シネマの流星

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『無法松の一生』〜無法という誠実、雪に消えて、男は完成した

『無法松の一生』

『無法松の一生』は、1943年に公開された日本映画。原作は岩下俊作『富島松五郎伝』。北九州・小倉を舞台に、喧嘩っ早い人力車夫・富島松五郎の、生々しい体温と、その最期までを描く。

スタッフ

『無法松の一生』

  • 監督:稲垣浩
  • 脚本:伊丹万作
  • 原作:岩下俊作
  • 製作:中泉雄光
  • 音楽:西悟郎
  • 撮影:宮川一夫
  • 編集:西田重雄
  • 製作:大映京都撮影所
  • 配給:映画配給社(紅系)
  • 公開:1943年10月28日
  • 上映時間:99分(現存78分)

シナリオ化された当初の題名は『いい奴』だった。

松五郎が大尉夫人に密かな愛情を告白する場面などが、内務省の検閲によって削除され、戦後もGHQにより一部が切除されている。無法者が主人公であること、賭博の描写、喧嘩の場面、そして軍人の未亡人に対する一方的な恋情といった要素は、内務省から「好ましからず」との注意を受けた。

実際に切除された箇所は、以下の4点。

  1. 松五郎と将棋を指していた僧(ぼんさん)が、松五郎と未亡人との関係を邪推し、松五郎を指さして笑う場面(9秒)

  2. 居酒屋で熊吉が松五郎に嫁をもらうことを勧められるも断る場面、および松五郎が壁に掲げられた美人画のポスターをもらう場面(2分37秒)

  3. 松五郎が未亡人に想いを告白する場面、居酒屋で酒を飲む場面、そして雪の中に倒れる場面(7分50秒)

  4. 松五郎の生涯が走馬灯のように回想される場面の中で、夫人の顔が大写しになる箇所(7秒)

これらの削除部分は、合計で10分43秒に及んでいる。

ラストで松五郎が走馬灯のように過去を振り返る場面は、撮影監督・宮川一夫による高度な撮影技法によって生み出された。宮川はカメラからフィルムを取り出さず、「撮影 → 巻き戻し → 再撮影……」という工程を繰り返す多重露光を用いることで、この幻想的な映像表現を実現している。

キャスト

『無法松の一生』

  • 富島松五郎:阪東妻三郎
  • 結城重蔵:月形龍之介
  • 夫人よし子:園井恵子
  • 吉岡小太郎:永田靖
  • 吉岡敏雄:川村禾門

当初、新興キネマでは市川右太衛門主演での企画があり、東宝でも大河内傳次郎主演による映画化が検討されていた。しかし、人力車夫を主人公とする物語は東宝の看板路線には合わないという理由から、いずれも実現には至らなかった。

稲垣浩は、『江戸最後の日』(1941年)で主演を務めた阪東妻三郎に、松五郎役を依頼する。阪妻は、申し出を断ったが、稲垣はあきらめず、何度も出演を打診した。その折、阪妻は稲垣に向かって「命を賭けてもやるつもりか」と問いかけたという。稲垣がそうだと答えると、阪妻は「よろしい、私も命を張ろう」と応じ、起用が決まった。

阪妻は役作りにも徹底していた。実際に自分で人力車を引き、役柄を工夫し、撮影期間中だけでなく日常生活でも車夫の暮らしを真似て過ごしたという。

一方、吉岡夫人役については、当初、水谷八重子が候補に挙がっていたが、公演の予定があったため断念することになった。続いて東宝の入江たか子に白羽の矢が立つが、東宝では入江と大河内傳次郎の主演で『無法松の一生』を製作する計画もあったため、貸し出しを断られ、こちらも実現しなかった。

次に、結婚して宝塚歌劇団を退団していた小夜福子に出演を依頼する。しかし、小夜は妊娠中で、すでにお腹もかなり大きくなっており、出演を辞退せざるを得なかった。それでも小夜は、「もし、ほかに候補の方がなかったらと思って、この人を連れてきたのです。私よりもピッタリだと思いますけど」と語り、自身の宝塚時代の下級生にあたる園井恵子を稲垣らに紹介した。稲垣は園井について、「まるでこの役をやるために生まれてきたような人だった」と評している。

あらすじ

『無法松の一生』〜無法という誠実、雪に消えて、男は完成した

明治30年、北九州・小倉。無法松と呼ばれる人力俥夫・松五郎は、喧嘩と博奕で名を馳せる荒っぽい男だ。だが、土地の顔役・結城重蔵の前では不思議と素直に頭を下げる。乱暴者でありながら、筋と情を捨てきれない男でもある。

ある日、堀に落ちた少年・敏雄を助けたことで、松五郎は陸軍大尉・吉岡小太郎の家と縁ができる。しかし大尉は急死し、未亡人よし子と敏雄が残される。よし子は気の弱い息子を案じ、松五郎を頼る。松五郎は二人に献身的に尽くしていく。

敏雄が成長するにつれ、松五郎との距離は少しずつ離れていく。祇園太鼓の日、松五郎は山車に乗り撥を取り、町に響く太鼓を打ち鳴らす。だが数日後、よし子への思慕を言いかけた松五郎は、「ワシの心は汚い」と言い残し、彼女のもとを去る。やがて酒に溺れ、雪の中で倒れて死ぬ。遺品には、よし子と敏雄名義の預金通帳と、手を付けていない祝儀が残されていた。

映画レビュー:無法とという美徳─世界に馴染めない立派さ

『無法松の一生』

『無法松の一生』を「乱暴者の美談」として観てしまうと、映画の苦さを取り逃がす。松五郎は喧嘩っ早い。だが、本質は暴力ではない。もっと単純で、もっと救いがない。「うまく生きられない」ということだ。

松五郎は、世渡りの言葉を持たない。礼儀の型も、恋の型も、身分の型も、借り物のようにしか着られない。だから身体でしか語れない。人力車を引く力、殴り合いの勢い、太鼓を叩く腕。阪妻の松五郎は、言葉が足りないぶん、身体の熱がそのまま人柄になる。

吉岡家との関係も、最初から“幸福な縁”として始まらない。松五郎が助けたのは少年であり、その後に生まれるのは恩義よりも、頼られることで生まれる居場所だ。松五郎はよし子と敏雄の近くにいることで、初めて自分の粗暴さが「役に立つもの」へ変わる瞬間を知る。守る、運ぶ、見張る、笑わせる。喧嘩の腕さえ、家族を守る盾に変わる。人は、必要とされると生きていける。

だが時間は残酷だ。敏雄が成長し、進学し、よそから先生を連れて帰省するころ、松五郎は「役目」を失い始める。子どもが大人になっていくのは喜ばしいことだが、松五郎にとっては、自分がこの家に存在する理由が薄れていく過程でもある。近づきたかったのに、近づくほど遠ざかる。家庭とは、外の人間にとってそういう場所でもある。

小倉祇園太鼓の場面。松五郎は太鼓を叩き、町中に音を響かせる。太鼓は、うまく言えない心をそのまま音に変えてくれる。松五郎が何を抱えてきたか、何を言い出せずにいるかを、太鼓だけが代わりに叫ぶ。あの高揚は、単なる祭りではなく、松五郎の魂の放電になっている。

無法松は、未亡人への告白の直前で引き返す。これは、松五郎なりの“線引き”でもある。よし子を汚したくない、吉岡家の空気を壊したくない、という善意もある。それ以上に、自分の気持ちを、正しい形に整えて差し出すことができない。整えられない感情は、出した瞬間に迷惑になる。松五郎はそれを知っている。だから飲み込む。飲み込んだものは、酒でしか流せない。

松五郎の遺品に残る通帳と祝儀。最後に守ったのは、相手の生活の安定であり、自分が入り込まないという聖域だった。その清さは報われない。

ラストの走馬灯の回想。松五郎の人生もまた、ひとつの出来事が次の出来事に重なり、解けないまま残っていく。喧嘩、情、照れ、献身、憧れ、引き返し。どれも単独では説明できない。重なり続けた結果として、松五郎という人間ができている。

『無法松の一生』は、世界の“きれいな物語”に入れない人間が、それでも誰かを大事にし、雪の中に溶けていく話である。立派であろうとした男が、その立派さを貫くために、去るしかなかった物語である。

松五郎は、不器用だった。感情を整える言葉を持たず、社会の型にも収まらず、愛を正しい形で差し出す術も知らなかった。

松五郎が最後に選んだのは、報われる愛ではない。そばにいることでも、告白することでもない。自分が消えることで、相手の世界を守るという選択だった。

それは逃避ではない。ましてや敗北でもない。自分の不器用さを知り尽くした男が、最後に辿り着いた、唯一の誠実さだ。

松五郎は、雪の中で静かに人生を終える。逃げたのではない。完成したのだ。不器用さのまま、誰かを守ろうとした。その“うまく生きられなさ”を、ひとつの人間の光として映している。

映画レビュー:回り続ける人生と、止まることで完成する生

『無法松の一生』

『無法松の一生』では、場面の切り替わりに何度も人力車の車輪が回転するアップが挿入される。この反復的な映像は、本作の主題を言葉以上に雄弁に語る、極めて映画的な象徴である。

車輪はそのまま松五郎という人間の生き方を表している。松五郎は、立ち止まって考えることができない男だ。言葉で関係を整理することも、社会の型に合わせて感情を整えることもできない。だからこそ、身体を動かし続けることでしか、自分の居場所を保てない。人力車を引く力、前へ前へと進む運動、その惰性のような生のあり方が、回転する車輪に集約されている。

重要なのは、顔ではなく車輪だけが映されるという点だ。顔を映せば感情になる。車輪を映せば、感情は消え、運動だけが残る。稲垣浩と宮川一夫は、松五郎の内面を説明しない。ただ「この男は、こうして回り続ける存在だった」と示す。その冷静さが、かえって松五郎の立派さを浮かび上がらせる。

物語の終盤、松五郎は雪の中で倒れる。そこには、もう回る車輪はない。回り続ける人生と、止まることで完成する生。前半で反復される車輪の運動と、ラストの静止した雪景色は、明確な対比をなしている。松五郎は、回り続けるしかなかった人生を、止まることで終えた。

『無法松の一生』における車輪のアップは、松五郎の身体的な生き方、戻れない時間を無言で語る、極めて純度の高い映画的表現である。
車輪が回っている限り、松五郎は生きている。車輪が止まったとき、松五郎の人生は完成する。

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阪東妻三郎の傑作映画

『雄呂血(無頼漢)』〜群れない正しさは血を流す、体制に背を向けた男の美学

『雄呂血(無頼漢)』

『雄呂血』(おろち)は、1925年に公開された無声映画。監督は二川文太郎、主演は阪東妻三郎。阪妻が東亜キネマから独立し、自らのプロダクションを立ち上げた第1作であり、のちの「剣戟ブーム」を決定づけた記念碑的な一本である。

スタッフ

  • 監督:二川文太郎
  • 脚本:寿々喜多呂九平
  • 原作:寿々喜多呂九平
  • 製作総指揮:牧野省三
  • 撮影:石野誠三
  • 製作:阪東妻三郎プロダクション
  • 配給:マキノ・プロダクション
  • 公開:1925年11月20日
  • 上映時間:75分

タイトルは当初『無頼漢』だったが、検閲の指摘によるカットと改題を経て『雄呂血』となった。「雄呂血」とは、表面は善人の顔をしながら裏で悪事を働く大偽善者を指す言葉ロケは奈良・東大寺と氷室神社で行われた。

キャスト

『雄呂血(無頼漢)』

  • 久利富平三郎:阪東妻三郎
  • 漢学者・松澄永山:関操
  • 奈美江(永山の娘):環歌子
  • 江崎真之丞(奈美江の夫):春路謙作
  • 侠客・赤城の次郎三:中村吉松
  • 浪岡真八郎:山村桃太郎
  • 二十日鼠の幸吉:中村琴之助
  • ニラミの猫八:嵐しげ代
  • 薄馬鹿の三太:安田善一郎
  • 町の娘お千代:森静子

ヒロインの環歌子は阪東妻三郎と同い年であり、役者として駆け出した大部屋時代の頃から盟友。大スターの阪妻を「妻ちゃん」と呼べる数少ない女優のひとり。

あらすじ

『雄呂血(無頼漢)』

享保の頃。小さな城下町で、漢学者・松澄永山の娘奈美江と、弟子の若侍・久利富平三郎はひそかに愛し合っていた。だが平三郎は、家老の息子の無礼を怒って揉め事を起こし、破門される。さらに奈美江を中傷する若侍を懲らしめた行為も誤解を招き、師からも追われるように町を去る。

自分が正しいと信じた行動が、そのたびにねじ曲げられ、平三郎の心は荒んでいく。やがて彼は無頼の浪人となり、虚無へ沈んでいく。

流れ着いた先で女・千代の情に縋ろうとするが、千代はすでに人の妻となっていた。追手から逃げた平三郎は侠客・次郎三のもとへ転がり込むが、その次郎三こそ喰わせ者だった。病に苦しむ旅の夫婦を助けたかと思えば、妻に言い寄り、手籠めにしようとする。しかもその妻は、かつての初恋の人・奈美江だった。

平三郎は次郎三を斬り捨てる。だが逃げ場はなく、十重二十重の包囲の中で大乱闘となり、ついに捕えられる。群衆の罵声を浴びながら引かれていく平三郎。その中に、涙に濡れて平三郎を伏し拝む奈美江夫婦の姿があることを、群衆の誰も知らない。

映画レビュー:正しさが孤独を選ぶとき、剣は世界に背を向ける

『雄呂血(無頼漢)』

『雄呂血』が輝きを放つのは、「権力への反抗」である。久利富平三郎は、英雄になろうとしない。名を上げる野心も、体制を転覆させる理想も持たない。ただ、理不尽なものに呑み込まれる。

この映画の敵は、刀を持った相手ではない。もっと厄介なのは、「あいつはこういう人間だ」という見立てである。一度貼られた札が、人を勝手に決めていく。平三郎の行動は、本人の意図から離れ、噂と体面のなかで別の意味に変質してしまう。ここには、個人の心よりも“世間の解釈”が強い世界がある。

平三郎は、だんだん言葉を失う。理解してもらう努力を諦めていく。言い訳をすればするほど、余計に疑われる。誤解を解くための言葉が、逆に火に油を注ぐ。そうして最後に残るのが、剣だけだ。剣はまっすぐだ。剣だけが、いま起きていることを誤解しない。斬れば倒れる。そこに裏はない。 しかし、その「まっすぐさ」は救いではない。剣がまっすぐであればあるほど、平三郎は社会から遠ざかる。強くなるほど孤独になる。

この映画が描く対立は、善と悪ではない。個人と群衆、無頼と権力の対比である。平三郎が対峙しているのは、目の前の敵ではなく、「数」と「体面」と「既に出来上がった秩序」だ。噂、肩書き、立場。そうしたものが重なり合った巨大な重さに、たった一人の身体が立ち向かう。その構図は、あまりにもモダンで、あまりにも早すぎる。

阪妻を見ていると、シルヴェスター・スタローンが重なって見える。『ロッキー』が描いたのも、勝つか負けるかではなかった。恐怖や権力、社会的な序列に向かって「それでも前に出る」という姿勢の美しさだった。結果は二の次でいい。ただ、逃げずに立ち続けたかどうか。それだけが問われる。

阪妻も同じだ。振るう剣は、勝利のためではない。名誉のためでもない。理屈が通じない世界に対して、反抗として振るわれる。走り、跳び、斬り続けるその身体は、滅びへ向かう運動であると同時に、世界に対して最後まで「ノー」を言い続ける姿勢だ。

『雄呂血』は、アメリカン・ニューシネマを先取りしている。体制に勝つことよりも、体制に回収されないまま滅びることの美しさ。『俺たちに明日はない』や『イージー・ライダー』が描いた美学は、すでにこの映画の中にいる。

無声映画であることも決定的だ。言葉がないのではない。言葉が信用できない世界を描くために、沈黙が選ばれている。だから阪東妻三郎の身体は雄弁になる。剣戟は単なるアクションではなく、思想であり、宣言だ。

『雄呂血』は、正しさが報われない映画ではない。正しさが「群れない形」で存在し得ることを、美しく示した映画である。

剣はまっすぐだ。そのまっすぐさは、世界と和解しない。だが、和解しない姿勢こそが、いつの時代も最も自由なのだ。それが、この映画が、今なお血の色を失わない理由である。

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阪東妻三郎の傑作映画

『血煙高田の馬場(決闘高田の馬場)』〜走った先に血煙が残る

『血煙高田の馬場(決闘高田の馬場)』〜走った先に血煙が残る

『血煙高田の馬場』は、1937年に公開された日本映画。監督はマキノ正博。主演は阪東妻三郎。忠臣蔵のエピソードで有名な「高田馬場の決闘」を題材にしている。第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)、51分に短縮され、『決闘高田の馬場』として再公開された。史実の決闘場は、現在の高田馬場ではなく西早稲田である。

スタッフ

  • 監督:マキノ正博(共同名義:稲垣浩)
  • 脚本:牧陶三
  • 原作:牧陶三
  • 音楽:高橋半
  • 撮影:三井六三郎、石本秀雄
  • 製作:日活京都撮影所
  • 配給:日活
  • 公開:1937年12月31日
  • 上映時間:57分(再公開版51分)

※1952年に『決闘高田の馬場』として短縮再公開された。

本作の全撮影日数は7日。12月31日に、大阪千日前の常盤座を筆頭に、正月興行作品として公開された。

キャスト

『血煙高田の馬場(決闘高田の馬場)』〜走った先に血煙が残る

  • 中山安兵衛:阪東妻三郎
  • 大工の熊公:市川百々之助
  • 八卦屋の天眼:伊庭駿三郎
  • 講釈師・楽々亭貞山:志村喬
  • 菅野六郎左衛門:香川良介
  • 若党・武助:市川正二郎
  • 堀部弥兵衛:藤川三之祐
  • 小野寺十内:久米譲

撮影前日、マキノは阪東妻三郎を宮川町のホールに連れて行き、ジャズのレコードをかけてダンスを踊り、翌日の本番ではジャズのノリで撮影をした。アクションシーンの疲労から阪東妻三郎は、「二度と高田の馬場はやらん」と宣言していた。

史実での中山安兵衛は24歳で、36歳の阪妻が演じている。実際は決闘に遅れておらず、最初から助太刀している。八丁堀から西早稲田まで疾走するのは講談による脚色である。

あらすじ

『血煙高田の馬場(決闘高田の馬場)』〜走った先に血煙が残る

元禄七年の江戸。八丁堀の長屋に暮らす中山安兵衛は、酒と喧嘩を好む気風のいい浪人だ。長屋の人々からは「先生」と慕われる一方、唯一頭が上がらないのが叔父・菅野六郎左衛門である。

ある因縁から、菅野は村上庄左衛門との果し合いを、高田馬場で行うことになる。当日、菅野は安兵衛を訪ねるが、安兵衛は酒と喧嘩に明け暮れ、家にいない。刻限が迫り、菅野は書き置きを残して単身、決闘の場へ向かう。

やがて帰宅した安兵衛は、長屋の人々に促されて書き置きを読み、事の次第を知る。血相を変えた安兵衛は、高田馬場へ向かって全力で走り出す。長屋の住人たちも、幟を掲げてその後を追う。

だが、安兵衛が到着したとき、叔父はすでに多勢に無勢で斬られ、瀕死の状態だった。怒りと悔恨に駆られた安兵衛は、村上一味十八人を斬り伏せる。喝采を浴びる中、安兵衛は叔父に駆け寄るが、すでに息はない。勝利の歓声の中で、安兵衛だけが立ち尽くす。

映画レビュー:走った先に、何が残るのか

『血煙高田の馬場(決闘高田の馬場)』〜走った先に血煙が残る

『血煙高田の馬場』は、仇討ちの物語である前に、「走る男」を描いた映画である。阪東妻三郎が全力で走る。ただそれだけの行為が、これほどまでに観る者の心を掴んで離さない映画は、『ロッキー』だけであり、阪妻とスタローンの他にはいない。

中山安兵衛は、悲壮な英雄ではない。酒を飲み、笑い、喧嘩をし、長屋の中で人に囲まれて生きている。軽やかで、血の気が多く、楽天的だ。その身体には、若さと生命力が溢れている。

高田の馬場へ向かう安兵衛の走りは、説明も心理描写もない。ただ、前へ、前へと進む身体があるだけだ。その走りは単なる疾走ではない。未来を変えようとする衝動と、すでに遅れているかもしれないという不安が、同時に足に宿っている。

観客は安兵衛を応援しながら、同時に「間に合わないかもしれない」という予感も抱いている。その二重の感情が、走りを美しく、そして異様なほどスリリングなものにしている。

史実は残酷だ。安兵衛は、間に合わない。だからこそ、この映画は仇討ちのカタルシスに安住しない。映画としての快楽は、ここから加速する。

十八人斬りの場面で、阪妻の身体は解き放たれる。斬る、跳ぶ、かわす、回る。その一連の動きは、現実の殺し合いというよりも、舞踏そのもの。音楽のようにリズムを刻み、観客は否応なく高揚する。ここにあるのは、悲劇の重さではなく、映画ならではの爽快さだ。殺陣は暴力というより“見世物”として輝く。

この瞬間、観る者は安兵衛の悔恨ではなく、阪東妻三郎という俳優の肉体美と運動性に惚れ惚れする。史実の悲しさを知っていても、なお目が離せない。ここに、時代劇映画の残酷な魅力がある。

しかし、映画はそのまま酔わせ続けない。斬り終えたあと、静かに現実を突きつける。叔父は、すでに死んでいる。どれほど鮮やかに勝っても、時間だけは戻らない。

安兵衛は勝者だが、英雄ではない。最後の立ち姿に、達成感はない。あるのは、怒りでも虚無でもない、もっと鈍く、重たい感情だ。「間に合わなかった」という事実を、そのまま引き受ける沈黙である。

この映画は、仇討ちを肯定もしなければ否定もしない。ただ、走った先に人が何を得て、何を失うのかを、黙って差し出す。

安兵衛は走った。走る姿は、今なお美しく、爽快で、観る者の胸を打つ。走ったからこそ、背負うものが生まれた。「人が全力で走り、全力で斬る姿が、これほどまでに気持ちいい」という事実を、疑いなく提示する。

『血煙高田の馬場』は、走ることの快楽と、走っても届かない現実を、同時に刻みつける映画である。だからこそ、阪妻の走りと殺陣、その果ての血煙は、今も観る者の胸の奥に鮮やかに残り続ける。

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阪東妻三郎の傑作映画

『忠臣蔵 赤垣源蔵 討入り前夜』〜声を上げない忠義、雪の朝まで、黙って耐えた夜明け

『忠臣蔵 赤垣源蔵 討入り前夜』

『忠臣蔵赤垣源蔵 討入り前夜』は、1938年に公開された時代劇映画。赤穂浪士四十七士の一人・赤垣源蔵(享年35)を主人公に、討ち入りの前夜に訪れる“別れの時間”を描いた忠臣蔵。酒に溺れ、自堕落に見える日々の奥に、決して揺らがぬ覚悟を秘めた男の姿を、阪東妻三郎が体現している。

物語の核となるのは、いわゆる「徳利の別れ」。忠義の華やかさではなく、名もなき日常と、言葉にできない情をすくい上げた作品である。

スタッフ

  • 監督:池田富保
  • 脚本:瀧川紅葉
  • 原作:瀧川紅葉
  • 音楽:白木義信
  • 撮影:吉見滋男
  • 録音:大角正夫

公開時のタイトルは『赤垣源蔵』。1954年11月30日に『忠臣蔵 赤垣源蔵 討入り前夜』として公開された。

キャスト

  • 赤垣源蔵:阪東妻三郎
  • 鳥井利右衛門:市川小文治
  • 坂谷武士郎:原健作
  • 神崎与五郎:市川百々之助
  • 塩山伊左衛門:香川良介
  • 老僕・常平:磯川勝彦
  • 坂谷城左衛門:志村喬
  • 千鶴江:花柳小菊
  • お杉:大倉千代子
  • おまき:中野かほる
  • お兼:京町ふみ代

史実での本名は赤埴 重賢(あかばね しげかた)。通称が「源蔵」だった。大酒飲みのキャラクターとして親しまれるが、実際は下戸で、兄もいなかった。弟と妹がいた。

あらすじ

『忠臣蔵 赤垣源蔵 討入り前夜』

元禄の世。赤穂浪士・赤垣源蔵は、兄・伊左衛門の家に身を寄せ、酒に溺れた生活を送っていた。世間からは「討入りの志を失った男」と見なされ、嘲笑や不信の目を向けられている。兄や、隣家の娘・千鶴江だけが、源蔵を静かに気遣っていた。

ある日、源蔵は品川宿で大石内蔵助の密書を守る行動に出る。それは内なる忠義の発露だったが、かえって周囲との溝を深めてしまう。誤解と孤独の中で、源蔵はなお、討入りへの決意を胸の奥で燃やし続けていた。やがて討入り前夜。源蔵は兄・伊左衛門のもとを訪れ、徳利を手に、今生の別れを告げる。

映画レビュー:覚悟とは、声高に語られないもの

『忠臣蔵 赤垣源蔵 討入り前夜』

映画『ロッキー』が、勝敗の瞬間よりも、試合へ向かうトレーニングの日々を最も美しく描いたように、非日常の栄光よりも、日常の積み重ねに尊さを見出したように。

『忠臣蔵赤垣源蔵 討入り前夜』もまた、討ち入りという“登頂の瞬間”ではなく、その前夜と夜明けの美しさを描いた映画である。

この映画が見つめているのは、歴史が記憶する一瞬ではない。誰にも称賛されない時間、誰にも理解されない態度、そして決して語られない覚悟だ。

赤垣源蔵は、誤解を一切訂正しない。弁明しない。正義を語らない。忠義を掲げない。ただ、酒を飲む。悲しみを流すために、酒でしか耐えられなかった男として、そこにいる。

阪妻の演技は、ここで徹底して饒舌を拒む。声を荒げない。表情を作らない。視線、杯の持ち方、座り方。そのすべてが、沈黙の中で意味を帯びていく。

印象的なのは、甥に饅頭をやろうとする場面だ。源蔵は、不器用な優しさで饅頭を差し出す。返ってくるのは、「呑んだくれ!」という罵声。その瞬間、阪妻の瞳にかすかな光が走る。怒りでも、悲嘆でもない。理解されないことを、もう何度も飲み込んできた男の、どうしようもない哀愁だ。この一瞬こそ、阪東妻三郎という俳優の真骨頂である。

よく語られる「徳利の別れ」よりも、むしろこの場面にこそ、源蔵の孤独は凝縮されている。誰にも通じない善意。誰にも届かない覚悟。それでも源蔵は、態度を変えない。

ここで描かれているのは、忠義の“名場面”ではない。討ち入りという非日常に至るまでの、あまりにも地味で、報われない日常だ。この日常を耐え抜くことこそが、源蔵にとっての修練であり、覚悟の完成形だった。

映画が描くのは、その直前までの、もっとも弱く、もっとも人間的な時間。討入りの朝、雪の中に立つ源蔵の姿は、なんと清々しく、なんと勇ましいことか。

酒に溺れていた男が、嘲笑されていた浪士が、雪と朝の中で、凛として立つ。阪東妻三郎ほど、雪と朝が似合う俳優はいない。

この清々しさは、突然与えられたものではない。前夜までの沈黙、誤解、孤独、屈辱。そのすべてを引き受けた末に、ようやく訪れる“夜明け”なのだ。

ここで初めて、源蔵の沈黙が意味を持つ。語らなかったからこそ、騒がなかったからこそ、その姿は潔く、澄み切って見える。

『忠臣蔵赤垣源蔵 討入り前夜』は、討ち入りを“頂点”として扱わない忠臣蔵だ。声を張り上げない忠義、誤解されたまま耐える忠義を描いた、静かで、極めて強靭な一本である。

阪東妻三郎が演じた赤垣源蔵は、忠義の象徴ではない。ただ、自分の生を最後まで引き受け、誰にもわかられないまま、杯を置いた一人の男なのだ。

派手な死よりも、静かな別れ。称賛よりも、沈黙。その沈黙の重さを、これほど美しく背負った俳優は、やはり阪妻しかいない。

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阪東妻三郎の傑作映画

『特攻大作戦』〜英雄になれない男たちが、最後に“自分を選んだ

『特攻大作戦』〜英雄になれない男たちが、最後に“自分を選んだ

『特攻大作戦』(The Dirty Dozen)は、1967年に公開されたイギリス・アメリカ合作の戦争映画。監督はロバート・アルドリッチ。E・M・ナサンソンの小説『12人の囚人兵』を原作に、死刑囚や重罪犯で構成された部隊が、ノルマンディー上陸作戦前夜に“成功しても生きて帰れる保証のない任務”へ投入される姿を描く。

スタッフ

  • 監督:ロバート・アルドリッチ
  • 脚本:ナナリー・ジョンソン、ルーカス・ヘラー
  • 原作:E・M・ナサンソン
  • 製作:ケネス・ハイマン
  • 音楽:フランク・デ・ヴォル
  • 撮影:エドワード・スケイフ
  • 編集:マイケル・ルチアーノ
  • 配給:MGM
  • 公開:1967年
  • 上映時間:150分

この映画を15歳のとき、大阪・梅田のOSシネラマ劇場で観た井筒監督は、「ロバート・アルドリッチ監督作品。こまかくて大胆な監督。学校映画会では絶対お目にかかれない。15歳のぼくは、これからは、見るなら、この人の作るモノにお金を払おう、と心に誓っていた」と著書に記している。

キャスト

『特攻大作戦』〜英雄になれない男たちが、最後に“自分を選んだ

  • ジョン・ライズマン少佐:リー・マーヴィン
  • ウォーデン少将:アーネスト・ボーグナイン
  • ジョセフ・T・ウラディスロー:チャールズ・ブロンソン
  • ロバート・T・ジェファーソン:ジム・ブラウン
  • ヴィクター・R・フランコ:ジョン・カサヴェテス
  • アーチャー・J・マゴット:テリー・サバラス
  • ヴァーノン・L・ピンクリー:ドナルド・サザーランド

当初、主役は、ジョン・ウェイン、アルド・レイ、バート・ランカスター、ジョージ・チャキリス、ニック・アダムス、ジャック・パランス、シドニー・ポワチエなど候補だった。ジョン・ウェインが辞退した後、アルドリッチが推薦したリー・マーヴィンが選ばれた。

あらすじ

独断専行で軍上層部から疎まれているライズマン少佐は、ノルマンディー上陸作戦を前に、前代未聞の破壊任務を命じられる。参加するのは、死刑や長期刑を待つ12人の囚人兵たち。任務に成功すれば刑を免除するという条件のもと、過酷な訓練に叩き込まれる。

反抗と混乱を繰り返しながらも、囚人たちは次第に連帯を獲得し、即席の部隊として形を成していく。やがて作戦は決行され、彼らはドイツ軍高級将校が集う保養施設を襲撃。壮絶な戦闘の末、作戦は成功するが、生き残る者はわずかだった。

映画レビュー:それでも、なぜ囚人兵に憧れてしまうのか

『特攻大作戦』〜英雄になれない男たちが、最後に“自分を選んだ

『特攻大作戦』が描いているのは、もっと身も蓋もない、「使い捨てられる人間の再利用」である。 12人の囚人兵は、すでに社会から排除された存在だ。英雄になり損ねたのではない。そもそも、英雄になる権利すら与えられていない。国家にとっては、矯正されるべき存在であり、同時に、消耗しても構わない資源でもある。

ライズマン少佐も、囚人たちを救おうとしない。正義を説かない。更生を信じてもいない。ただ、「任務を遂行できる集団」に仕立て上げる。その冷徹さは非情に見えるが、同時に誠実でもある。希望という嘘を与えない。与えるのは条件だけだ。

作戦終盤、精神に破綻をきたしたマゴットが暴走し、味方に殺される場面は象徴的だ。戦場は、誰の異常も矯正しない。適応できない者は、敵より先に排除される。戦争は、人間を選別する装置として機能する。 最終的に生き残るのは2人だけだ。

名誉回復という言葉が与えられるが、それは死者のための装飾にすぎない。失ったものは戻らないし、社会が迎え入れる保証もない。

それでも、この映画を観終えたあと、奇妙な感情が残る。
「こんなふうに死にたい」とは思わない。だが、「こんな生き方をしてみたい」と、どこかで思ってしまう。

理由は単純だ。囚人兵たちは、人生において一度も“自分の役割を自分で引き受ける瞬間”を持たなかった男たちだからだ。

囚人は悪人であり、犯罪者であり、社会不適合者であり、失敗者だ。社会の側から一方的に「不要」と烙印を押され、切り捨てられた存在である。

ライズマン少佐は、希望を与えない。同時に偽善でも縛らない。

「お前たちは英雄にはならない」「だが、この任務をやる意味はある」

それだけを提示する。

この映画で囚人兵たちが変わっていくのは、善人になるからでも、愛国心に目覚めるからでもない。「誰かに命令されてではなく、自分で腹を括った行為」を初めて引き受けるからだ。

ここで描かれる連帯は、美談ではない。理想でもない。ただ、「ここにいる限り、やるしかない」という現実から生まれた、極めて男臭く、実利的な結束だ。だからこそ、そこに強烈な魅力がある。

マゴットが暴走し、味方に殺される場面は、この集団の残酷な限界を示す。戦場は誰も救わない。適応できない者は、仲間であっても排除される。裏を返せば、それ以外の者たちは、最後まで「自分の居場所」を持ち続ける。

11人が死んだ。名誉回復も、社会復帰も、ほとんどが幻想に終わる。それでも、この作戦の中で囚人兵たちは、生涯で一度だけ、「俺はここにいていい」という感覚を得る。人が死に、人格が壊れ、未来が断ち切られても、「目的が達成されれば正解」になる世界。その世界において、一瞬だけ、役に立った。

使い捨て、上等。塵も積もれば山となる。

現代社会では、失敗しても生き延びることはできる。だが、失敗したあとで「役割」を与えられることは、ほとんどない。使い捨てだと分かっていても、「それでも行く」と腹を決めた囚人兵の姿が、どこか眩しく見える。

『特攻大作戦』は、どんな場所でも、人は一瞬だけ“男になれる瞬間”を持ちうることを描いている。それが、命と引き換えであっても。

爽快ではない。救いもない。それでも、胸の奥で静かに残るのは、羨望に近い感情だ。

使い捨てにされた男たちが、最後に“自分で選んだ顔”をしていたからだ。それこそが、『特攻大作戦』が今も忘れられない理由である。

Amazonプライムで観る:『特攻大作戦

1967年の傑作映画

アメリカン・ニューシネマの傑作

井筒和幸『アメリカの活動写真が先生だった』〜映画本の頂点、映画レビューの到達点

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  • 著者:井筒和幸
  • 出版社:小学館
  • 発売日:1998年12月20日
  • ページ数:315ページ

映画レビューの究極。奥義と言ってもいい。映画を語らずして語る。

言葉を生業にする物書きとして、いつか挑戦し、到達したい領域だ。

井筒監督の『アメリカの活動写真が先生だった』は、いわゆる「映画評論」の期待を、意図的に裏切る。

作品解説は、ほぼ皆無。理論も技法論もない。当時どんな暮らしをしていた、どんなことを考えて生きていたかなど、完全な自分語り。本書から浮かび上がるのは、ひとりの人間が、映画とともに生きてしまった時間そのもの。

語られる映画は、語られると同時に、ほとんど語られない。『バルジ大作戦』や『許されざる者』までの65作品を分析するのではなく、人生の節目に偶然、立ち会っていた「出来事」として扱われる。井筒監督にとって映画は、鑑賞物ではなく、思考や倫理が形成される「環境」だったのだ。

井筒監督は業界人だが、「映画とは何か」を問わない。「人は何によって形成されるのか」を、映画という媒介を通して問い返している。

井筒少年が奈良で映画に出逢い、大阪で暮らすようになってからも、常に映画はそこにあった。タイトルでは、映画を「先生」と呼びながらも、決して映画への敬意を装飾しない。

映画は崇高な信仰ではなく、乱暴で、俗で、暴力的で、時に差別的ですらある。それでも、いや、だからこそ、現実を直視する力を与えてくれる。映画を理解すること、映画に影響されて生きることは、まったく別の行為である。

この本に出逢ったのは、立命館大学に通い、映画を京都で映画を見始めた頃だった。プロ視点の解説が読めると期待していたので、最初は面食らった。しかし、それが映画を語ることだと教えられた。

映画とは分析して語る対象ではなく、すでに語る主体を形づくった「過去」である。この本を読み終えたとき、映画の知識を得るのではない。代わりに、「自分は何に影響されて、ここまで来たのか」という問いを突きつけられる。

『アメリカの活動写真が先生だった』は、映画レビューの究極形である。映画は答えを与えない。ただ、時間としてそこに在り続ける。その時間の中で何を感じ、何を抱え、何を見ないふりして生きてきたのかを問う。

井筒監督は、映画を「先生」と呼びながら、最後まで弟子になろうとはしなかった。だから、映画を語らずして、映画を語ることができた。

映画という他者の時間に照らされながら、自分がどう歪み、どう耐え、どう今日まで立ってきたのかを、真っ直ぐに見つめている。

 

『アメリカの活動写真が先生だった』に登場する映画作品

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夜の大捜査線

グラン・プリ

殺しの分け前/ポイント・ブランク

ブリット

イージー・ライダー

真夜中のカーボーイ

ライアンの娘

ゲッタウェイ

さらば冬のかもめ

サブウェイ・パニック

バリー・リンドン

ロンゲスト・ヤード

愛のメモリー

ザ・ドライバー

レイジング・ブル

『ザ・ドライバー』〜沈黙と速度、名前を失った男たちの映画

『ザ・ドライバー』〜沈黙と速度、名前を失った男たちの映画

『ザ・ドライバー』(The Driver)は、1978年に公開されたアメリカ映画。監督・脚本はウォルター・ヒル。犯罪者を乗せて逃走を請け負う無名の男と、ドライバーを執拗に追う刑事との対決を、極限まで削ぎ落とした台詞と研ぎ澄まされたカーアクションで描くハードボイルド映画である。

登場人物には固有名が与えられない。「男」「刑事」「女」。物語は心理説明を拒み、行為と視線、速度と沈黙だけで進行する。カーアクション映画でありながら、実際に描かれているのは“追う者と逃げる者の存在論的な対称性”である。

スタッフ

  • 監督・脚本:ウォルター・ヒル
  • 製作総指揮:ローレンス・ゴードン
  • 音楽:マイケル・スモール
  • 撮影:フィリップ・H・ラスロップ
  • 編集:ティナ・ハーシュ、ロバート・K・ランバート
  • 配給:20世紀フォックス
  • 公開:1978年
  • 上映時間:91分

『ザ・ドライバー』は、アラン・ドロン主演の『サムライ』や、リー・マーヴィン主演の『殺しの分け前/ポイント・ブランク 』に影響を受け、今度は『ターミネーター』に影響を与え、『ターミネーター』のトンネルシーンは『ザ・ドライバー』と同じロケ現場である。

キャスト

『ザ・ドライバー』〜沈黙と速度、名前を失った男たちの映画

  • 男(ドライバー):ライアン・オニール
  • 刑事:ブルース・ダーン
  • 女:イザベル・アジャーニ

あらすじ

『ザ・ドライバー』〜沈黙と速度、名前を失った男たちの映画

強盗を逃がすためだけに雇われる凄腕のドライバー。盗んだ車で現れ、仕事を終えると車を廃車場に捨て、痕跡を残さない。一方、ドライバーを捕まえることに人生を費やす刑事は、証拠のないまま執拗に罠を仕掛ける。

銀行強盗、裏切り、二重の罠。男と刑事は何度もすれ違い、互いの存在を確信しながらも、決定的な勝利には辿り着けない。最後に残るのは金でも逮捕でもなく、「二人とも騙された」という静かな事実だけだった。

映画レビュー:ハンドルを握る者は、どこにも属さない

『ザ・ドライバー』〜沈黙と速度、名前を失った男たちの映画

『ザ・ドライバー』は、逃走の映画であると同時に、「役割から逃げられない人間」の映画だ。ドライバーは、人格を持たない。名前も過去も語られない。ただ走る。速く、正確に、感情を挟まずに。存在価値は、アクセルとブレーキの間にしかない。止まった瞬間、空白になる。

刑事も同じだ。法の番人というより、ドライバーを追うためだけに生きている。証拠も、規則も、目的ですらどうでもいい。ただ「捕まえる」という衝動だけが刑事を動かしている。

この二人は、対立しているようで、実は鏡像だ。一方は逃げることでしか存在できず、もう一方は追うことでしか存在できない。

『ブリット』のフランク・ブリットが「沈黙の中で自分の信念を守ろうとする男」だったとすれば、『ザ・ドライバー』の男は、信念すら持たない。持たないことを選んだ男だ。正義も悪も引き受けない。仕事を完遂することだけが世界との接点になる。

女(イザベル・アジャーニ)は、金のために立ち位置を変えるが、実はこの映画で唯一「自由に見える」存在だ。その自由も幻想に近い。誰よりも早く現実を察知し、誰よりも静かに姿を消す。彼女は走らないが、最も早く逃げ切る。

クライマックスで明かされる真実は、勝者がいないということだ。金は消え、刑事もドライバーも空振りに終わる。

走り続けることでしか生きられない男が、最後に選ぶのは、再び走り出すことでも、捕まることでもない。ただ静かに、その場を去ること。

『ザ・ドライバー』は、カーアクションの形を借りた存在の映画である。人は、何者かであり続けるために、同じ動作を繰り返す。逃げる者は逃げ続け、追う者は追い続ける。そして、どちらも「どこにも辿り着かない」

ハンドルを握っているのは、勝利ではない。孤独と速度と、役割から降りられないという事実だ。だからこの映画は、エンジン音が止んだあとも、長く胸に残る。走ること自体が、生き方になってしまった人間たちの、静かな肖像として。

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『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

『愛のメモリー』(原題:Obsession)は、1976年のアメリカ映画。アルフレッド・ヒッチコック『めまい』へのオマージュとして構築されたサイコスリラーであり、“喪失した女性をもう一度つくり直そうとする男”という欲望を、デ・パルマは宗教画のような映像美とバーナード・ハーマンの遺作となる音楽で包み込む。

物語は二度の誘拐事件を軸にしながら、「愛」と「記憶」が混ざり合う領域へ踏み込む。人物の心理よりも、過去に呪縛される精神の構造そのものを描いた作品であり、“亡き妻の面影に人生を捧げる”男の盲目さが、フィレンツェの聖堂の静けさの中で、ゆっくりと崩壊していく。

スタッフ

  • 監督:ブライアン・デ・パルマ
  • 脚本:ポール・シュレイダー
  • 原案:ブライアン・デ・パルマ、ポール・シュレイダー
  • 音楽:バーナード・ハーマン
  • 撮影:ヴィルモス・スィグモンド
  • 編集:ポール・ハーシュ
  • 配給:コロンビア映画
  • 公開:1976年
  • 上映時間:98分

キャスト

『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

  • マイケル・コートランド:クリフ・ロバートソン
  • サンドラ/エリザベス:ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド
  • ロバート・ラッセル:ジョン・リスゴー

井筒監督は、『愛のメモリー』を、大阪の新世界のために作られた映画だという。井筒監督は『愛のメモリー』という陳腐な邦題より『愛の色即是空』のほうが良いという。

あらすじ

『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

1959年、ニューオーリンズ。資産家マイケルは、結婚10周年の夜に妻エリザベスと娘エイミーを誘拐される。警察を動かした結果、誘拐犯の車は橋から転落し、二人は死亡したと告げられる。マイケルは深い罪悪感のまま時を止めたように生き続け、妻と出会った聖堂を模した壮麗な墓を建てる。

1975年。共同経営者ロバートとともに訪れたフィレンツェで、マイケルはエリザベスと瓜二つの女性サンドラに出会う。奇跡的な再会に導かれるように二人は恋に落ち、マイケルは“妻の死からやり直せる”という幻想にすがるように彼女との結婚を決める。しかし帰国後、サンドラは何者かに誘拐され、過去の事件が再びゆっくりと蘇る。やがて二つの誘拐事件をつないでいたのは、マイケルのもっとも信頼する男の長年の企みだった。愛、記憶、罪悪感――マイケルが見つめていたのは“女”ではなく、“失った時間”そのものだったことが明らかになる。

映画レビュー:過去を取り戻そうとするとき、人は誰を愛しているのか

『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

『愛のメモリー』は、表向きは誘拐事件のミステリーだが、その奥で語っているのは、「喪失した者を再び作り直そうとする愛は、本当に愛なのか」という深い問いである。

マイケルは妻エリザベスを失った瞬間から時間が止まる。建てた巨大な墓は記念碑ではなく、凍った記憶そのもの。そこには悲しみよりも、「あの日の妻を永遠化したい」という強い願望が刻まれている。マイケルは喪った人を悼むのではなく、喪った“瞬間”を保存しようとする。そこへ現れるのが、妻の面影を宿したサンドラだ。

彼女を愛するというより、彼女に“過去を再演させようとする” マイケルの行動は、愛というよりも自己救済の儀式に近い。未来ではなく、過去に向かって恋をする。

サンドラが風景の中から現れた瞬間、マイケルは「妻が蘇った」と錯覚するが、そこには彼女自身の人生も感情も存在していない。マイケルが見つめているのは、彼女の顔の裏に貼り付けた“エリザベスの影”である。

ここにデ・パルマは、ヒッチコック『めまい』の構造を重ねる。人は喪失と向き合うとき、現実の人物よりも、記憶の中の人物を愛してしまう。記憶のほうが都合よく、純度が高く、裏切らないからだ。

しかし記憶は生きておらず、愛しているのは“その人”ではなく“その人の輪郭”だ。フィレンツェの聖堂という閉じた空間の中で、マイケルは過去に触れようと必死に手を伸ばし、そのたびに現在の女性サンドラの存在を削っていく。

二度目の誘拐事件は復讐でもあるが、より深い意味では、物語そのものがマイケルに迫る戒めのように響く。

記憶は愛ではない。愛は、生きている相手を選び直す行為だ。

ところがマイケルは最後の瞬間まで、「サンドラ=エリザベス」という幻想を捨てられない。娘だった彼女との再会が“赦し”に見える場面も、本当はマイケルが過去の凍りついた時間を解凍できないまま、一つの幻影を別の幻影で埋め替えてしまった瞬間である。

デ・パルマの視線は、ここに宿る。人は喪失から逃れようとするとき、別人を使って“過去そのもの”を蘇らせようとする。それは愛ではなく、「記憶を諦められない心の癖」である。

愛とは、相手の変化に付き合い、自分も変わりながら時間を共有することだ。しかしマイケルは、変化を拒み、時間を止め、失った妻の“完璧な像”だけを抱え込んでしまった。『愛のメモリー』の恐ろしさは、犯人の動機よりも、この“記憶を理想化する心”が誰にでも宿っている点にある。

人は喪ったものを美しくしすぎる。過去を優しく磨きすぎる。そして、現在の相手が過去の像とずれていくとき、愛ではなく、記憶の側にしがみついてしまう。

デ・パルマは問う。あなたが愛しているのは、その人自身か。それとも、あなたが作り上げた『記憶の肖像』か。

『愛のメモリー』は、サスペンスの形をしていながら、人が“誰かをもう一度愛そうとするとき”に抱えてしまう狂気を静かに映し出す。そして、喪失を過去の形で取り戻そうとする限り、愛は決して始まらないことを、痛いほど示している。

Amazonプライムで観る:『愛のメモリー