌でありながら、足元が浮いている。世界へ向かって開かれているようで、実は自分の心の中へ閉じていく。人々の声が聞こえないということは、外部との接続が切れているということでもある。ジョーは都会の中を歩いているようで、本当は自分の夢の中を歩いている。

映画音楽としての『うわさの男』が特別なのは、主人公の気分を単純に代弁しないところにある。この曲は、ジョーとラッツォの希望を肯定しているようにも聴こえる。だが同時に、その希望の危うさも響かせている。明るいメロディの奥で、「その夢は本当に君を救うのか」と問いかけている。

この曲は夢の崩壊を嘆いているのではない。ジョーとラッツォが、成功から見放されながらも、自分たちだけの夢を手放さずに歩く姿を祝福している。

ふたりが目指す太陽の場所は、アメリカンドリームの楽園ではない。国家や社会の物語からこぼれ落ちた者だけが見る、心のマイアミである。そこへ辿り着けなくても、夢を語り、ふたりで向かおうとした時間は消えない。

『うわさの男』の軽やかさは、惨めさも孤独も抱えたまま、それでも前へ進む者たちの生を輝かせるためにある。

『真夜中のカーボーイ』は、成功者の神話を拒み、敗者として生きて滅びる過程を肯定した。その静かな反逆と、都会の荒野に残されたふたりの足跡が、世界中の人々を魅了してきた。

『うわさの男』とは、太陽へ辿り着いた者の歌ではない。太陽を信じて歩いた“噂の男たち”を、永遠に映画の中で生かし続ける歌である。

歌手:ハリー・ニルソン

ハリー・ニルソン(Harry Nilsson、1941年6月15日 - 1994年1月15日)は、アメリカのシンガーソングライター。1960年代後半から1970年代にかけて活躍し、「うわさの男」「ウィズアウト・ユー」「ワン」「孤独のニューヨーク」などの曲を残した。

ニューヨーク市ブルックリンに生まれ、音楽好きの母や叔父の影響を受けて育つ。銀行員として働きながら作曲活動を続け、1964年にレコードデビュー。当初はソングライターとして活動し、フィル・スペクターやモンキーズなど、多くの音楽家から才能を認められていった。

ニルソンの最大の魅力は、甘さと哀愁を併せ持つ歌声にある。豊かな表現力から「七色の声を持つヴォーカリスト」とも呼ばれ、ジョン・レノンからも高く評価された。

1968年、フレッド・ニール作の「うわさの男」をカバー。翌1969年、映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌に起用され、全米6位のヒットとなった。

1971年には、バッドフィンガーの楽曲をカバーした「ウィズアウト・ユー」が全米・全英1位を記録。グラミー賞を2度受賞し、歌手としてもソングライターとしても高い評価を得た。

晩年は健康問題を抱え、1994年1月15日に心不全のため52歳で死去。没後には、リンゴ・スター、ブライアン・ウィルソン、ランディ・ニューマンらが参加したトリビュート・アルバムが制作された。

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『サタデー・ナイト・フィーバー』〜踊りは翼ではなく呼吸、ブルックリンの風、マンハッタンの光

『サタデー・ナイト・フィーバー』〜踊りは翼ではなく呼吸、ブルックリンの風、マンハッタンの光

『サタデー・ナイト・フィーバー』(原題:Saturday Night Fever)は、1977年公開のアメリカ映画。監督はジョン・バダム、主演はジョン・トラボルタ。ブルックリンの若者が、週末の夜だけディスコの王になる。ビージーズを中心にしたサウンドトラックは社会現象になり、サウンドトラック『サタデー・ナイト・フィーバー』が24週1位となった。

スタッフ

『サタデー・ナイト・フィーバー』〜踊りは翼ではなく呼吸、ブルックリンの風、マンハッタンの光

  • 監督:ジョン・バダム
  • 脚本:ノーマン・ウェクスラー
  • 製作:ロバート・スティグウッド
  • 音楽:ビー・ジーズ/デヴィッド・シャイア
  • 撮影:ラルフ・D・ボード
  • 編集:デイヴィッド・ローリンズ
  • 配給:パラマウント映画/CIC
  • 公開:1977年12月14日(アメリカ)/1978年7月22日(日本)
  • 上映時間:118分

この映画は、1976年にニューヨーク・マガジンに掲載されたイギリス人作家ニック・コーンによる記事「Tribal Rites of the New Saturday Night」に着想を得た。最初は『サタデーナイト』という題で企画が転がり始めた。しかし、ベイ・シティ・ローラーズが1976年に同名の「サタデー・ナイト」をヒットさせていたため、映画を『サタデーナイトフィーバー』に変更した。

本作はニューヨーク州ブルックリンで全編ロケ撮影。最初は、『ロッキー』のジョン・G・アヴィルドセンが監督として採用されたが、撮影開始1ヶ月前に「コンセプトの不一致」を理由にジョン・バダムに交代された。

キャスト

『サタデー・ナイト・フィーバー』〜踊りは翼ではなく呼吸、ブルックリンの風、マンハッタンの光

  • トニー:ジョン・トラボルタ
  • ステファニー:カレン・リン・ゴーニイ
  • ボビー:バリー・ミラー
  • ジョーイ:ジョセフ・カリ
  • ダブルJ:ポール・ペイプ
  • アネット:ドナ・ペスコウ

制作費の制約もあり、ジョン・トラボルタ以外のキャストの多くは無名で、この映画がデビュー作になった俳優も多い。日本では本作の影響で「フィーバーする」という言い方が広まった。

ちなみに、2010年に双子の弟とニューヨークを旅したとき、この映画の影響でブルックリン・ブリッジへ行った。橋の上から眺めたマンハッタンの摩天楼は、今も人生でトップ3に入る絶景である。あれを超える世界の眺めは、そう多くない。

あらすじ

『サタデー・ナイト・フィーバー』〜踊りは翼ではなく呼吸、ブルックリンの風、マンハッタンの光

ブルックリンのベイリッジ地区に住むトニー・マネロは、実家で暮らし、金物店で働いている。昼の彼は普通だ。だが週末の夜、ディスコ「2001オデッセイ」に立つと、彼は拍手と視線を浴びる“別の自分”になる。

仲間たちと夜をうろつき、女性を追い、橋で無謀な遊びをする。近所の少女アネットはトニーに執着し、トニーは一度はダンスコンテストのパートナーを引き受けるが、やがてマンハッタンに憧れるステファニーに強く惹かれる。二人は練習を重ね、コンテストで優勝するものの、トニーは判定に差別の影を感じ、賞を他のカップルに譲る。

しかし夜は祝福だけで終わらない。仲間内の暴力や性的な逸脱が噴き出し、ついにボビーが橋から転落して死ぬ。嫌悪と幻滅を抱えたトニーは、落書きだらけの地下鉄でマンハッタンへ向かう。朝、彼はステファニーに謝り、ここから先を変えたいと言う。二人は、恋人ではなく友人として関係を結び直そうとする。

映画レビュー:なぜ踊るのか。橋はなぜそこにあるのか

『サタデー・ナイト・フィーバー』〜踊りは翼ではなく呼吸、ブルックリンの風、マンハッタンの光

『サタデー・ナイト・フィーバー』は、ダンス映画の顔をしながら、実際には「息ができる場所」を探す映画だ。物語は派手に見えるが、足場はいつも現実に沈んでいる。貧しさ、家族、差別、そして「ここから出たい」という衝動。ディスコは楽園ではなく、現実の重さを一晩だけ別の形に変える避難所として置かれている。

この映画でダンスは、自己表現というより“呼吸”に近い。トニーは踊ることで自由になるのではない。踊ることで、ようやく自分の身体が自分に戻る。昼のトニーは、家族の期待と失業と宗教と男らしさのルールに押し潰されそうになっている。褒められるのは、賃上げとダンスだけ。トニーの価値は、生活の中では確認されない。だから週末の夜に、価値を取り返しに行く。

ディスコは別世界に見えるが、実際は現実の裏返しだ。みんなが光の下で強く振る舞うほど、暗い部分も一緒に連れてくる。仲間たちは連帯しているようで、弱った人間を守る仁義を持っていない。笑いながら境界線を踏み越え、誰かの傷を「ノリ」で片づけてしまう。夜の高揚は、人を解放すると同時に、人の幼さも暴く。

ブルックリン・ブリッジは「若さが自分の置き場を探すための、いちばん高い踊り場」である。ブルックリンには生活がある。家族がいて、仲間がいて、息苦しさもある。マンハッタンには夢がある。洗練、仕事、別の言葉、別のテンポ。橋はその二つを分ける線であると同時に、どちらにも属しきれない人間が、踏み入れるギリギリの国境線だ。

青春は「ここではないどこか」を欲しがるが、同時に、どこへ行っても自分を連れていってしまう。だから橋が青春の場所になる。橋の上は、出発でも到着でもない。まだ決まっていない時間が宙に浮いたまま流れている。トニーたちが橋へ行くのは、景色が綺麗だからだけではない。家の天井も、仲間内の序列も、宗教の視線も、いったん遠ざかる。風が強く、足場が硬く、空が広い。何者でもない自分を、何者かに変えたい衝動だけが残る。

この映画を観てブルックリン・ブリッジに行きたくなるのも、そこに物語の観光名所以上の感触があるからだ。橋は、若さの矛盾をそのまま立たせてくれる。行きたいのに怖い、変わりたいのに変われない、置いていきたいのに捨てられない。その全部を、橋はただ受け止める。ディスコが人工の光で現実を忘れさせる場所だとしたら、橋は自然の光と風で、現実を忘れずにいさせる場所だ。ブルックリン・ブリッジは、自分の人生を選び直すための、外気浴」のような空間になる。

トニーの部屋に貼られた『ロッキー』やブルース・リーや『セルピコ』のポスターも、ただの趣味ではない。強く、正しく、孤独に闘う男たちへの憧れだ。現実のトニーは、そうは振る舞いきれない。仲間の空気に流され、怒りを誤魔化し、取り返しのつかない場面で立ち尽くす。踊る姿が美しいのは、踊っている間だけは、その矛盾が一つの形にまとまるからだ。踊りは、トニーの中のバラバラを一瞬だけ整列させる。

ステファニーの部屋にマティスの《ジャズ》がある、という小さなディテールも効いている。ジャズは、即興で、ズレながら、でも前に進む音楽だ。マティスの《ジャズ》は、切り紙の色面でリズムを描く。彼女の憧れは、上品さというより、「自分で人生のテンポを決めること」に近い。トニーは彼女に惹かれながら、そのテンポについていけない。だから衝突する。恋愛を美談にせず、「違う世界を望む二人が、どう噛み合わないか」をちゃんと見せる。

トニーが優勝を拒み、賞を譲る場面は、何かが壊れた結果だ。勝つことの気持ちよさより、勝たせてもらった空虚さが勝った。拍手より、恥のほうが重くなった。初めて、夜のルールが現実の歪みとつながっていると気づく。

それでも最後が救いなのは、完璧に変わったからではない。変われない自分を、言葉にして差し出したからだ。謝る。関係を結び直す。それは、地味な修復。ダンス映画のラストとしては地味すぎるほど地味だが、ここに未来がある。

『サタデー・ナイト・フィーバー』は、輝くダンスフロアの映画ではなく、橋と地下鉄の温度の映画だ。踊りは、現実に押し返されながら、それでも一歩だけ前へ出るための、折れかけた心を折らないための、最小限の抵抗だ。

最後に流れるビージーズの「愛はきらめきの中に」は、堕ちた朝に似合う光を持っている。ディスコで鳴っていたときの曲は、高揚を支える装置だった。だが地下鉄を降り、ステファニーの部屋にたどり着き、キスという小さな許しに触れた瞬間、メロディが別の意味に変わる。

大きな夢の約束ではない。人生がすぐ良くなる保証でもない。それでも、今夜だけは呼吸ができる、という感覚。その“きらめき”は床の光ではなく、やっと誰かに届いた言葉の上に生まれる。踊りが終わっても、人生は続く。その続き方を、この曲が静かに抱きしめる。

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『男はつらいよ 寅次郎子守唄』〜家庭の外に立ち、家庭を育む、寅さんという“子守唄”の逆説

『男はつらいよ 寅次郎子守唄』

『男はつらいよ 寅次郎子守唄』は、1974年公開の日本映画。山田洋次監督によるシリーズ第14作であり、下條正巳が3代目おいちゃんを初めて演じた作品でもある。唐津・呼子で赤ん坊を預かる羽目になった寅さんが、柴又に連れ帰った子どもをめぐって騒動を巻き起こす。やがて、看護師・木谷京子(十朱幸代)やコーラス団長の大川弥太郎(上條恒彦)との交流を通して、家庭、親子、恋の意味を改めて照らし出す一篇である。

スタッフ

  • 監督:山田洋次
  • 脚本:山田洋次、朝間義隆
  • 製作:島津清
  • 音楽:山本直純
  • 撮影:高羽哲夫
  • 編集:石井巌
  • 配給:松竹
  • 公開:1974年12月28日/104分

ロケ地は群馬県や佐賀県など。

  • 群馬県富岡市(旧妙義町)上高田付近、安中市(旧松井田町)成就院
  • 佐賀県唐津市(唐津神社〈唐津くんち〉、呼子港、大村屋旅館、ストリップ小屋)
  • 東京都足立区(吉田病院、柳原銀座商店街、星和幼稚園、京成関屋駅)
  • 江戸川区(江戸川駅)

キャスト

『男はつらいよ 寅次郎子守唄』

  • 車寅次郎:渥美清
  • 木谷京子:十朱幸代
  • 大川弥太郎:上條恒彦
  • 踊子:春川ますみ
  • 佐藤幸夫:月亭八方
  • 諏訪さくら:倍賞千恵子
  • 車竜造:下條正巳
  • 車つね:三崎千恵子
  • 諏訪博:前田吟
  • タコ社長:太宰久雄
  • 源公:佐藤蛾次郎

この作品から、3代目おいちゃんとして、下條正巳が登場。第48作の最後まで演じた。

あらすじ

『男はつらいよ 寅次郎子守唄』

夢の中で“うぶすなの神”として赤ん坊を授ける寅さん。現実では、旅先の呼子で赤ん坊を押し付けられ、柴又に連れ帰って大騒動となる。病気の赤ん坊を病院に運んだことで、看護師・京子と出会い、やがて彼女に惹かれる寅さん。しかし、京子の心は、貧しく不器用ながら真摯な青年・大川へと傾いていく。寅さんは恋の指南役となり、自らの想いを抑えて二人を結びつけてしまう。やがて赤ん坊は父のもとへ戻り、京子も大川との結婚を迎える。寅さんはまた旅立つが、赤ん坊や若い二人の未来を見届けた後のその背は、どこか晴れやかであった。

レビュー:『男はつらいよ 寅次郎子守唄』

『男はつらいよ 寅次郎子守唄』

『寅次郎子守唄』は、寅さんが「一時的に親の代役を務める」ことから始まる。それは赤ん坊への深い愛情からではなく、置き去りにされた子を無下にできない人の良さと、マドンナ・京子と出会うためのキューピッドとしての道具である。

寅さんは京子に惹かれるが、マドンナの心は大川へと傾く。ここでも寅さんは、自ら進んで身を引くのではなく、酒の勢いと冗談交じりの指南で「うっかりキューピッド」になってしまう。寅さんは父にも夫にもならないまま、常に「中継点」として他者をつなぐ存在にとどまる。

赤ん坊を抱いたときも、京子と笑い合ったときも、寅さん自身が“中心”になることはない。その周囲で人と人が結ばれ、家庭が立ち上がっていく。寅さんは“外にいる者”でありながら、その外側から人間関係を成立させる奇妙な重力を放つ。

ここで「子守唄」という題名が示すのは、赤ん坊との騒動ではない。子守唄とは、本来、子を眠りに導く歌であるが、同時に「他者を安心させ、未来へと送り出す響き」でもある。寅さんの存在は、その子守唄のように働く。自分が子を育てるわけでも、恋を成就させるわけでもない。だが、周囲にいる人々は、不器用な仕草に揺さぶられ、笑い、涙しながら、それぞれの場所へと落ち着いていく。

『寅次郎子守唄』は、寅さんが自覚的に愛を与える物語ではない。むしろ、不器用さと成り行きが、他者の幸福を呼び寄せてしまう。その喜劇的なズレが、シリーズを照らす。家庭の中には決して入れない寅さん。だが、家庭が成立するために不可欠な“外”として存在し続ける寅さん。その矛盾が、この作品にユーモアと切実さを同時に与えている。

マドンナ・十朱幸代(木谷京子)の魅力

『男はつらいよ 寅次郎子守唄』

十朱幸代が演じる京子は、爽やかな強さと優しい眼差しを併せ持つ看護師である。彼女の魅力は、他者を癒す職業的役割を超えて、「人をまっすぐ見つめる誠実さ」にある。赤ん坊を気遣い、寅さんの茶化しに笑い、そして大川の不器用な告白に応える。そこに漂うのは、“愛される女”というより“人を信じる女”の像である。

十朱の存在感は、寅さんの恋を奪うのではなく、寅さんを「媒介者」へと導く。京子が大川を選んだのは、安定や常識ではなく、誠実な人間性への信頼である。その選択が説得力を持つのは、十朱の演技が「他者を愛するとは、相手の欠点ごと抱きしめることだ」と自然に伝えてしまうからだ。

京子は寅さんにとって成就しない恋の相手でありながら、“人を信じる愛”を体現する存在である。その魅力があったからこそ、寅さんの沈黙の愛はより美しく輝くのである。

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男はつらいよの傑作シリーズ

『古都』〜同じ花は同じ場所で咲けない、雪はふたりのあいだに降る

『古都』〜同じ花は同じ場所で咲けない、雪はふたりのあいだに降る

『古都』は、川端康成が1961年から1962年にかけて『朝日新聞』に連載した長編小説を、中村登監督が映画化した1963年公開の日本映画。京都の老舗呉服問屋で育った千重子と、北山杉の村で働く苗子。生き別れた双子の姉妹が、祇園祭の夜に再会し、それぞれの境遇と幸福を見つめ直していく。

主演の岩下志麻が千重子と苗子を一人二役で演じる。顔も声も同じでありながら、育った場所、身につけた言葉、身体の動き、他人との距離によって、まったく異なる二人の女性を作り上げた。

スタッフ

『古都』〜同じ花は同じ場所で咲けない、雪はふたりのあいだに降る

  • 監督:中村登
  • 脚本:権藤利英
  • 原作:川端康成
  • 製作:桑田良太郎
  • 音楽:武満徹
  • 撮影:成島東一郎
  • 製作・配給:松竹
  • 公開:1963年1月13日
  • 上映時間:105分

原作は「春の花」「尼寺と格子」「きものの町」「北山杉」「祇園祭」「秋の色」「松のみどり」「秋深い姉妹」「冬の花」という九つの章から成り、京都の一年と姉妹の心の動きが重ねられている。

映画でも、京都は観光地としてではなく、人の運命を包む大きな器として映される。古い町家、格子戸、呉服、織物、北山杉、祭りの灯、冬の雪。長い時間を受け継いできた町の中で、千重子と苗子の短い出会いが、ひときわ鮮やかに浮かび上がる。

春、夏、秋、冬と京都の四季を巡り、桜、北山杉、祇園祭、紅葉、雪。人が出会い、近づき、そして離れていく時間そのものとして画面を流れていく。

キャスト

『古都』〜同じ花は同じ場所で咲けない、雪はふたりのあいだに降る

  • 佐田千重子/苗子:岩下志麻
  • 佐田太吉郎:宮口精二
  • 佐田しげ:中村芳子
  • 水木竜助:吉田輝雄
  • 水木真一:早川保
  • 水木惣平:柳永二郎
  • 大友秀男:長門裕之
  • 真砂子:環三千世
  • 大友宗助:東野英治郎
  • 上七軒のおかみ:浪花千栄子
  • 番頭・植村:田中春男
  • 芸妓:千之赫子

岩下志麻は、呉服問屋の一人娘として大切に育てられた千重子に、静かな品と繊細さを与えている。一方、北山杉の里で働く苗子には、土地に根を張るような強さと、身分の違いを敏感に感じ取る慎ましさがある。

あらすじ

『古都』〜同じ花は同じ場所で咲けない、雪はふたりのあいだに降る

京都の老舗呉服問屋「丸太屋」の一人娘・佐田千重子は、父の太吉郎と母のしげに深く愛され、美しく成長した。

だが千重子は、自分が二人の実の子ではないことを知っている。二十年前の祇園祭の夜、神社の桜の下に置き去りにされ、太吉郎としげに拾われた子だった。

太吉郎としげは、千重子を実の娘以上に大切に育ててきた。千重子も二人を本当の両親として慕っている。しかし、出生の秘密は心の奥に小さな影を落としている。自分はどこから来たのか。なぜ捨てられたのか。考えても答えは出ない。

物語の初め、千重子は家の庭に立つ楓の古木を眺める。古い幹には二つのくぼみがあり、それぞれにすみれが根づいている。上下に離れて咲く二つのすみれを見ながら、千重子は二つの花が出会うことはあるのだろうかと思う。

春が過ぎ、夏が近づく。千重子は友人の真砂子とともに北山杉の里を訪れる。真っ直ぐに伸びた杉が並ぶ山里で、千重子は自分と瓜二つの娘を目にする。村で働く苗子だった。

一瞬、鏡を見ているような驚きが二人の間を走る。しかし、その場では互いの素性を確かめることができない。千重子は京都の町へ戻るが、自分と同じ顔をした娘の姿が心から離れなくなる。

やがて祇園祭の宵山が訪れる。大勢の人でにぎわう八坂神社の御旅所で、千重子は熱心に祈り続ける苗子を見つける。苗子は、生き別れた姉に会うために七度まいりをしていた。

二人は言葉を交わし、自分たちが双子の姉妹であることを知る。苗子の話によれば、二人の両親はすでに亡くなっていた。幼い二人を育てることができず、千重子だけが京都の町に置かれた。苗子は北山杉の村で育てられ、働きながら生きてきた。

千重子は、突然現れた妹の存在を喜ぶ。一方、苗子は再会を望みながらも、千重子との境遇の違いを強く意識している。千重子は裕福な商家の娘として美しい着物をまとい、大切に育てられてきた。苗子は山里で働き、粗末な暮らしに身を置いてきた。

同じ日に生まれ、同じ顔を持ちながら、二人の人生はあまりにも遠く離れていた。

夏、千重子は苗子を訪ねて北山の村へ向かう。突然の夕立に襲われると、苗子は自分の身体で千重子を雨から守る。華奢な千重子を、労働で鍛えられた苗子がかばう。その姿には、姉と妹という順序を越えた、身体の強さと優しさが表れている。

千重子は苗子を自分の家に迎えたいと考える。太吉郎としげも、苗子の存在を知ると温かく受け入れようとする。

しかし苗子は、簡単には申し出を受け取れない。千重子の家に入れば、丸太屋の暮らしを乱すかもしれない。自分の存在によって、千重子が築いてきた家族関係に影を落とすかもしれない。苗子は姉を慕うからこそ、姉の暮らしに踏み込むことを恐れる。

二人を取り巻く恋も、姉妹の存在によって複雑になっていく。

帯織職人の息子・大友秀男は、千重子に思いを寄せている。祇園祭の夜、苗子を千重子と見間違えたことから、秀男の心には二人の姿が重なり始める。

秀男は千重子のために帯を織る。しかし、その帯は苗子にも深く関わるものとなる。秀男の中で、千重子への憧れと苗子への親しみが分かちがたく結びついていく。

やがて秀男は苗子に結婚を申し込む。千重子は妹の幸福を願い、縁談を喜ぶ。しかし苗子は、秀男が本当に見ているのは自分なのか、それとも自分の顔に重なる千重子なのかを見抜いている。

誰かの代わりとして愛されることは、愛されないことよりも苦しい場合がある。苗子は、秀男の申し出を受け入れない。

千重子にも、水木真一や兄の竜助との縁談が持ち上がる。周囲はそれぞれの幸福を願うが、姉妹の再会によって生まれた心の揺れは、簡単に落ち着くことがない。

秋が深まり、やがて冬が来る。太吉郎としげの申し出により、苗子は一夜だけ丸太屋に泊まることになる。

生まれて初めて、二人は同じ屋根の下で眠る。長く奪われていた姉妹の時間が、冬の静かな夜にようやく戻ってくる。二人は互いの存在を確かめるように語り合い、寄り添う。

千重子は、苗子にずっと一緒にいてほしいと願う。だが苗子は、丸太屋に残ろうとはしない。千重子の家族に受け入れられても、育った時間まで同じになるわけではない。姉妹だからこそ近づきたい。しかし姉妹だからこそ、千重子の幸福を壊したくない。

翌朝、京都には淡い雪が降っている。苗子は、千重子と過ごした一夜を生涯の幸福として胸に収め、北山へ帰ることを決める。千重子は再び訪ねてほしいと願うが、苗子は静かに首を振る。

苗子は振り返らず、雪の中を歩いていく。姉妹はようやく出会えた。だが、出会ったからといって、失われた二十年が埋まるわけではない。同じ顔を持つ二人は、それぞれの場所へ戻り、別々の人生を生き続ける。

映画レビュー:幸福は、共にいる長さでは測れない

『古都』〜同じ花は同じ場所で咲けない、雪はふたりのあいだに降る

再会した二人が、なぜ一緒に暮らすことを選ばないのか。その静かな決断に、この映画の深さがある。

血は二人を結びつける。だが、血だけでは人生を同じものにできない。

千重子は京都の町で、呉服問屋の娘として育てられた。苗子は北山杉の里で、土と木と雨に触れながら生きてきた。

顔が同じだからこそ、違いはさらに痛く見える。双子は、同じ人間が二つに分かれた存在だ。しかし、千重子と苗子は、失われた半身ではなく、それぞれに完全な一人の人間である。

千重子に苗子が足りないわけではなく、苗子に千重子が足りないわけでもない。二人は互いによく似た他者として出会う。

庭の楓に咲く二つのすみれは、姉妹の姿を先取りしている。

同じ木に根を下ろしながら、上と下に離れて咲く。二つの花は互いを見ることができない。それでも、同じ幹を通る水を受け、同じ季節の光に触れている。

会えないことは、つながっていないことではない。人は、いつも同じ場所にいなければ愛し合えないわけではない。むしろ相手を本当に大切に思うからこそ、自分の願いを押しつけず、距離を受け入れなければならないことがある。

苗子が丸太屋に残らないのは、千重子の人生を守ろうとしているからだ。その決断を美しい自己犠牲として片づけることもできない。苗子の選択には、時代や家柄が作った見えない壁がある。本当は一緒に暮らしたいのに、それを望んではならないと自分に言い聞かせている部分もある。

だから、冬の別れは美しく、同時に苦しい。苗子は自分から身を引くことで千重子を守る。しかし、守るという行為の中で、苗子自身の願いは置き去りになる。優しさは、ときに自分を消すことに似てしまう。

この映画は、その選択が正しいとも間違っているとも決めない。ただ雪の中を去る苗子を映す。雪は足跡を残しながら、やがて足跡を消していく。

京都という町も、同じ働きをしている。古都は、長い歴史を残しているように見える。しかし、残っているものの下には、消えていった暮らしや名前や恋が無数にある。祭りは毎年繰り返されるが、祭りを見る人間は入れ替わる。桜は再び咲くが、同じ春は二度と来ない。

『古都』における京都は、変わらない美の象徴ではない。変わり続けるものを、変わらないように見せる巨大な時間である。

千重子と苗子の再会も、その時間の中では一瞬にすぎない。しかし、一瞬だから価値が小さいわけではない。長く続かなかった幸福が、偽物になるわけでもない。苗子にとって、千重子と同じ部屋で眠った一夜は、生涯に匹敵するほど大きな時間になる。

幸福は、続いた長さでは測れない。一晩しか続かない幸福もある。二度と会わないからこそ、壊れずに残る幸福もある。人は幸福を所有し続けることはできないが、過ぎ去った幸福によって、その後の人生を生きることはできる。

秀男と苗子の関係にも、同じ問題がある。

秀男は苗子を見ながら千重子を思う。愛は一人に向けられているようで、記憶や理想や別の誰かの面影を含んでいる。人は目の前の相手だけを、完全に純粋な形で見ることができるのだろうか。

人は誰かを見るとき、すでに自分の中にある物語を重ねてしまう。苗子は、その重なりに気づいている。だから、自分を姉の代わりにする愛を受け取らない。誰かに選ばれることと、自分自身を見てもらうことは同じではない。

苗子の拒絶は、幸福を捨てる行為ではない。自分の輪郭を守る行為である。北山杉のように真っ直ぐ立つために、苗子は孤独を引き受ける。

北山杉は自然のままに育った木ではない。人の手で枝を払い、形を整え、真っ直ぐに伸ばされる。それでも一本ごとに木目は違う。千重子と苗子も、与えられた環境によって異なる形に育てられた。しかし、どちらかが本物で、どちらかが偽物なのではない。

磨き上げられた千重子も、山の労働の中で育った苗子も、それぞれの場所で本物である。

もし別の家に拾われていたら。もし捨てられなかったら。もし同じ場所で育っていたら。苗子は千重子にとって、そうした「あり得たかもしれない自分」の姿でもある。千重子もまた、苗子にとって、別の運命を与えられていた場合の自分に見える。

だが人は、あり得たかもしれない人生を生きることはできない。できるのは、その人生が存在した可能性を知り、今の自分を見つめ直すことだけだ。千重子と苗子は、互いを通して自分の運命を知る。出会うことで一つになるのではなく、出会うことで二人の違いがはっきりする。

二人は同じ場所では生きられない。だが同じ夜を過ごした記憶は残る。離れていても、世界のどこかに自分と同じ始まりを持つ人間がいる。その事実は、孤独を完全には消さなくても、孤独の形を変える。

『古都』は、再会を奇跡として描きながら、奇跡を永住させない。春に咲いたすみれは、夏を越え、秋を過ぎ、冬の雪へ向かう。花は散るから季節を生きたことになる。姉妹の時間も、終わるからこそ一つの形になる。

同じ花は、同じ場所では咲けない。けれど、離れて咲いた二つの花が、一度だけ互いの存在を知ることはできる。その一度が人生を救うこともある。

『古都』は、共に生きることだけが愛ではないと伝える。相手の場所を奪わず、相手の人生を自分の願いで覆わず、離れた場所から存在を思う。そこには抱擁よりも静かで、所有よりも深いつながりがある。

淡い雪の中を去る苗子の背中に残るのは、拒絶ではない。一緒にいられないほど、相手を大切に思ってしまった人間の、声にならない愛である。

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