
『民衆の敵』(原題:The Public Enemy)は、1931年公開のアメリカ映画。
『犯罪王リコ』『暗黒街の顔役』と並び、成り上がりと崩落を、暴力の温度そのままに刻んだギャング映画の基準点である。
禁酒法時代のアメリカにおける犯罪組織での若者の台頭を物語にし、アル・カポネなどのギャングを目撃した2人の元新聞記者による未発表の小説『Beer and Blood』を原作としている。
スタッフ
- 監督:ウィリアム・A・ウェルマン
- 脚本:ハーヴェイ・シュウ
- 製作:ダリル・F・ザナック
- 撮影:デイヴ・ジェニングス
- 編集:エドワード・マイケル・マクダーモット
- 制作会社:ワーナー・ブラザース
- 配給:ワーナー・ブラザース
- 公開:1931年4月23日(アメリカ)/1931年11月28日(日本)
- 上映時間:83分
主人公の兄弟と同様に第一次世界大戦に従軍したウェルマンは、ジャック・ワーナーに「これまで見たこともないほどタフで暴力的な映画をお届けします」と語った。トムが機関銃の銃撃から身を隠すため建物の角に身を隠す場面では、実弾が使用された。

グレープフルーツを恋人の顔に叩きつける場面は物議を醸し、キャグニーが飲食店に行くとしばらくグレープフルーツが出された、という逸話まで生んだ。
キャスト

- トム・パワーズ:ジェームズ・キャグニー
- グウェン・アレン:ジーン・ハーロウ
- マット・ドイル:エドワーズ・ウッズ
- マミー:ジョーン・ブロンデル
- マイク・パワーズ:ドナルド・クック
配役では当初トム役はエドワーズ・ウッズの予定だったが、監督判断で主役がキャグニーに入れ替えられた。ただし子供時代の場面は撮り直されなかったため、子役の顔立ちが“大人の配役”と逆に見えるという奇妙なズレが残った。
撮影中、キャグニーは『夜の大統領』の撮影も同時進行でこなしていた。キャグニーは本来、歌とダンスが得意なミュージカル俳優で、この映画でギャングスターの地位を決定づけた。
あらすじ

1900年代のシカゴ。アイルランド系移民の少年トム・パワーズと幼なじみのマット・ドイルは、盗品を売るような小さな悪さで日銭を稼いでいる。街の“面倒見のいい大人”パティ・ノーズは、毛皮倉庫の強盗に誘い、何かあれば自分が守ると約束する。だがその約束は、危険な場面になると蒸発する。強盗の最中、剥製の熊に驚いたトムが発砲し、警察が駆けつけ、ギャングの一員が射殺される。助けを求めに行った先で、パティはすでに逃げている。トムはここで、世界の基本を覚える。困るのは末端で、逃げるのは“顔役”だということを。
家では、堅物の兄マイクがトムを真っ直ぐに戻そうとする。だが言葉は届かない。母はトムを溺愛し、息子の“きれいな部分”だけを信じたがる。家庭の中の視線が甘いほど、外の世界の暴力は濃くなる。1917年、第一次世界大戦。兄マイクは海兵隊に入り、家を離れる。母はトムに「同じことはしないで」と懇願し、トムは“ここに残る”と約束する。つまり彼は戦場へ行かない。その代わりに、別の戦場に腰を据える。
1920年、禁酒法が始まる頃。パディ・ライアンはトムとマットを密造酒ビジネスの“セールスマン”として雇い入れる。売り歩くのは酒だが、実態は縄張りの拡張であり、脅しであり、回収である。組織は悪名高いギャングとも手を組み、金の流れは太くなる。トムとマットは、貧しさから抜け出す。スーツを着て車に乗り、飲み、奢り、勝った顔をする。ここで映画は、堕落を長い説教で描かない。生活の質が上がること、その気分の良さがまず映る。だから観客は最初、トムの速度に乗ってしまう。
帰還した兄マイクは、トムの“成功”の正体が政治でも商売でもなく、密造酒と暴力だと知る。マイクは言う。これは「ビールと血」でしかない、と。トムは反論する。戦争で人を殺してきた兄の手だって、そんなにきれいじゃないだろう、と。ここで二人の言い争いは、善悪の議論ではない。同じ「暴力」を、国家がやれば勲章になり、街でやれば犯罪になる。その線引きはどこにあるのか。トムは理屈で勝ちたいのではなく、兄の上に立ちたいのだ。家族の中の序列まで、金と恐怖でひっくり返したくなる。
トムは女とも付き合う。だが愛し方が荒い。キティに飽き、文句を言われると、怒ってグレープフルーツの半分を顔に押し付ける。恋愛が支えではなく、支配の練習になる瞬間がある。彼は次にグウェン・アレンへ移る。華やかな女のそばにいると、自分も華やかだと錯覚できるからだ。
マットの結婚披露宴の夜、トムとマットは店でパティ・ノーズを見つける。逃げた大人が、今度は弱い顔で目の前にいる。家まで追い詰めると、パティは命乞いし、子どもの頃に二人を楽しませた曲をピアノで弾く。マットは呆然と見守るが、トムは背後から撃ち殺す。ここが決定的だ。トムは「恨み」を片づけたつもりで、実際には自分の中の“戻れなさ”を確定させる。情けない大人を殺してしまった若者は、もう子どもに戻れない。
やがて抗争が起きる。仲間が撃たれ、トムも狙われる。トムは復讐に走り、単独で敵対組織へ突っ込む。銃撃戦で重傷を負い、病院へ運ばれる。見舞いに来た母、兄マイク、そして身近な人々の前で、トムは一度は和解し、更生を誓う。だがこの“誓い”は、心が変わったというより、身体が壊れたことによる静けさに近い。
その直後、状況はひっくり返る。トムが病院から誘拐されたと知らされる。さらに「トムが帰ってくる」という電話が入る。母は大喜びし、寝室を整え、息子が戻る未来だけを見る。マイクがドアをノックし、返事がないまま扉を開けると、縛られたトムの身体がドアにもたれかかり、床に崩れて息絶える。家の中に入ってくるのは“帰還”ではなく“搬入”だ。映画は、マイクがゆっくりとカメラに向かって歩いてくる場面で終わる。悲嘆というより、理解不能な現実の重さだけが残る。
映画レビュー:公共の敵とは、誰のことか

トムは、何かになろうとしていない。王にもなりたくない。思想もない。夢も曖昧だ。なのに、気づくとそこにいる。ギャングになった理由が薄い。その薄さこそがリアルだ。人はたいてい、強い意志で人生を選ばない。「気づいたらこうなっていた」という連続でできている。トムはその最も極端な例だ。
『民衆の敵』は、トム・パワーズの凶暴さではなく、凶暴さが“社会の文脈”に乗ってしまうことを描いた。禁酒法という制度ができ、酒が闇に回り、闇に金が集まる。金が集まれば、実行役が必要になる。トムはその空席に座っただけにも見える。特別だからではなく、そこに座れる若者が必要だったからだ。
ここで「公共の敵」という言葉は便利な札になる。危険なものが外側にあると思える。だが映画は、その札が実は“内側の問題”だと示してくる。トムは街の産物であり、家の産物であり、時代の産物でもある。母の盲目的な愛情、兄の正しさ、友の弱さ、そして制度の歪み。どれか一つだけが原因ではない。その混ざり方が、トムという形になる。
ウェルマンの演出が鋭いのは、トムを「反省する悪人」にしない点だ。トムは善人に戻ろうとしない。戻り方を知らない。だから更生の誓いも、道徳の勝利ではなく、疲労と痛みの一瞬の静止に見える。止まったら終わる。ギャングの世界で止まるのは、降車ではなく停止だ。そこには“次”がない。
有名なグレープフルーツの場面も、トムにとって恋人は、対話の相手ではなく、気分を調整する道具に近い。言葉が面倒になると、物で黙らせる。その粗暴さは“男らしさ”の誇張として語られがちだが、実際は逆だ。言葉で関係を作れない未熟さが、手の早さとして出ている。暴力は強さではなく、貧しさの現れになる。
そしてラスト。家に戻るはずの息子が、縛られた死体として“家に入ってくる”。この反転が残酷だ。家族という最も私的な空間が、外の暴力の搬入口になる。母の喜びと死体が同じドアの前で接続される。ここに、この映画の哲学がある。世界を二つに分けられない、という事実だ。善良な家庭と悪い街。清潔な日常と汚れた裏社会。そういう仕切りは、簡単に破られる。
最後にカメラへ歩いてくる兄マイクの顔が示すのは、勝利でも罰でもない。理解の破綻だ。正しかったかもしれない。だが正しさは、死体を避けない。正しさは、帰ってきた弟を救えない。ここで残るのは、「では、何が弟をこうしたのか」という問いだけだ。
『民衆の敵』が優れているのは、「男はこう生きるべきだ」も「男はこう破滅する」も描かないところだ。ただ一つだけ見せる。
男は、特別な理由がなくても、気づいたら戻れない場所にいることがある。そのとき、本人はそれを選んだつもりすらない。
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