
『パリの恋人』(原題:Funny Face)は、1957年公開のアメリカ映画。主演はオードリー・ヘプバーンとフレッド・アステア。古本屋で静かに本を愛していた女性が、ファッション雑誌の“発見”によってパリへ連れ出され、モデルとして世界にさらされていくミュージカル。 服と写真と都市が、人を“新しくする”。同時に、服と写真と都市は、人を“他人の望む像”にもしてしまう。『パリの恋人』は、その二つを甘くも苦くもなく、明るいテンポで並べてみせる。
スタッフ
- 監督:スタンリー・ドーネン
- 脚本:レナード・ガーシュ
- 製作:ロジャー・イーデンス
- 音楽:ジョージ・ガーシュウィン/ロジャー・イーデンス
- 撮影:レイ・ジューン
- 編集:フランク・ブラクト
- 配給:パラマウント映画
- 公開:1957年2月13日(アメリカ)/1957年9月28日(日本)
- 上映時間:103分
本作は、レナード・ガーシュが写真家リチャード・アヴェドンの半生をもとに書いたブロードウェイ台本『結婚の日』をベースに、題名を『Funny Face』と変え、映画版として楽曲などを組み替えたもの。
キャスト

- ジョー・ストックトン:オードリー・ヘプバーン
- ディック・エイブリー:フレッド・アステア
- マギー・プレスコット:ケイ・トンプソン
- エミール・フロストル教授:ミシェル・オークレール
- ポール・デュバル:ロバート・フレミング
オードリー・ヘプバーンは重厚な『戦争と平和』の次の作品のため軽い作品を望んでおり、フレッド・アステアと踊れるということで大喜びで出演を引き受けた。フレッド・アステアはヘプバーンが共演を望んでいると言うことで、一生に一度しかない共演のチャンスを逃したくないと思い、ほかの仕事を全てストップするように指示した。

歌の収録前、ヘプバーンは4週間に渡り発声訓練を続けた。MGMでジュディ・ガーランドなどの歌手兼女優の発声コーチをした経験のあるケイ・トンプソンも応援で駆り出され、ヘプバーンをコーチしている。

ケイ・トンプソン演じるファッション雑誌編集長マギーは、『ヴォーグ』の編集長ダイアナ・ヴリーランド、『ハーパース・バザー』の編集長カーメル・スノウをモデルにしている。
あらすじ

ファッション雑誌『クオリティー』の編集長マギーは、新しい刺激を求めてグリニッジ・ビレッジへ撮影隊を連れ出す。古本屋で働くジョーは、撮影で荒らされた店に怒りながらも、残って後片付けをするカメラマンのディックと出会う。ジョーは自分の信奉する思想を語り、ディックは彼女に強く惹かれていく。やがてマギーは“新しい顔”としてジョーをモデルに選び、三人はパリへ。撮影とショーの準備が進む中、ジョーは憧れの教授に会いたい気持ちと、モデルとして求められる役割のあいだで揺れ、誤解と衝突が重なっていく。しかし最後に彼女は、自分の足で戻る場所を選び直す。
映画レビュー:パリは恋より、視線でできている

『パリの恋人』の中心にあるのは、恋でもパリでもファッションでもなく、「まなざし」だ。誰かに見られ、評価され、名前を与えられるとき、人は急に“自分”が分からなくなる。同時に、見られることでしか開かない扉もある。映画はその矛盾を、歌と踊りという最も陽気な形で運ぶ。
ジョーは最初、古本屋という小さな世界にいる。そこは静かで、言葉が厚く、急がない場所だ。彼女の価値は、外から測られない。自分の内側の熱で生きられる。だが雑誌はその逆をやる。外側から人を測り、「今っぽさ」として並べる。マギーの号令は、世界をピンクに染める合図であり、同時に世界を単純化する合図でもある。複雑さを削って、分かりやすい欲望の色に揃える。その勢いが面白くもあり、ちょっと怖くもある。
ディックという写真家は、その間に立つ。ジョーを“商品”として見ているだけではない。彼女に与えられる最大の贈り物は、結局「君は撮られるに値する」という視線だ。ここがややこしい。励ましは力になるが、励ましの形が“撮ること”である以上、ジョーはいつも枠の中に置かれる。写真は、自由のようで固定でもある。一枚の写真は半永久的に残るが、永遠に残るものはしばしば人を縛る。
パリに行って起きる「変身」は、この映画が甘いだけのシンデレラ物語ではないことを示す。変身は成功ではなく、分裂を生む。新しい服を着るほど、旧い自分が遠くなる。新しいポーズを覚えるほど、「私は誰の動きをしているのか」と疑いが出る。ジョーが求める教授の思想は、本来は“人と人が分かり合える”という希望のはずなのに、現実の教授はその希望を利用しようとする。理想の言葉は美しいが、それを口にする人間は必ずしも美しくない。ここでジョーは、外の世界だけでなく、自分の内側の幻想も一度壊される。
それでも映画が明るく終わるのは、結論が単純だからではない。ジョーが選び直すのは、「誰といるか」だけではなく、「どう見られたいか」でもある。見られることから逃げない。しかし見られ方を他人に委ねない。これが今作のいちばん現代的なところだ。人は社会の中で生きる以上、完全に“外の目”を消せない。ならば問題は、外の目に合わせるか、外の目を材料にして自分を組み立てるか、になる。
ミュージカルという形式がこのテーマに合っているのも重要だ。歌と踊りは、説明ではない。心が溢れて、体が勝手に世界と折り合いをつけ始める瞬間だ。ジョーが踊るとき、彼女は「撮られる像」から一度はみ出す。言葉で勝てない場面でも、身体は嘘をつきにくい。ここでミュージカルは、飾りではなく救命具になる。
『パリの恋人』は、ファッション映画の顔をしているが、実は「自分の輪郭は、どこで決まるのか」という話だ。服で決まるのか。恋で決まるのか。思想で決まるのか。写真で決まるのか。答えは一つではない。
だからこそ最後に残るのは、人は、他人に作られた像の中でも生きられるということ。だが、そこから一歩だけ外に出る動きがないと、呼吸が薄くなる。この映画は、その“一歩”を、踊りとして見せてくれる。
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