『ニュー・シネマ・パラダイス』(原題:Nuovo Cinema Paradiso)は、1988年公開のイタリア映画。監督・脚本はジュゼッペ・トルナトーレ。
映画監督として成功したサルヴァトーレが、映写技師アルフレードの訃報をきっかけにシチリア島の故郷を振り返り、映画に夢中だった少年時代、青年期の初恋、故郷との別れを思い出していく。
映画を愛する映画、映画館を舞台にした映画は数え切れないほどある。失われた故郷や青春を振り返る作品も珍しくない。それでも『ニュー・シネマ・パラダイス』は、現在では「イタリア映画の入口」と呼べるほど世界中で愛され、映画ファンにとっては身分証明書のような一本になった。
スタッフ
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
製作:フランコ・クリスタルディ
製作総指揮:ミーノ・バルベラ
音楽:エンニオ・モリコーネ、アンドレア・モリコーネ
撮影:ブラスコ・ジュラート
編集:マリオ・モッラ
製作会社:クリスタルディフィルム/レ・フィルム・アリアーヌ/TFIフィルム・プロダクション/RAI3/フォーラム・ピクチャーズ
配給:ティタヌス/日本ヘラルド
公開:1988年11月17日(イタリア)/1989年12月16日(日本)
上映時間:155分(イタリア初公開版)/123〜124分(国際版)/173分(ディレクターズ・カット版)
1988年にイタリアで劇場公開されたオリジナル版は155分だった。しかし興行成績が振るわず、トトとエレナの恋愛や後日談を中心に削り、約123分に短縮した国際版が作られた。この再編集もジュゼッペ・トルナトーレ自身が手がけ、この国際版が世界的な成功を収めた。現在ではニューシネマ・パラダイス=123分のイメージとなっている。
『ニューシネマ・パラダイス』完全版
2002年には、エレナとの再会などを収めた173分の完全版(ディレクターズ・カット版)が公開された。123分版にも、エレナの母親が立ったままトトと電話で話す場面が存在したが、現在一般的に流通する公開版・ソフト版には収録されていない。
シチリア州パラッツォ・アドリアーノ
映画の舞台となるシチリア島の「ジャンカルド村」は架空の村で、主要な撮影はパラッツォ・アドリアーノで行われた。現在も映画に登場した広場や町並みを見ることができ、ムニチピオ脇のニューシネマパラダイス館では、映画に関係したスタッフらが案内することもある。パラダイス座の客席として使われた教会内部、アルフレードの家の玄関、トトの家の玄関など、撮影の痕跡が町に残されている。
海岸の場面はチェファルやバゲリーア周辺、少年トトが通う学校はカステルブオーノ、トトとアルフレードが今生の別れをする「ジャンカルド駅」はラスカリ駅で撮影された。作中の音声はすべてアフレコによって録音されている。
作中に登場する映画
『どん底』
『駅馬車』
『揺れる大地』
『チャップリンの拳闘』
『無法者の掟』
『にがい米』
『白い酋長』
『ジキル博士とハイド氏』
『風と共に去りぬ』
『ヴィッジュの消防士たち』
『アンナ』
『CATENE』(作中題『絆』)
『素直な悪女』
『掠奪された七人の花嫁』
『白夜』
『青春群像』
『貧しいが美しい男たち』
『ユリシーズ』
『さすらい』
『嘆きの天使』
『街の灯』
『激怒』
『白雪姫』
『カサブランカ』
『戦場よさらば』
『ロビンフッドの冒険』
『素晴らしき哉、人生!』
『ベリッシマ』
『夏の嵐』
『マンボ』
『ヨーロッパ1951年』
『ウンベルト・D』
『サリヴァンの旅』
『越境者』
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』
『ならず者』
『黄金狂時代』
『熱砂の舞』
『ノックアウト』
『ナポリの黄金』
『シーク』
『ローマの休日』
『ヒズ・ガール・フライデー』
『グランド・ホテル』
『美女と野獣』
『玩具の国』
『底抜け極楽大騒動』
『丘の羊飼い』
キャスト
サルヴァトーレ・ディ・ヴィータ(少年期):サルヴァトーレ・カシオ
サルヴァトーレ・ディ・ヴィータ(青年期):マルコ・レオナルディ
サルヴァトーレ・ディ・ヴィータ(中年期):ジャック・ペラン
アルフレード:フィリップ・ノワレ
エレナ(若年期):アニェーゼ・ナーノ
エレナ(中年期・ディレクターズ・カット版):ブリジット・フォッセー
マリア(中年期):アントネッラ・アッティーリ
マリア(壮年期):プペッラ・マッジョ
アデルフィオ神父:レオポルド・トリエステ
スパッカフィーコ:エンツォ・カンナヴァーレ
イグナチオ:レオ・グッロッタ
アンナおばさん:イザ・ダニエーリ
鍛冶屋:タノ・チマローザ
広場をうろつく男:ニコラ・ディ・ピント
リア:ロベルト・レーナ
ペッピーノの父親:ニーノ・テルツォ
ラストシーンに登場する映像技師は、ジュゼッペ・トルナトーレ自身が演じている。当初はフェデリコ・フェリーニに出演を依頼したが断られた。
VIDEO
中年期のエレナ役にはシルヴァーナ・マンガーノを起用する構想もあったが、体調が芳しくなかったためオファーを断念した。
主人公サルヴァトーレの愛称「トト」は、イタリアを代表する喜劇王トトに由来し、作中でもトトの出演映画が上映される。
あらすじ
ローマ。映画監督として成功し、中年になったサルヴァトーレのもとへ、ある晩、故郷に暮らす母から電話が入る。知らせは、アルフレードの死だった。サルヴァトーレはベッドの中で横になりながら、長く離れていた故郷ジャンカルドと、少年時代の日々を思い出していく。
第二次世界大戦が終わって間もないシチリア島。幼いサルヴァトーレは「トト」と呼ばれ、母マリアと妹とともに小さな村で暮らしている。父は戦争へ行ったまま戻らず、家族は父のいない生活を続けている。
村の中心にある広場には、教会に併設された小さな映画館「パラダイス座」がある。娯楽の少ない村で、映画館には老若男女が集まり、スクリーンに映し出される映画に笑い、泣き、声を上げる。上映前にはアデルフィオ神父が作品を確認し、男女がキスをする場面になるとベルを鳴らす。該当箇所は映写技師アルフレードによって切り取られ、実際の上映ではキスシーンが映らない。観客たちはそのたびに不満の声を上げる。
映画に夢中になったトトは映写室へ何度も入り込み、仕事を見ようとする。アルフレードは最初こそ邪魔者扱いして追い返すが、やがてトトを可愛がるようになり、映写機の操作方法を教える。
ある晩、満員で映画館へ入れなかった村人たちのため、アルフレードは向かいの建物の壁へ映画を投影する。ところが上映中、可燃性の高いフィルムから火災が発生する。炎は映写室へ広がり、パラダイス座は全焼する。トトは炎の中からアルフレードを救い出すが、アルフレードは大火傷を負い、視力を失う。
やがて映画館は再建され、「新パラダイス座」として生まれ変わる。映写機を扱えるトトは、まだ少年でありながら映写技師として働き始め、家計を支える。
年月が流れ、青年となったトトはムービーカメラを手に入れ、自分でも撮影するようになる。ある日、駅でエレナを見かけ、トトは恋をする。トトは思いを伝え続け、やがてエレナも受け入れ、二人は恋人同士になる。
しかし、トトには兵役が待っている。徴兵され、村を離れる。除隊してジャンカルドへ戻ると、新パラダイス座の映写室には別の男が座り、エレナの姿もなく、連絡も取れなくなっている。
失意のトトに、アルフレードは村を出るよう勧める。まだ若いトトは外の世界へ行き、自分の道を探すべきだと話し、故郷へ戻ってきてはいけないと告げる。
トトは母や妹、アルフレードに見送られながら列車へ乗り、ローマへ向かう。その後、映画の世界へ進み、映画監督サルヴァトーレとして成功する。
それから約30年。アルフレードの死を知ったサルヴァトーレは、葬儀に参列するため久しぶりにジャンカルドへ帰る。年老いた母と再会し、村を歩き、かつての人々とも顔を合わせる。
しかし、サルヴァトーレが記憶しているジャンカルドとは多くが変わっている。新パラダイス座はすでに閉館し、建物も解体されることになっている。サルヴァトーレは村人たちとともに、かつて映画を上映した建物が爆破される瞬間を見届ける。
アルフレードの妻から、サルヴァトーレへ遺品が渡される。アルフレードが生前、サルヴァトーレのために残していたフィルムだった。
ローマへ戻ったサルヴァトーレは、一人で映写室に座り、そのフィルムを上映する。
スクリーンに現れたのは、少年時代にアデルフィオ神父の指示でアルフレードが映画から切り取っていた、無数のキスシーンだった。サルヴァトーレは涙しながらスクリーンを見つめ続ける。
映画レビュー:失ったものは、人生から消えない
映画を愛する映画は、いくらでもある。映画館に住みつく少年も、スクリーンに人生を教わる若者も、閉館する映画館を惜しむ物語も、故郷を離れた人間が昔を振り返る話も、決して『ニュー・シネマ・パラダイス』だけではない。
それなのに、なぜこの映画だけが、これほど多くの人の人生に入り込んでくるのか。
理由は、『ニュー・シネマ・パラダイス』が映画の素晴らしさを語るだけの映画ではないからだ。むしろ映画ではどうにもならないものを描いている。
時間である。
映画なら巻き戻せる。好きな場面を何度でも見ることができる。死んだ俳優もスクリーンでは生きている。壊された建物も、若かった顔も、失われた恋も、フィルムの中では永遠に残る。
しかし人生は巻き戻らない。
アルフレードは死ぬ。パラダイス座は壊される。エレナとの青春は戻らない。トト自身も、映画に目を輝かせていた少年には戻れない。
この当たり前の事実を、『ニュー・シネマ・パラダイス』は2時間かけて、ゆっくり心に沁み込ませていく。そして、昔へ戻れないことを受け入れたうえで、それでも人生は悪くなかったと歌い上げる。
トトは故郷を捨てた。アルフレードの言葉に従い、列車に乗った。母の老いも、アルフレードの晩年も、パラダイス座の衰退もほとんど知らない。
人生の損得だけを計算すれば、サルヴァトーレは多くのものを失っている。その喪失があったから映画監督サルヴァトーレがいる。エレナと結ばれていた人生と、映画監督になった人生。どちらが正しかったのか。答えはない。
人生には、何かを得ることで失うものがあり、何かを失うことで生まれるものもある。人は全部を持って生きることができない。
『ニュー・シネマ・パラダイス』が胸に刺さるのは、そこを知っているからだ。
少年トトにとって世界は可能性に満ちている。映画も観たい。アルフレードとも一緒にいたい。エレナとも結ばれたい。故郷も愛している。映画監督にもなりたい。全部欲しい。子どもの時間とは、まだ何も捨てなくていい時間なのだ。
だが大きくなるにつれ、人は何かを選び、そのたびに何かを失っていく。仕事を選べば、別の人生が消える。選んだ瞬間には、その意味が分からない。30年後になって初めて、「あの別れが人生を変えた」と知る。
だからアルフレードの愛情は残酷だ。普通なら、愛する人間にはそばにいてほしい。ところがアルフレードは逆をする。トトを追い出す。帰ってくるな、とまで言う。アルフレードはトトが大きくなるために、自分自身がトトの人生から消えることを選ぶ。
愛とは、そばに置くことだけではない。その愛情の深さは、受け取った瞬間には分からない。トトが本当の意味でアルフレードの愛を知るのは、アルフレードが死んでからだ。人は、愛されている最中には愛の大きさに気づけない。
人は親が死んでから思い出す言葉がある。友人と離れてから分かる優しさがある。なくなった店を見て、そこが自分の人生の一部だったと知る。
観客はトトの人生だけを見ているわけではない。自分の人生を見ている。アルフレードを見ながら、もう会えない誰かを思い出す。パラダイス座を見ながら、なくなった故郷の店や学校や映画館を思い出す。エレナを見ながら、結ばれなかった人を思い出す。トトの顔を見ながら、自分にも世界のすべてが新しかった時代があったことを思い出す。
観客自身の記憶が、『ニュー・シネマ・パラダイス』の続きを作るのだ。
これは映画ファンだけの映画ではない。人生を一度でも振り返ったことがある人の映画なのだ。そのすべてが最後の「キスシーン」に集約される。
アルフレードが残したフィルムに映っているのは、かつて神父によって切り取られた無数の接吻である。少年トトが観られなかった場面。映画から捨てられた断片。
アルフレードが最期にトトへ残したのは「完全な映画」ではない。失われたものだけを集めた映画である。
人は人生を振り返るとき、すべてを均等には思い出さない。残るのは断片だ。誰かの笑顔。別れ際の声。夏の匂い。駅のホーム。初めて入った映画館。好きだった人と交わした短い会話。もう一度見たいと思う、ごくわずかな瞬間だけが残る。
人生とは、ある意味で編集された映画なのだ。忘却という編集者が、ほとんどの場面を切り落とす。最後に残るのは、なぜ残ったのか自分でも分からない数秒間の記憶ばかりである。
アルフレードのフィルムも同じだ。切り落とされたキスだけがつながれている。
物語もない。登場人物も違う。映画としてはバラバラだ。それなのに、サルヴァトーレにとっては世界で一本しかない映画になる。
なぜなら、そこには少年トトが失った時間が入っているからだ。
映画は時間を取り戻せない。だが、失ったものへもう一度、触れさせることができる。
取り戻すことと、触れ直すことは違う。
ただ光が点滅し、昔のキスが次々と映る。そしてサルヴァトーレは笑い、泣く。あの涙は「昔は良かった」という涙ではない。人生を受け取った人間の涙だ。
失ったものも、得たものも、間違えたことも、会えなかった人も、選ばなかった人生も含めて、「これが自分の人生だった」と受け取る。
だから『ニュー・シネマ・パラダイス』は、郷愁の映画でありながら、過去へ逃げない。むしろ過去と別れるためにある。アルフレードがトトを駅から送り出したように、最後にはトト自身が少年時代を送り出す。
別れるから忘れるのではない。忘れないために、別れる。
ここに、人生への肯定がある。人生を肯定するとは、すべてがうまくいったと思い込むことではない。失敗も、別れも、後悔も、もう戻らない時間も含めて、自分の人生だったと認めることだ。
パラダイス座は、スクリーンの中ではなく、自分の記憶の中にある。
『ニュー・シネマ・パラダイス』がこれほど愛されるのは、映画という光を使って、失われていく人生を愛する映画だからだ。
戻ってきたものを見つめて、人はようやく気づく。失ったから、なかったことになるのではない。終わったから、意味がなくなるのでもない。愛した時間は、終わったあとも人生の一部として残り続ける。
そのことを、これほど優しく、これほど映画的に教えてくれる作品は他にない。
『ニュー・シネマ・パラダイス』は、映画へのラブレターである以上に、過ぎ去ってしまった自分の人生へのラブレターなのである。
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映画音楽レビュー:音楽は、物語より先に「失われた時間」を知っている
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『ニュー・シネマ・パラダイス』は、始まった瞬間から泣ける。まだアルフレードは登場していない。少年トトも、パラダイス座も、エレナも出てこない。何が失われたのか、観客は何も知らない。
映っているのは、シチリアの青い海と、窓辺に置かれた鉢。そして、エンニオ・モリコーネとアンドレア・モリコーネの音楽だけである。
それなのに、なぜか懐かしい。自分はこの村に住んだこともない。アルフレードにも会ったことがない。パラダイス座で映画を観たこともない。それでも、あの海を見ていると「帰ってきた」という感覚がある。
ここにモリコーネの凄さがある。普通、映画音楽は物語が起こったあとに感情を補強する。誰かが死ねば悲しい音楽が流れ、恋が始まれば美しい旋律が流れる。
『ニュー・シネマ・パラダイス』は逆だ。音楽が、物語より先に記憶を作ってしまう。
まだ何も知らない観客に、「これは、失われてしまった何かを思い出す映画なのだ」と身体で理解させる。
オープニングの海が美しいから泣けるのではない。海は何も語らない。青く、広く、静かにそこにあるだけだ。むしろ重要なのは、あまりにも何も起こらないことだ。
人間は年老いる。町は変わる。映画館はなくなる。愛した人はいなくなる。それでも海だけは、昔と同じように光っている。人がいなくなったあとも、風景は残る。この残酷なほどの静けさに、モリコーネの旋律が重なる。何も起こっていないのに泣ける。物語が始まる前から、映画はすでに喪失の後にいる。
有名なメインテーマ「Cinema Paradiso」も、不思議な曲だ。聴いていると胸は締めつけられる。しかし絶望ではない。温かい。どこか明るささえある。それなのに泣ける。
この矛盾が、『ニュー・シネマ・パラダイス』そのものなのだ。
失ったものが美しかったからこそ、喪失は悲しい。悲しいのは、そこに幸福があったからだ。「Cinema Paradiso」の旋律には、その幸福と喪失が同居している。聴いていると、「楽しかった」と「もう戻れない」が同時にやってくる。
人間が本当に泣くのは、悲しいときだけではない。むしろ、幸せだった時間が過去になったと知ったときに泣く。モリコーネの音楽は、その複雑な涙を旋律にしている。
『ニュー・シネマ・パラダイス』の音楽には、何度聴いても不思議な既視感がある。
初めて聴いたはずなのに、昔から知っていたような気がする。それは旋律が必要以上に複雑ではないからだ。
音楽が前へ前へと主張するのではなく、ゆっくり戻ってくる。モリコーネの旋律は、記憶のように現れ、膨らみ、離れていく。だから音楽を「聴いている」というより、昔のことを思い出させられている感覚になる。
画面にはトトの少年時代が映っている。だが、モリコーネの旋律を聴いているうちに、観客は自分の少年時代を思い出している。トトが映画館へ走っていく姿から、自分が夢中になった何かを思い出す。アルフレードの顔から、もう会えない人を思い出す。
故郷の広場から、自分が育った町を思い出す。映画の記憶と、自分の記憶が重なっていく。だから『ニュー・シネマ・パラダイス』は、途中から「他人の回想」を観る映画ではなくなる。いつの間にか、自分の人生を観ている。その変換を起こしている最大の力の一つが、モリコーネの音楽なのだ。
そして、「Cinema Paradiso」と並んで忘れられないのが「愛のテーマ」である。ずっと続いていたなら日常に溶けていたかもしれないものが、途中で終わったために記憶の中で永遠になる。モリコーネのラブテーマには、その「終わったから残る」という逆説がある。
何かの拍子に、記憶は上映を始める。その瞬間には昔の感情まで戻ってくる。作品の外側にある、観客の人生まで鳴らしてしまう。
ニューシネマ・パラダイスとは、映画作品であり、モリコーネが鳴らす鐘のタイトルである。
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