シネマの流星

映画とは魔法。どこでもドアであり、タイムマシン。映画館の暗闇はブラックホール。スクリーンの光は無数の星たち。映画より映画館のファン

『民衆の敵』〜選ばなかった男ほど、遠くまで行ってしまう

『民衆の敵』〜社会の敵は、街が作った

『民衆の敵』(原題:The Public Enemy)は、1931年公開のアメリカ映画。

『犯罪王リコ』『暗黒街の顔役』と並び、成り上がりと崩落を、暴力の温度そのままに刻んだギャング映画の基準点である。

禁酒法時代のアメリカにおける犯罪組織での若者の台頭を物語にし、アル・カポネなどのギャングを目撃した2人の元新聞記者による未発表の小説『Beer and Blood』を原作としている。

スタッフ

  • 監督:ウィリアム・A・ウェルマン
  • 脚本:ハーヴェイ・シュウ
  • 製作:ダリル・F・ザナック
  • 撮影:デイヴ・ジェニングス
  • 編集:エドワード・マイケル・マクダーモット
  • 制作会社:ワーナー・ブラザース
  • 配給:ワーナー・ブラザース
  • 公開:1931年4月23日(アメリカ)/1931年11月28日(日本)
  • 上映時間:83分

主人公の兄弟と同様に第一次世界大戦に従軍したウェルマンは、ジャック・ワーナーに「これまで見たこともないほどタフで暴力的な映画をお届けします」と語った。トムが機関銃の銃撃から身を隠すため建物の角に身を隠す場面では、実弾が使用された。

『民衆の敵』〜社会の敵は、街が作った

グレープフルーツを恋人の顔に叩きつける場面は物議を醸し、キャグニーが飲食店に行くとしばらくグレープフルーツが出された、という逸話まで生んだ。

キャスト

『民衆の敵』〜社会の敵は、街が作った

  • トム・パワーズ:ジェームズ・キャグニー
  • グウェン・アレン:ジーン・ハーロウ
  • マット・ドイル:エドワーズ・ウッズ
  • マミー:ジョーン・ブロンデル
  • マイク・パワーズ:ドナルド・クック

配役では当初トム役はエドワーズ・ウッズの予定だったが、監督判断で主役がキャグニーに入れ替えられた。ただし子供時代の場面は撮り直されなかったため、子役の顔立ちが“大人の配役”と逆に見えるという奇妙なズレが残った。

撮影中、キャグニーは『夜の大統領』の撮影も同時進行でこなしていた。キャグニーは本来、歌とダンスが得意なミュージカル俳優で、この映画でギャングスターの地位を決定づけた。

あらすじ

『民衆の敵』〜社会の敵は、街が作った

1900年代のシカゴ。アイルランド系移民の少年トム・パワーズと幼なじみのマット・ドイルは、盗品を売るような小さな悪さで日銭を稼いでいる。街の“面倒見のいい大人”パティ・ノーズは、毛皮倉庫の強盗に誘い、何かあれば自分が守ると約束する。だがその約束は、危険な場面になると蒸発する。強盗の最中、剥製の熊に驚いたトムが発砲し、警察が駆けつけ、ギャングの一員が射殺される。助けを求めに行った先で、パティはすでに逃げている。トムはここで、世界の基本を覚える。困るのは末端で、逃げるのは“顔役”だということを。

家では、堅物の兄マイクがトムを真っ直ぐに戻そうとする。だが言葉は届かない。母はトムを溺愛し、息子の“きれいな部分”だけを信じたがる。家庭の中の視線が甘いほど、外の世界の暴力は濃くなる。1917年、第一次世界大戦。兄マイクは海兵隊に入り、家を離れる。母はトムに「同じことはしないで」と懇願し、トムは“ここに残る”と約束する。つまり彼は戦場へ行かない。その代わりに、別の戦場に腰を据える。

1920年、禁酒法が始まる頃。パディ・ライアンはトムとマットを密造酒ビジネスの“セールスマン”として雇い入れる。売り歩くのは酒だが、実態は縄張りの拡張であり、脅しであり、回収である。組織は悪名高いギャングとも手を組み、金の流れは太くなる。トムとマットは、貧しさから抜け出す。スーツを着て車に乗り、飲み、奢り、勝った顔をする。ここで映画は、堕落を長い説教で描かない。生活の質が上がること、その気分の良さがまず映る。だから観客は最初、トムの速度に乗ってしまう。

帰還した兄マイクは、トムの“成功”の正体が政治でも商売でもなく、密造酒と暴力だと知る。マイクは言う。これは「ビールと血」でしかない、と。トムは反論する。戦争で人を殺してきた兄の手だって、そんなにきれいじゃないだろう、と。ここで二人の言い争いは、善悪の議論ではない。同じ「暴力」を、国家がやれば勲章になり、街でやれば犯罪になる。その線引きはどこにあるのか。トムは理屈で勝ちたいのではなく、兄の上に立ちたいのだ。家族の中の序列まで、金と恐怖でひっくり返したくなる。

トムは女とも付き合う。だが愛し方が荒い。キティに飽き、文句を言われると、怒ってグレープフルーツの半分を顔に押し付ける。恋愛が支えではなく、支配の練習になる瞬間がある。彼は次にグウェン・アレンへ移る。華やかな女のそばにいると、自分も華やかだと錯覚できるからだ。

マットの結婚披露宴の夜、トムとマットは店でパティ・ノーズを見つける。逃げた大人が、今度は弱い顔で目の前にいる。家まで追い詰めると、パティは命乞いし、子どもの頃に二人を楽しませた曲をピアノで弾く。マットは呆然と見守るが、トムは背後から撃ち殺す。ここが決定的だ。トムは「恨み」を片づけたつもりで、実際には自分の中の“戻れなさ”を確定させる。情けない大人を殺してしまった若者は、もう子どもに戻れない。

やがて抗争が起きる。仲間が撃たれ、トムも狙われる。トムは復讐に走り、単独で敵対組織へ突っ込む。銃撃戦で重傷を負い、病院へ運ばれる。見舞いに来た母、兄マイク、そして身近な人々の前で、トムは一度は和解し、更生を誓う。だがこの“誓い”は、心が変わったというより、身体が壊れたことによる静けさに近い。

その直後、状況はひっくり返る。トムが病院から誘拐されたと知らされる。さらに「トムが帰ってくる」という電話が入る。母は大喜びし、寝室を整え、息子が戻る未来だけを見る。マイクがドアをノックし、返事がないまま扉を開けると、縛られたトムの身体がドアにもたれかかり、床に崩れて息絶える。家の中に入ってくるのは“帰還”ではなく“搬入”だ。映画は、マイクがゆっくりとカメラに向かって歩いてくる場面で終わる。悲嘆というより、理解不能な現実の重さだけが残る。

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映画レビュー:公共の敵とは、誰のことか

『民衆の敵』〜社会の敵は、街が作った

トムは、何かになろうとしていない。王にもなりたくない。思想もない。夢も曖昧だ。なのに、気づくとそこにいる。ギャングになった理由が薄い。その薄さこそがリアルだ。人はたいてい、強い意志で人生を選ばない。「気づいたらこうなっていた」という連続でできている。トムはその最も極端な例だ。

『民衆の敵』は、トム・パワーズの凶暴さではなく、凶暴さが“社会の文脈”に乗ってしまうことを描いた。禁酒法という制度ができ、酒が闇に回り、闇に金が集まる。金が集まれば、実行役が必要になる。トムはその空席に座っただけにも見える。特別だからではなく、そこに座れる若者が必要だったからだ。

ここで「公共の敵」という言葉は便利な札になる。危険なものが外側にあると思える。だが映画は、その札が実は“内側の問題”だと示してくる。トムは街の産物であり、家の産物であり、時代の産物でもある。母の盲目的な愛情、兄の正しさ、友の弱さ、そして制度の歪み。どれか一つだけが原因ではない。その混ざり方が、トムという形になる。

ウェルマンの演出が鋭いのは、トムを「反省する悪人」にしない点だ。トムは善人に戻ろうとしない。戻り方を知らない。だから更生の誓いも、道徳の勝利ではなく、疲労と痛みの一瞬の静止に見える。止まったら終わる。ギャングの世界で止まるのは、降車ではなく停止だ。そこには“次”がない。

有名なグレープフルーツの場面も、トムにとって恋人は、対話の相手ではなく、気分を調整する道具に近い。言葉が面倒になると、物で黙らせる。その粗暴さは“男らしさ”の誇張として語られがちだが、実際は逆だ。言葉で関係を作れない未熟さが、手の早さとして出ている。暴力は強さではなく、貧しさの現れになる。

そしてラスト。家に戻るはずの息子が、縛られた死体として“家に入ってくる”。この反転が残酷だ。家族という最も私的な空間が、外の暴力の搬入口になる。母の喜びと死体が同じドアの前で接続される。ここに、この映画の哲学がある。世界を二つに分けられない、という事実だ。善良な家庭と悪い街。清潔な日常と汚れた裏社会。そういう仕切りは、簡単に破られる。

最後にカメラへ歩いてくる兄マイクの顔が示すのは、勝利でも罰でもない。理解の破綻だ。正しかったかもしれない。だが正しさは、死体を避けない。正しさは、帰ってきた弟を救えない。ここで残るのは、「では、何が弟をこうしたのか」という問いだけだ。

『民衆の敵』が優れているのは、「男はこう生きるべきだ」も「男はこう破滅する」も描かないところだ。ただ一つだけ見せる。

男は、特別な理由がなくても、気づいたら戻れない場所にいることがある。そのとき、本人はそれを選んだつもりすらない。

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『犯罪王リコ』〜光を欲しがった男は、影のまま終わる

『犯罪王リコ』〜光を欲しがった男は、影のまま終わる

『犯罪王リコ』(原題:Little Caesar)は、1931年公開のアメリカ映画。マーヴィン・ルロイ監督、主演はエドワード・G・ロビンソン。1920年代末から流行したギャング映画の“原型”のひとつであり、上へ上へと伸びた男が、最後に看板の影でしぼむまでを、80分で一気に走り切る。

この映画の冷たさは、リコを「大物」にも「怪物」にも仕立てないところにある。野心家だが、思想家ではない。夢はあるが、夢を語る言葉が薄い。その上昇は速く、崩壊も速い。ギャング映画の快楽が、ここではほとんど“呼吸の速度”として刻まれている。

スタッフ

  • 監督:マーヴィン・ルロイ
  • 脚本:フランシス・エドワーズ・ファラゴー
  • 原作:W・R・バーネット
  • 撮影:トニー・ゴーディオ
  • 製作会社:ファースト・ナショナル・ピクチャーズ
  • 配給:ワーナー・ブラザース
  • 公開:1931年1月9日(アメリカ)/1931年10月8日(日本)
  • 上映時間:80分

エドワード・G・ロビンソンは発砲シーンで思わず目をつむってしまい、凄味が台無しになるため、瞼を絆創膏で押さえて瞬きできないようにして撮ったという。

シカゴの暗黒街から“見学者”がスタジオを訪れ、自分たちの手口が具体的に映画で描かれ、捜査のヒントになることを恐れた。だがルロイは芸人時代の経験からジョークを飛ばし、うまく丸め込んだという逸話が残っている。

キャスト

『犯罪王リコ』〜光を欲しがった男は、影のまま終わる

  • カエサル・エンリコ“リコ”・バンデッロ:エドワード・G・ロビンソン
  • ジョー・マッサラ:ダグラス・フェアバンクス・ジュニア
  • オルガ:グレンダ・ファレル
  • ビッグ・ボーイ:シドニー・ブラックマー
  • フラハティ:トーマス・ジャクソン

ジョー役の人選は難航し、多くの若手がスクリーンテストを受けた。そこには無名時代のクラーク・ゲーブルもいたが、「耳が大きすぎる」として見送られた。最終的に、人気急上昇中だった21歳のダグラス・フェアバンクス・ジュニアが起用される。ジョーの人物像は、後に『暗黒街の顔役』などでも活躍するジョージ・ラフトがモデルになったと言われる。

オルガ役のグレンダ・ファレルはブロードウェイから呼ばれ、この後もワーナー作品でフィルム・ノワールやミュージカルに出演していく。

あらすじ

『犯罪王リコ』〜光を欲しがった男は、影のまま終わる

小さな犯罪者のカエサル・エンリコ、通称リコ・バンデッロは、相棒のジョー・マッサラとともに、運をつかむためシカゴへ出てくる。リコは裏社会でのし上がることを望み、サム・ヴェットーリのギャングに加わる。一方ジョーは、本心ではダンサーとして表舞台に立ちたい。彼には恋人であり踊り子のオルガがいて、彼女と一緒なら別の人生があり得る気がしている。

だがシカゴは、夢を見る順番を許さない街だ。ジョーがギャングの仕事から距離を取ろうとするほど、リコは逆にジョーを“こちら側”へ引きずり戻そうとする。リコはジョーを自分の働くナイトクラブの強盗に参加させる。裏社会の元締めビッグ・ボーイは「流血は避けろ」と命じていたにもかかわらず、リコは強盗の最中に、犯罪撲滅活動家アルヴィン・マクルーアを撃ち殺してしまう。ここで線を越えるのは、計算というより癖だ。怖くなると引き金を引く。勢いを止めると負ける気がする。リコはそういう男だ。

目撃したジョーは衝撃を受ける。さらに、運転手トニーが良心の混乱から牧師にニュースを伝えようとすると、口封じのためにリコの命令で殺される。ここから、ギャングの世界の重力が見えてくる。大物になるほど、仕事は“稼ぎ”ではなく“消し込み”になっていく。

リコは、組織のボス格サムが弱くなったと見て支配権を奪おうとする。ライバルのボス、リトル・アーニー・ローチがリコ暗殺を企てるが、リコはかすり傷で生き残る。リコは逆にアーニーを追い込み、「町を去るか、殺されるか」を迫ってデトロイトへ追放する。ビッグ・ボーイは最終的に、シカゴ北部一帯の支配権をリコに与える。ここでリコは“勝った”はずだが、勝った瞬間から孤独が始まる。支配は仲間を増やすようで、実際には“疑い”を増やす。

リコは、ジョーが自分のことを知りすぎていると感じ始める。ジョーに「オルガを忘れて犯罪に戻れ」と迫り、従わなければジョーもオルガも殺すと脅す。しかしジョーは屈しない。オルガは刑事部長フラハティに電話し、「ジョーが話す用意がある」と伝える。ちょうどその時、リコと手下のオテロがジョーの元へ現れる。リコはそこで、友人を殺せない自分に気づく。だが迷いが生むのは救いではなく事故だ。オテロが実行しようとすると、リコは銃を奪い、そのもみ合いでジョーは負傷する。銃声を聞きつけた警官が追い、オテロは射殺される。

オルガの情報を得たフラハティは、リコの組織を壊滅させるべく動き出す。仲間は捕まり、支配していたはずの街は急に遠くなる。リコは安宿に身を隠すが、そこで新聞に「卑怯者」と書かれているのを見て激怒する。命が危ないのに、彼が耐えられないのは名誉の傷だ。彼は愚かにも警察に電話し、逆探知されて居場所が割れる。

追い詰められたリコは、看板の裏に隠れる。そこへフラハティが現れ、リコは射殺される。看板には、ジョーとオルガが踊る広告が描かれている。表舞台へ行きたかったジョーは生き残り、裏街道で王になりたかったリコは看板の影で倒れる。リコは死に際に言う。「お慈悲深き母よ、これがリコの最後なのか」。大きいことを言い続けた男が、最後に口にするのがこの弱さなのが、この映画の残酷さでもある。

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映画レビュー:王になりたかった男の、名前が剥がれる瞬間

『犯罪王リコ』〜光を欲しがった男は、影のまま終わる

『犯罪王リコ』は、ギャングの栄光譚ではない。もっと単純で、もっと苦い。

リコは金が欲しいのではない。女が欲しいのでもない。欲しいのは、呼び名である。リコは最初から“リコ”という名前を作りたがっている。人に恐れられたい。見上げられたい。世界の中で自分の位置を固定したい。貧しさが怖いのではなく、取るに足らない存在のまま消えるのが怖い。

だから、必要以上に撃つ。必要以上に脅す。必要以上に支配する。暴力は手段だが、同時に自分を大きく見せる演出でもある。その演出は、演じているうちに、演じた役が自分を食う。リコの上昇が速いのは、迷いがないからではない。迷いを認めると“リコ”が崩れるからだ。だから迷いを押しつぶす。押しつぶした分だけ、息が苦しくなる。

この映画の凄みの半分以上は、エドワード・G・ロビンソンの顔と声でできている。ニヒルな表情のまま沈黙が落ちる、その短い“間”が怖い。さらに、あのノコギリのような発声。ざらついて、押したかと思うと急に引く。声の緩急だけで、相手を脅し、試し、切りつける。後年『シンシナティ・キッド』で見せる老獪な貫禄とは別物で、ここにはもっと若く、もっと危うい斬れ味がある。大物の余裕ではなく、小物感でしか出せない凄みだ。自分を大きく見せようとしすぎる男の必死さが、そのまま迫力に変わっている。顔面がヤクザのドスである。

この映画が凄いのは、リコの最大の弱点を「友情」に置いた点だ。ジョーは目撃者であり、危険な足かせであり、同時に唯一の“昔の自分”でもある。リコはジョーを殺せない。ここが人間的で、同時に致命的だ。ギャング映画では「情が破滅を呼ぶ」と言われるが、ここでの情は美談ではない。単に、リコが完全な怪物になり切れないという事実である。

そして、最後の転落を決めるのが「新聞の言葉」なのも見事だ。撃たれることより、「卑怯者」と書かれることが耐えられない。命より評判が大事になる瞬間、人はもう自由ではない。世間の目を支配したいと思っていた男が、世間の目に支配されて自滅する。これはギャングの転落というより、自己像の崩壊である。

看板の裏で死ぬラストは痛烈だ。リコはずっと表へ出たかった。目立ちたかった。名前を残したかった。なのに最後の位置は“広告の裏”だ。しかも看板には、ジョーとオルガの世界、踊り、舞台、光が描かれている。リコが欲しかったのは本当はこの光だったのかもしれない。しかし、その行き方を知らなかった。だから影で王になろうとした。その結果、影のまま終わる。

『犯罪王リコ』の散り様が忘れがたいのは、大悪党だからではない。大きくなりたかった、という一点が、あまりに素朴で、あまりに人間的だからだ。人は誰でも少しは、取るに足らない自分を嫌う。その嫌い方が極端になると、リコのようになる。

だからこの映画は、ギャング映画の古典であると同時に、後のアメリカ映画が何度も繰り返す「男の自己像の崩壊」の原型にもなっている。王になりたかった男が、最後に残すのは王冠ではない。弱々しい問いだけだ。

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『テキサスの五人の仲間』〜男の世界を壊したのは、一枚の札ではなく一人の女

『テキサスの五人の仲間』〜男の世界を壊したのは、一枚の札ではなく一人の女

『テキサスの五人の仲間』(原題:A Big Hand for the Little Lady)は、1966年のアメリカ映画。フィールダー・クック監督、主演はヘンリー・フォンダ。町の富豪5人が年に一度だけ行う高額ポーカーの“儀式”に、旅の一家が紛れ込むことで起きる騙し合いを描いた傑作である。原題は「小さなレディに大きな拍手を!」の意味で、まさに終盤、場を支配するのが“レディ”になる瞬間の興奮をそのままタイトルにしている。

スタッフ

  • 監督・製作:フィールダー・クック
  • 脚本:シドニー・キャロル
  • 音楽:デイヴィッド・ラクシン
  • 撮影:リー・ガームス
  • 編集:ジョージ・R・ローズ
  • 製作会社:Eden Productions Inc.
  • 配給:ワーナー・ブラザース
  • 公開:1966年5月31日(アメリカ)/1966年10月2日(日本)
  • 上映時間:95分

本作は、1962年に放映されたテレビドラマ『ビッグ・ディール・イン・ラレド』を映画化した作品である。テレビの一話完結の緊張感を、映画として持続させるために、物語の多くは「酒場の奥の部屋」という閉じた空間で進む。

キャスト

『テキサスの五人の仲間』〜男の世界を壊したのは、一枚の札ではなく一人の女

  • メレディス:ヘンリー・フォンダ
  • メアリー:ジョアン・ウッドワード
  • ヘンリー・ドラモンド:ジェイソン・ロバーズ
  • C・P・バリンジャー:ポール・フォード
  • ベンソン・トロップ:チャールズ・ビックフォード
  • スカリー医師:バージェス・メレディス
  • オットー・ハバショー:ケヴィン・マッカーシー
  • デニス・ウィルコックス:ロバート・ミドルトン
  • ジェシー・ビュフォード:ジョン・クォーレン
  • ジャッキー:ジェラルド・ミシェノー
  • サム・ライン:ジェームズ・キニー
  • トビー:アレン・コリンズ
  • ピート:ジム・ボールズ
  • ドラモンド夫人:バージニア・グレッグ
  • サルーンの老人:チェスター・コンクリン

あらすじ

『テキサスの五人の仲間』〜男の世界を壊したのは、一枚の札ではなく一人の女

西部開拓時代のラレド。この町には、地域で最も裕福な5人の男がいる。彼らは年に一度だけ、誰にも邪魔されない“高額ポーカー”を行う。町の行事というより、富豪たちの宗教儀礼に近い。金を賭けているのに、賭けているのは金以上のものだ。面子、支配、仲間内の序列、そして「自分は選ばれた側だ」という安心。葬儀屋のトロップが馬車で呼び出しに来ると、男たちは生活を投げ捨ててでも集まる。牧場主ヘンリー・ドラモンドは娘の結婚式すら延期させ、弁護士のオットー・ハバーショーは依頼人の命がかかった裁判の最終弁論を放棄する。彼らにとって、ポーカーは娯楽ではなく、世界の優先順位を確認する行為なのだ。

会場はサムの酒場の奥の部屋。ウィルコックスやビューフォードも加わり、外では町の人々が好奇心で集まり、時おり中を覗こうとする。しかし扉は重い。富豪たちの世界は閉じている。ここでは「持っている者」だけが声を持つ。

その頃、町を通りかかったのが、開拓者メレディスと妻メアリー、そして幼い息子ジャッキーの一家だ。彼らはサンアントニオ近郊の農場を買うために移動していたが、荷馬車の車輪が壊れてしまう。鍛冶屋が修理するあいだ、彼らはサムの店で待つことになる。メレディスはかつてギャンブルに溺れた過去があり、いまは立ち直りつつある。だが「大勝負がある」と聞いた瞬間、心がざわつく。昔の病気が、静かに目を覚ます。

弁護士ハバーショーは、メアリーの美しさに心を奪われ、メレディスを“観戦者”としてではなく“参加者”としてテーブルに招き入れる。富豪たちの遊びに、外の人間を混ぜる。これは親切ではなく、退屈つぶしであり、支配の余裕の誇示でもある。メレディスはついに賭け金を投じ、家を買うために貯めていた家族の貯金を、全部テーブルに置いてしまう。

ゲームは白熱し、賭け金は2万ドルを超え、レイズとリレイズが繰り返される。ここでの緊張は、銃声ではなく呼吸の停止で生まれる。男たちはカードの顔より、相手の顔を読む。金が尽きたメレディスは、最新のレイズにコールできず、プレッシャーに耐えきれず倒れる。呼ばれる医師ジョセフ・“ドク”・スカリー。彼が行うのは治療だが、同時に“場を続けさせる”ための整備でもある。富豪たちにとって、倒れた男の命より、ゲームが止まることのほうが不快なのだ。

意識が朦朧としたメレディスは、妻にゲームを続けろと合図する。席に着いたメアリーは、開口一番こう言う。「このゲームはどうやってプレイするの?」
富豪たちは反対する。笑い、怒り、脅し、空気の圧力。だが最終的には折れる。なぜなら、ここは“公正”を守っているふりが必要な世界だからだ。女を追い出すのは簡単だが、それをやると自分たちの遊びがただの暴力に見えてしまう。彼らは暴力より先に体裁を愛している。

メアリーは状況を理解する。ここでは、同額を出せなければ脱落する。男たちの反対にもかかわらず、彼女は追加資金を借りるために部屋を出る。ジャッキーと4人のプレイヤーがぞろぞろついていく。彼らは監視しているつもりだが、実際には彼女の“決断”に引きずられている。

通りを渡り、銀行家CP・バリンジャーのもとへ行くメアリー。手札を見せると、バリンジャーは最初、いたずらだと疑う。だが彼女の目が本気だと分かると、年利6%で5,500ドルを貸し、さらに5,000ドルのレイズをする。ケチで慎重なバリンジャーがここまで踏み込むのは異様だ。だからこそ、他の男たちはしぶしぶフォールドする。勝負は終わり、メアリーは多額の賞金を受け取り、バリンジャーに利子をつけて返済する。勝ったのに、誰も勝利の手札を見ることはない。見せない。見せる必要がない。勝利は“結果”ではなく“場の支配”だからだ。

男たちは、彼女の強い意志に賞賛すら抱く。ドラモンドは感動し、結婚式を待つ自宅に戻ると、意志の弱い婿候補にこっそり金を渡して「逃げろ。もっと良い妻を見つけろ」と言う。ここが面白い。ゲームの余韻が、他人の人生の判断にまで侵入する。ポーカーは一夜の遊びではなく、人の価値観のスイッチなのだ。

だが最後に世界がひっくり返る。メレディスもメアリーも、そして“息子”さえも詐欺師で、カード賭博の達人だった。田舎医者スカリーの協力を得て、バリンジャーの指示のもと、彼らは16年前に銀行家を不動産取引で騙した富豪たちへ、同じ種類の罠を仕掛けていた。「メアリー」の正体はバリンジャーの愛人ルビー。事件の後、彼女はギャンブルをやめると約束していたが、落胆するバリンジャーをよそに、またポーカーに戻っていく。人は約束より、スリルに忠実なのだ。

映画レビュー:男たちが負けたのは「女を見誤った自分」である

『テキサスの五人の仲間』〜男の世界を壊したのは、一枚の札ではなく一人の女

『テキサスの五人の仲間』の面白さは、ポーカー映画でありながら、勝負の核心がカードにないところだ。

普通のギャンブル映画なら、観客は手札の強さ、ブラフの巧さ、イカサマの構造を見つめる。誰がどう勝ったのか、ルールの内側で決着がつく。この映画では、勝負を決めるものが最初から別の場所にある。ここで賭けられているのは金だけではない。男たちが長年守ってきた「自分たちは場を読める」「女や素人は卓上の駒にすぎない」「この部屋の空気は自分たちのものだ」という思い込みそのものだ。

メアリーが席に着いた瞬間、勝負の質が変わる。ギャンブルの玄人ではない。ルールも知らず、金も足りず、夫は倒れ、子ども連れで、おまけに女である。この場にいる富豪たちが最初から下に置いている条件を、全部引き受けた姿で現れる。男たちは、メアリーを危険な相手としてではなく、処理すべき例外として扱う。ここが敗因になる。

この映画の痛快さは、カードのトリックではない。「人間は、自分の見たい相手しか見ない」という弱点を、徹底して利用するところにある。だから、メアリーの手札はなんでもいい。豚でもいい。

富豪たちは、メアリーの手札を読めなかったのではない。もっと前の段階で、彼女を読もうとしていない。素人で、女で、追い詰められていて、必死なだけの存在だと決めてかかっている。だからメアリーの言葉も、間も、沈黙も、視線も、全部あとから意味を持つ。男たちはポーカーの名人だが、人間を見るときには、自分の偏見に頼ってしまう。つまりこの映画は、カードの映画ではなく、観察の敗北を描いた映画だ。

重要なのは、最後のオチを知らない劇中の男たちは、自分たちが“計画的な詐欺”に引っかかったとは思っていないことだ。男たちが受け取った敗北は、もっと生々しい。

「自分たちは、何も知らないはずの女に、度胸で負けた」

「しかも、その場でそれを認めざるをえなかった」

この屈辱は大きい。なぜならカードの勝ち負けなら、運が悪かった、読みが外れたで済むからだ。だが、素人と思っていた女に押し切られたとなると、負けたのは技術ではなく人間の格になってしまう。自分たちが守ってきた男の世界の序列が、一夜にして崩れる。そのショックが、男たちを怒らせるより先に、妙に静かにさせる。

ここで牧場主ヘンリー・ドラモンドが、政略結婚を控えた婿に金を渡して帰らせる場面が効いてくる。あれは単なる気まぐれでも、唐突な慈悲でもない。メアリーの肝っ玉に敗れたことで、ドラモンドは初めて「人は金や取り決めで思い通りには動かない」と骨身にしみる。

それまでは、結婚もまたポーカーの延長で考えていた。家同士の釣り合い、損得、体面、配置。だがメアリーは、その“うまく収まっている場”を壊した。しかも暴力ではなく、意志だけで壊した。男たちが当然だと思っていた流れを、「嫌だ」「まだ賭ける」「私は降りない」という姿勢でひっくり返した。

ドラモンドはそこで見てしまう。結婚もまた、そういうものではないか、と。

自分の娘を、気弱で意志のない男にあてがい、家の都合でまとまった形にしても、それは生きた関係ではない。メアリーのような気迫に触れたあとでは、形だけの結婚が急に色褪せて見える。婿候補を逃がすのは、娘への愛情だけではない。自分がいままで正しいと思っていた“男の取り仕切り”が、実はずいぶん空虚だったと悟ってしまったからだ。金を渡す行為には、敗北感と諦観が混じっている。自分は人の人生まで配れると思っていたが、そんなことはできない。そのことを、ポーカー卓の外でようやく認めたのである。

だからドラモンドの行動は、メアリーへの敗北の余韻でもある。女に場を変えられた男が、家に帰ってから初めて、別の場でも同じことをする。つまり、支配する側から一歩退く。あれは敗北の延長であり、同時に少しだけ人間的になる瞬間でもある。

この映画が他のギャンブル映画と違うのは、そこだ。『シンシナティ・キッド』や『スティング』では、勝負の快感はやはりゲームの構造にある。誰が上手いか、誰が一枚上手か、誰が相手を出し抜くか。勝敗は技術や仕掛けの美しさに回収される。観客は、その精巧さにしびれる。

だが『テキサスの五人の仲間』では、観客がいちばん快感を覚えるのは、「札の強弱」より前のところだ。この男たちは、カードではなく、先入観で負ける。それがたまらなくおかしい。

人はゲームのルールには慎重でも、自分の思い込みには無防備だ。相手が女で、素人で、困っていて、場違いに見えた瞬間、もう判断を誤る。この映画は、その人間の弱さをポーカー卓の上にむき出しにする。

崩れたあとに残るのは、悔しさと、諦めと、少しの敬意である。あの“小さなレディ”に拍手したくなるのは、観客だけではない。劇中の男たちもまた、敗北の中でそれを感じてしまったのだ。

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なぜ男たちはギャンブルに夢中になるのか?

『テキサスの五人の仲間』〜男の世界を壊したのは、一枚の札ではなく一人の女

『テキサスの五人の仲間』『シンシナティ・キッド』を並べて見ると、ギャンブル映画は金の話ではないとよく分かる。もちろん画面の上では金が動く。だが、本当に賭けられているのは金ではない。男たちは、金を媒介にして、自分の価値、運、腕、勘、度胸、そして他人の視線を賭けている。

男たちは、その装置に特に強く惹かれてきた。理由は単純で、男の社会は長く「比較」と「序列」によって動いてきたからだ。狩りでも戦でも商売でも、男はしばしば「誰が強いか」「誰が前へ出るか」「誰が最後に取るか」を競わされてきた。

ギャンブルは、その競争を最も濃縮した形で見せる。短時間で、残酷なくらい明快に、勝者と敗者が出る。しかも腕だけでは足りない。運もいる。だからこそ燃える。努力だけで決まる世界なら、負けた理由は能力不足で済む。だが運まで絡むと、負けた男は「自分は本当は選ばれるはずだったのに」と思い続けられる。そこに中毒性がある。

『シンシナティ・キッド』がそういう映画だ。若いキッドが求めているのは、金ではない。最強の男を倒して、「自分こそ本物だ」と証明することだ。ギャンブルは職業である以前に、自己確認の舞台である。男は鏡で自分を知るより、勝負で自分を知りたがる。しかも厄介なのは、勝っても完全には満たされないことだ。なぜなら次は、勝った自分を証明し続けなければならないからである。ギャンブラーは一度勝つと、金持ちになる前に、役割に閉じ込められる。「勝つ者」であり続けなければならない。

ここで重要なのは、男たちが賭けているのは「勝つ金額」より「負けたときの恥」だという点だ。ギャンブルは損得の計算に見えて、その実、感情の劇場である。降りたら臆病者に見える。張れば無謀に見える。表情を変えれば読まれる。つまり卓についた瞬間、男は金だけでなく人格そのものを査定される。だから熱くなる。金を失うより、自分が小さく見えることの方が耐えがたいからだ。

では、なぜ特に男なのか。もちろん女のギャンブラーもいる。だが歴史的には、男たちは「稼ぐ」「奪う」「守る」「勝つ」という圧力をより強く受けてきた。社会が男に求めてきたのは、安定よりしばしば成果であり、平穏よりしばしば証明だった。ギャンブルは、その要求に異様によく合っている。短時間で、はっきり結果が出る。努力と直結しないぶん、夢も見られる。貧しい男も、一夜で富豪と同じ卓につける。弱い男も、一手で強い男を黙らせられる。ギャンブルは、階級や実績を飛び越えて、「今この瞬間だけは対等だ」と感じさせる装置なのである。

ただし、そこには毒がある。

なぜならギャンブルは、現実の長い時間を切り捨てるからだ。人生では、信用は少しずつ作られる。愛も仕事も、積み上げが必要だ。だがギャンブルは、数秒で結果が出る。男たちはこの圧縮された時間に酔う。人生の判定を、一瞬で受けたいのだ。長く努力してじわじわ評価されるより、一撃で「お前の勝ちだ」と言われたい。その欲望はかなり深い。狩りも戦も決闘も、男の歴史には「一瞬で価値が決まる場面」が繰り返しあった。ギャンブルはその名残でもある。

だからギャンブル映画に出てくる男たちは、たいてい少し古い。現代に生きていても、どこか前近代的な誇りを捨てきれない。金を得たいのに、金だけでは満足しない。勝ちたいのに、勝利の中身が曖昧だ。それでも卓を離れない。欲しいのは生活費ではなく、自分がまだ世界から拒絶されていないという証明だからだ。どれも結局、「自分は何者か」を賭けで確かめようとする話である。

男たちがギャンブルに夢中になるのは、金が欲しいからだけではない。偶然に選ばれたいからだ。努力や人格や善良さとは別の場所で、「お前だ」と世界に指さされたい。その欲望は幼くもあり、切実でもある。だから勝負はやめられない。負けてもなお、「次こそは選ばれる」と思える限り、人は卓に戻る。

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『ニューヨーク・ニューヨーク』〜成功の歌が、恋を置き去りにする

『ニューヨーク・ニューヨーク』〜成功の歌が、恋を置き去りにする

『ニューヨーク・ニューヨーク』(原題:New York, New York)は、1977年のアメリカ映画。監督はマーティン・スコセッシ、主演はライザ・ミネリとロバート・デ・ニーロ。終戦直後のニューヨークを舞台に、サックス奏者と歌手が出会い、惹かれ合い、そして同じ速さでは歩けないことに気づいていくラブ・ストーリーである。

スタッフ

  • 監督:マーティン・スコセッシ
  • 脚本:アール・マック・ローチ/マーディク・マーティン
  • 製作:アーウィン・ウィンクラー
  • 音楽:ラルフ・バーンズ/ジョン・カンダー/フレッド・エッブ
  • 撮影:ラズロ・コヴァックス
  • 配給:ユナイテッド・アーティスツ
  • 公開:1977年6月21日(アメリカ)/1977年8月13日(日本)
  • 上映時間:163分

スコセッシは両親の世代の「故郷としてのニューヨーク」を描きたいと考え、この映画に着手した。完成当初は4時間半の映画だったと言われる。

本作は、あの名曲「ニューヨーク・ニューヨーク(Theme from “New York, New York”)」を生んだ作品でもある。ライザが劇中で歌い、サウンドトラック収録、1977年にシングルとしてもリリースされた。翌年、友人だったフランク・シナトラがカヴァーし、曲は「ニューヨーク市の非公式な市歌」とも呼ばれるようになった。

ヤンキースタジアムでは試合終了後にシナトラ版が流れるのが定番になっている。曲が生まれた当初は、歌詞の冒頭が「ここは訪れるにはいい場所だとよく言われるが、私はここに住みたくない」という皮肉な一節で始まり、まったく別物だった。

キャスト

『ニューヨーク・ニューヨーク』〜成功の歌が、恋を置き去りにする

  • フランシーヌ・エヴァンス:ライザ・ミネリ
  • ジミー・ドイル:ロバート・デ・ニーロ
  • バーニス・ベネット:メアリー・ケイ・プレイス
  • トニー・ハーウェル:ライオネル・スタンダー
  • ポール・ウィルソン:バリー・プリマス

デ・ニーロはカナダのサックス奏者ジョージー・オールドからサックスを学び、オールドは劇中でバンドリーダーのフランキー・ハート役として出演している。ただし劇中で流れるサックスの音はデ・ニーロ本人ではなく、オールドの演奏を録音したものだ。

ライザ・ミネリの“パフォーマンス映画”のような場面が多いのは、撮影中にミネリとスコセッシが不倫関係にあったからだとも言われている。

あらすじ

『ニューヨーク・ニューヨーク』〜成功の歌が、恋を置き去りにする

1945年の対日戦勝記念日。ニューヨークのナイトクラブは祝賀ムードに包まれ、トミー・ドーシー・オーケストラの演奏が夜を押し上げている。そこにいるサックス奏者ジミー・ドイルは、腕は立つが、口が先に出る。自分の才能を疑わないかわりに、他人への敬意も薄い。人を口説くというより、相手の時間を奪うように押し込んでくる男だ。

その夜、USOの駆け出し歌手フランシーヌ・エヴァンスと出会う。フランシーヌは孤独を抱えつつも、慎重に自分の距離を守って生きている。ジミーの強引さに乗らない。彼が電話番号をしつこく聞いても拒絶する。ここで二人の対照がはっきりする。ジミーは「近づけば世界は取れる」と思っているが、フランシーヌは「近づくほど失うものがある」と知っている。

翌朝、二人は偶然タクシーで乗り合わせる。フランシーヌは気が進まないまま、ジミーのオーディションに付き添うことになる。オーディションでジミーはクラブのオーナーと口論になる。才能はあるのに、才能の出し方が乱暴なのだ。空気を読めず、相手の面子も守れない。破綻しかけた場を、フランシーヌが歌でつなぐ。古いスタンダード「You Brought a New Kind of Love to Me」を歌い始め、ジミーもサックスで加わる。二人の呼吸が偶然合い、オーナーは感銘を受ける。こうして二人は男女ペアの旅芸人として仕事を得る。恋より先に“仕事の相性”が成立してしまう。

関係は、執着と愛情が入り混じったものへ深まっていく。だが問題も増える。ジミーは同僚と喧嘩が絶えず、大げさで、己の正しさに酔いやすい。フランシーヌが妊娠すると、その不安と現実の重さが二人の間に沈殿し、口論は激しくなる。ある激しい言い争いが引き金になり、フランシーヌは陣痛を起こしてしまう。ジミーは病院へ運び、男の子が生まれる。だが彼は父親になる準備も、夫になる準備もできていない。彼は妻を置き去りにし、生まれたばかりの息子にも会おうとせず、病院を去っていく。ここで映画は決定的に割れる。二人の恋が壊れたのではなく、二人の“生き方の速度差”が露わになる。

数年後。フランシーヌはレコーディングスタジオで「But the World Goes Round」を録音し、この歌がチャート入りして彼女を人気エンターテイナーへ押し上げる。彼女は歌手として、さらに映画女優として成功していく。一方ジミーも、ジャズミュージシャン兼クラブオーナーとして名を上げる。二人は同じ業界で成功を掴むが、成功の掴み方が違う。フランシーヌは仕事を積み上げ、信用を作り、舞台を“自分の場所”にする。ジミーは勝負し、威張り、世界を“自分の物”にしようとする。

ジミーは自作のサックス曲を録音し、ジャズチャートで頂点へ上がる。フランシーヌは「ニューヨーク、ニューヨーク」を歌い、スターダムを確固たるものにする。そのパフォーマンスは、皮肉にも、二人が出会ったのと同じナイトクラブで行われ、観客は熱狂する。ジミーは電話をかけ、ショーの後に夕食へ行こうと誘う。フランシーヌは一度は楽屋口へ向かうが、土壇場で足が止まる。彼女は“会わない”ことを選ぶ。歩道で待つジミーはすっぽかされたと悟り、通りを歩き出す。街は光り続け、音楽は鳴り続ける。だが、二人の物語だけが、そこに戻らない。

映画レビュー:成功は、恋の続きを奪う

『ニューヨーク・ニューヨーク』〜成功の歌が、恋を置き去りにする

『ニューヨーク・ニューヨーク』は、恋が終わる映画ではない。恋が「続く形」を失っていく映画だ。もっと言うと、恋より強いものが二人の間に入ってくる。才能と成功である。

ジミー・ドイルは、典型的な“才能に人格が追いつかない男”だ。自信がある。だから無礼になれる。無礼になれるから孤独になる。その孤独を埋めるために、フランシーヌを欲しがる。愛というより、才能が疲れたときに戻れる避難所としての相手だ。だがフランシーヌは避難所ではない。彼女もまた、自分の声を持っている。声を持つ人間は、物扱いされると必ず離れていく。

フランシーヌの強さは、最初から「あなたの才能を信じない」ことではない。むしろ、才能が人を壊すのを知っていることだ。彼女が慎重なのは臆病だからではなく、代償の計算ができるからだ。ジミーは熱で突っ走るが、フランシーヌは温度を調整しながら生きている。この温度差が、恋の一番の敵になる。熱い者は、相手も同じ熱でいてほしい。だが人生には、熱で乗り切れない局面が来る。妊娠、出産、生活。そこで熱はしばしば暴力に変わる。ジミーの口論がフランシーヌを陣痛へ押しやる展開は、象徴として過激だが、構造としては妙に現実的だ。言葉は、身体を壊す。

面白いのは、二人が別れてから成功することだ。普通は、恋が成功を呼ぶ。ここでは逆で、別れが成功を呼ぶ。フランシーヌは一人になって、声を自分のものとして育てる。ジミーもまた、一人で、世界に対する苛立ちを音に変えていく。つまり二人は、恋人でいるより、別々でいるほうが上手くいく。だから切ない。相性が良いのに、一緒にはいられない。成功が生活を救うのではなく、成功が生活を分解してしまう。

そして「Theme from “New York, New York”」が、この映画の残酷な中心にある。あの曲は街の勝利の歌のように聞こえる。だが映画の中では、勝利の歌が、個人の敗北の上で鳴っている。街は人を押し上げる。だが押し上げられた人は、元の場所に戻れなくなる。成功とは、上に行くことではなく、戻る道を消していくことでもある。

ラストでフランシーヌが“会わない”選択をするのは、冷酷でもない。彼女はただ、過去の二人に戻れるという幻想を捨てる。会えば何かが戻る、と人は思いたがる。だが戻らない。戻らないことを知っている者だけが、会わずに立ち去れる。

『ニューヨーク・ニューヨーク』は、ミュージカル的な華やかさをまといながら、かなり苦い。恋は運命ではなく、調整だ。調整できない二人は、愛があってもすれ違う。そして都市は、そのすれ違いを止めない。都市は慰めない。音楽だけを増幅して、個人の孤独を目立たせる。

この映画のニューヨークは、観光案内の街ではない。夢の街でもない。才能を試し、選択の代償を支払わせる街だ。歌が大きくなるほど、言えなかった言葉も大きくなる。サックスが鳴るほど、沈黙も濃くなる。

恋の映画として観ると苦い。都市の映画として観ると、もっと苦い。だがその苦さこそが、スコセッシが両親の世代のニューヨークに見た匂いなのだ。夢は叶う。だが叶った夢は、別の生活を要求する。その要求に応えた者だけが、舞台の中心に立てる。恋は、そこではいつも少し遅れる。

 

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『嘆きの天使』〜女は奪わない、ただ、男を壊す

『嘆きの天使』〜女は奪わない、ただ、男を壊す

『嘆きの天使』(独:Der blaue Engel/英:The Blue Angel)は、1930年製作・公開のドイツ映画。

ドイツ語のタイトルの「青い天使」は、物語の舞台となるキャバレーの名でもあり、主人公が落ちていく先に灯る看板の色でもある。権威と欲望、規律と歌、教壇と舞台が正面衝突し、最後には「自分が自分に見せていた顔」だけが壊れていく。

スタッフ

  • 監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ
  • 脚本:ロベルト・リーブマン
  • 原作:ハインリヒ・マン『ウンラート教授:あるいは、一暴君の末路』
  • 製作:エーリヒ・ポマー
  • 音楽:フリードリッヒ・ホレンダー
  • 撮影:ギュンター・リッタウ
  • 配給:ウーファ(独)/東和商事(日)
  • 公開:1930年4月1日(ドイツ)/1931年5月13日(日本)
  • 上映時間:107分

原作はハインリヒ・マンの小説『ウンラート教授:あるいは、一暴君の末路』(1905年)。ドイツ映画の最初期トーキー期を代表する一本としても重要で、当時すでにハリウッドで名声を得ていたスタンバーグを、名プロデューサーのエーリヒ・ポマーが招いて実現した。

キャスト

『嘆きの天使』〜女は奪わない、ただ、男を壊す

  • ローラ・ローラ:マレーネ・ディートリヒ
  • イマヌエル・ラート:エミール・ヤニングス
  • キーペルト:クルト・ゲロン
  • グステ:ローザ・ヴァレッティ
  • マゼッパ:ハンス・アルバース

撮影現場ではドイツ語版と英語版が並行して撮られたが、英語版は出来が良くないと言われる。

本作は、マレーネ・ディートリヒというスターが「誕生してしまう」瞬間を記録した映画でもある。

あらすじ

ワイマールの地元ギムナジウムで教えるイマヌエル・ラート教授は、堅物で、規律を信じ、秩序を守らせることに人生を預けている。だが生徒たちは彼を軽んじ、いたずらを仕掛け、陰で笑う。ラートはそれを力で抑えようとする。正しさは声を張り上げれば通ると信じている。

ある日、生徒たちが地元のキャバレー「ブルーエンジェル」のスター、ローラ・ローラの写真を流布していることを知り、ラートは激怒し、関係した生徒を罰する。だが彼が本当に腹を立てているのは、写真そのものより、それが教室の空気を汚し、自分の支配が届かない場所があると突きつけるからだ。彼は生徒たちを捕まえるため、夜遅くクラブへ向かう。つまり、教師が自分の秩序を守るために、秩序の外側へ踏み込む。

ブルーエンジェルでラートは生徒たちを見つけ、追いかけるうちに舞台裏でローラ本人と出会う。薄暗い楽屋、笑い声、煙、酒、男たちの視線。そこは教室と正反対の世界だが、ラートはその場でローラに釘付けになる。最初は軽蔑のはずだった。ところが軽蔑の顔のまま、目だけが別の欲望を告げてしまう。

翌晩、ラートは「返すべきもの」を口実に再びキャバレーへ戻る。生徒がコートに忍ばせたパンティーを返すためだ。偶然にもラートは、攻撃的な客からローラを守る形になり、騎士のような振る舞いを見せる。ローラはその「不器用な正しさ」を面白がり、舞台上から歌を捧げる。歌は誘惑だが、同時に承認でもある。ラートは人生で初めて、別の種類の光を浴びる。

翌朝、ラートはローラのベッドで目を覚ます。現実の出来事なのに、まるで夢の続きのように感じる。だが夢の代償はすぐ来る。彼は学校に遅刻し、生徒たちはその噂を嗅ぎつけ、あからさまに嘲笑する。秩序の支配者だった男が、秩序のなかで一瞬にして「笑われる側」に回る。学校側は事態を察し、問題の生徒たちを退学にしたうえで、ラートに告げる。ローラのような女と結婚すれば、あなたのキャリアは終わる、と。

ラートは職を辞し、ローラと結婚する。ここで「世間に逆らって愛を選ぶ男」ではない。むしろ「失い始めた自分の威厳を、別の形で取り戻したい男」だ。愛というより、しがみつきに近い。だが当然、二人の幸せは長く続かない。ローラはローラの世界を生きている。舞台に立ち、男たちの視線の中で歌い、拍手を受け取る。それが仕事であり、生活であり、彼女の呼吸だ。ラートはそこに耐えられない。耐えられないのに、離れられない。

時間が経つほど、ラートはローラに屈辱的なほど依存していく。最初は卑猥な絵葉書を売り、やがてローラの一座でピエロを演じ、生活費を稼ぐ。かつて教壇で人を黙らせていた男が、今度は舞台上で笑われる役になる。笑いは軽いが、笑われる側にとっては重い。ローラが「共有された女」であるという職業的現実が、ラートの不安を刺激し続ける。嫉妬し、疑い、取り乱し、ますます無様になる。周囲も彼への尊敬を失っていき、ローラでさえ彼を「守る対象」として扱い始める。

ラートが学校を辞めてから5年後、一座はブルーエンジェルに戻る。人々は集まる。元教授が道化を演じるのを見るために。舞台の上でラートはマジシャンのキーペルトに頭に卵を割られ、さらにローラが怪力男マゼッパと抱き合いキスをするのを目の前で見る。屈辱は儀式のように積み重なり、何かが切れる。ラートは正気を失いかけ、ローラを絞め殺そうとするが、マゼッパらに取り押さえられ、拘束衣を着せられる。

その夜遅く、釈放されたラートは、かつて自分が教えていた教室へ戻る。そこには、最後まで手放せなかった「自分の席」がある。机を握りしめたまま、彼は息を引き取る。彼は逃亡者ではない。帰還者でもない。戻る場所を“そこしか知らない”男として、静かに終わる。

映画レビュー:天使は堕ちない、堕ちるのは、見ている側だ

『嘆きの天使』は、転落が「外側の事件」ではなく、「内側の姿勢の崩壊」として描かれる。ラートは金を失うから落ちぶれるのではない。地位を失うから終わるのでもない。もっと手前で、“自分が自分をどう見ていたか”を失う。

教師という職業は、知識を教える以前に、視線の仕事だ。誰を正すか、誰を見張るか、誰に沈黙を命じるか。ラートはその視線に依存していた。視線が届く限り、自分は保たれる。ところがブルーエンジェルは、視線のルールが逆転する場所だ。見る側が支配者で、見られる側が商品になる。ローラは見られることで強くなる。ラートは見られることで弱くなる。二人はそこで決定的にすれ違う。

ローラ・ローラが魅力的なのは、彼女が「自由」だからではない。ローラは、現実をよく知っている。男たちの欲望、舞台という仕事、拍手の気まぐれ。その中で、笑いながら立ち続ける技術を持っている。ディートリヒの歌と姿勢は、誘惑というより「私はここにいる」という宣言に近い。だからラートは惹かれる。惹かれるのは、女性というより、彼が持っていない“居方”だ。

だが、居方は借りられない。ラートがキャバレーへ通うほど、自分の秩序を持ち込もうとする。ローラを「自分の妻」にして、世界を整理しようとする。ここで愛は、相手を尊重する行為ではなく、相手を分かりやすい箱に入れ直す行為に変わる。ラートはローラを愛しているようで、実は「不安を消す道具」にしてしまう。だから苦しい。相手が生身である限り、道具にはならないからだ。

落ちぶれていくラートがピエロになるのは象徴的だ。ピエロは笑わせる役だが、笑われる役でもある。しかも笑いは、こちらの人格を守ってくれない。教室の権威は、形式が守る。だが舞台の笑いは、形式ではなく観客の気分が支配する。ラートはその気分の前に立たされる。そこでは過去の肩書きは一ミリも役に立たない。転落するのは、社会の残酷さだけではなく、「自分が肩書きで生きていた」という事実がむき出しになるからだ。

そして終盤、ブルーエンジェルに戻ってくる構造が残酷にうまい。人は新しい場所で人生をやり直すのではなく、結局「自分が最初に崩れた場所」に戻されることがある。そこでは“再会”が救いにならない。再会は確認になる。自分がどこまで変わってしまったか、あるいは変わっていないかの確認だ。観客が集まるのもまた、残酷な現実だ。人は転落を見たがる。悲劇の当事者にとっては地獄だが、外側にいる者にとっては娯楽になってしまう。

ラートが最後に教室へ戻り、机を握りしめて死ぬ場面は、懺悔ではない。回心でもない。もっと単純で、もっと痛い。「ここしか自分の手触りを知らない」という戻り方だ。人は、すべてを失って自由になるわけではない。むしろ最後まで、古い形に縛られることがある。自由になるより先に、体が先に終わってしまうこともある。

『嘆きの天使』は、恋の映画に見えて、実は「見られること」の映画だ。誰にどう見られるかで、人は立っていられる。逆に、見られ方が変わるだけで、人生は音を立てて崩れる。トーキー初期の作品なのに、台詞よりも視線と姿勢のほうが雄弁だ。ディートリヒが一本の煙草を持つ角度、脚を組む間、歌の言葉の抜け方。それが「世界をどう渡るか」の方法になっている。

ラートは世界を説教で渡ろうとし、ローラは世界を歌で渡る。どちらが正しいかではない。ただ、説教は相手が従う前提でできているが、歌は相手が従わなくても成立する。そこが決定的な差になる。人は他人を支配できない。支配できないのに、支配しようとする。『嘆きの天使』は、その壊れ方を、青い看板の光の下で、逃げ場なく見せ切る。

それでも、と思う。あれほど魅惑的で、あれほど自由で、あれほど自分の居方を知っている女と、一度でも人生を交差させたこと。ましてや、ローラ・ローラのような女と結婚した時間があったこと。それは破滅を含んでいたとしても、ある種の幸福と呼べるのかもしれない。

少なくともラートの人生は、平穏ではなくなった代わりに、決して退屈ではなくなった。その代償があまりにも大きかったとしても、ローラという眩しい災厄に触れてしまった人生には、凡庸な幸福とは別種の、痛みを帯びた幸福の気配が残る。

 

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映画レビュー:マレーネ・ディートリヒの魅力

『嘆きの天使』におけるマレーネ・ディートリヒの魅力は、誘惑ではない。もっと冷たくて、もっと強い。彼女は男を引きずり込まない。ただそこにいて、崩れる男を見ている。

ローラ・ローラは、いわゆる“悪女”の文法で動かない。計算して罠を仕掛けるわけでもなければ、男の破滅を楽しむわけでもない。むしろ彼女は一貫して同じ場所にいる。舞台に立ち、歌い、笑い、次の客を受け入れる。その繰り返しだ。

ではなぜ、ラートは壊れるのか。答えは単純で、ローラが“変わらない”からだ。

ラートは、彼女を自分の物語の中に引き入れようとする。教師としての秩序、夫婦という枠組み、所有という安心。その中にローラを置こうとする。だがローラはどこにも収まらない。彼女は舞台の人間であり、誰のものにもならない存在だ。

ここで重要なのは、『嘆きの天使』というタイトルである。“天使”とは救う者のはずだ。だがこの映画では、救いは訪れない。

ではローラは“堕天使”なのか。それも違う。彼女は堕ちていない。最初から地上に立っている。堕ちるのはラートのほうだ。

このタイトルは、誰かが誰かを堕落させる物語ではなく、「自分で自分を堕とす物語」に与えられている。

ローラはその過程を加速させもしないし、止めもしない。ただ、見ている。あるいは、見られている。ここにディートリヒの特異性がある。

彼女の魅力は、身体の使い方にある。脚の組み方、煙草の持ち方、歌いながらの視線。そのどれもが、「誰かに認められるため」ではなく、「そこに存在するため」に使われている。

普通、女優の魅力は“求められること”と結びつく。だがディートリヒは違う。彼女は求められる前に、すでに成立している。だから観客は惹かれる。そこに“欲望の余白”があるからだ。

ローラは男を愛していないのか。そうではない。ただ、優先順位が違う。彼女にとって最も重要なのは、「舞台に立ち続けること」であり、「自分であること」だ。愛はその外側にある。

この冷静さが、残酷に見える。それは悪ではない。むしろ現実に近い。人は誰かを救うために生きているわけではないし、誰かの人生を背負う義務もない。ローラは壊していない。壊れたものを、そのままにしているだけだ。

ラートはローラによって破滅したのではない。ローラという“他者の自由”に触れたことで、自分の不自由さに耐えられなくなったのだ。

ディートリヒは、その自由を演じている。しかも声高にではなく、軽く、気だるく、当然のように。だから彼女は強い。強いのに、押しつけがましくない。美しいのに、媚びない。そして何より、彼女は変わらない。

その不動性こそが、ディートリヒの魅力の核だ。『嘆きの天使』とは、誰かが誰かを堕とす物語ではない。「他者の自由に触れたとき、人はどこまで自分を保てるのか」という問いである。ローラ・ローラは天使ではない。悪女でもない。ただ、“自分であることをやめない女”だ。それは、多くの人間にとって、最も残酷な存在でもある。

 

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『惑星ソラリス』〜SFの顔をした、最も私的な悪夢、宇宙の果てで、最も近いものに触れる

『惑星ソラリス』〜SFの顔をした、最も私的な悪夢、宇宙の果てで、最も近いものに触れる

『惑星ソラリス』(原題:Солярис/英題:Solaris)は、1972年に公開された旧ソ連映画。監督はアンドレイ・タルコフスキー。ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』(邦題『ソラリスの陽のもとに』)を原作としながら、映画版は地球での長い導入や、記憶・罪・赦しの感触を強く持ち込み、構成と結末も大きく変えている。宇宙を舞台にしつつ、SFの外側に出ていく作品だ。未知の知性との接触は、発見ではなく「自分の内側との再会」として描かれる。

スタッフ

  • 監督:アンドレイ・タルコフスキー
  • 脚本:アンドレイ・タルコフスキー/フリードリッヒ・ガレンシュテイン
  • 原作:スタニスワフ・レム『ソラリス』
  • 音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
  • 撮影:ワジーム・ユーソフ
  • 配給:日本海映画
  • 公開:1972年3月20日(ソ連)/1977年4月29日(日本)
  • 上映時間:165分

キャスト

『惑星ソラリス』〜SFの顔をした、最も私的な悪夢、宇宙の果てで、最も近いものに触れる

  • クリス・ケルヴィン(心理学者):ドナタス・バニオニス
  • ハリー(クリスの妻):ナタリヤ・ボンダルチュク
  • スナウト:ユーリー・ヤルヴェト
  • サルトリウス(天体生物学者):アナトリー・ソロニーツィン
  • ギバリャン(物理学者):ソス・サルキシャン
  • ニック・ケルヴィン(父):ニコライ・グリニコフ

あらすじ

『惑星ソラリス』〜SFの顔をした、最も私的な悪夢、宇宙の果てで、最も近いものに触れる

心理学者クリス・ケルヴィンは、豊かな自然に囲まれた一軒家で父母と暮らしている。だが近々、惑星ソラリスを観測する宇宙ステーションへ向かわねばならない。ソラリスは海と雲に覆われた謎の惑星で、観測ステーションとの通信が途切れたのだ。出発を前に、父の友人で元宇宙飛行士のバートンが訪れ、かつてソラリス上空で体験した不可解な出来事を語る。海の表面が変化し、街や赤ん坊の形になったという。しかもその赤ん坊は、彼の知人の赤ん坊にそっくりだった。宇宙の出来事なのに、なぜか「個人的な似姿」が混ざってくる。そこに、ケルヴィンは言葉にならない不安を覚える。

ソラリス・ステーションに到着すると、そこは廃墟のように閑散としている。科学者のスナウトとサルトリウスは自室に籠もり、まともに説明しようとしない。通路にはいるはずのない黒人の少女が現れ、サルトリウスの部屋からは小人が走り出そうとして引き戻される。理屈の前に、まず「いるはずのないものがいる」という事実が積み重なる。

さらに、ケルヴィンの友人であり、ステーション内の科学者の一人だったギバリャンは、すでに自殺していた。彼が残したビデオメッセージには、状況の混乱と、言い切れない恐怖が滲んでいる。映像の端には、やはり少女の姿が映り込む。記録が、現実の説明にならない。記録が、現実のほうへ侵食されている。

翌朝、ケルヴィンが眠る部屋に、死んだはずの妻ハリーが現れる。かつてケルヴィンとの諍いの果てに自殺した妻だ。驚くケルヴィンに対し、ハリーはあまりに自然に接してくる。別人なのか、記憶の錯覚なのか。だが彼女の腕には、自殺のときの注射痕がそのまま残っている。現実の傷が、現実の証拠として戻ってくる。ケルヴィンは恐怖に耐えきれず、ステーション搭載の小型ロケットにハリーを乗せ、宇宙へ放り出してしまう。

ところが翌朝、またハリーがいる。追い払っても戻ってくる。どうやらソラリスの海そのものが知性を持つ巨大な有機体で、人間が眠っているあいだに心の奥を読み取り、それを実体化してステーションへ送り込んでくるらしい。それが敵意なのか、親交なのか、ただの反射なのかは分からない。分かるのは、ここでは「内面」が外側へ出てきてしまうということだけだ。

ハリー自身も、自分がここに存在していることに苦しむ。液体酸素を飲んで自殺を図り、凍りついた身体が崩れ、砕けるように見える。だが、しばらくすると彼女は元に戻り、息を吹き返す。死ねない。終われない。終われないまま、存在だけが続く。ケルヴィンは、彼女が本物のハリーではないと理解しながらも、やがて彼女を愛するようになる。愛は、真偽の判定よりも先に起動してしまう。分かっているのに、近づく。知っているのに、手を伸ばす。

一方でスナウトとサルトリウスは、それぞれのやり方で事態を処理しようとする。逃げる者、封じる者、科学の言葉へ押し込めようとする者。だがソラリスは、説明の枠へ収まらない。照射実験が行われると、ハリーも、そしてソラリスが作り出した他の「訪問者」たちも消えていく。消えることで終わるのか、それとも別の形で続くのか。終わり方すら曖昧なまま、映画は地球の風景へ戻る。

緑豊かな実家に帰ったケルヴィンは、家の中に父の姿を見つける。戸口に出てきた父にすがりつき、抱きしめる。だが次第に分かってくる。ここは地球ではない。ソラリスの海が、ケルヴィンの記憶をもとに表面に作り出した“小さな島”の上なのだ。帰郷は事実ではなく、記憶が作る場所として成立している。彼が抱きしめた父もまた、現実の父なのか、それとも「帰りたい」という願いの形なのか。映画は答えを言わない。ただ、その抱擁の手触りだけを残す。

映画レビュー:宇宙が怖いのではない。自分が怖い

『惑星ソラリス』〜SFの顔をした、最も私的な悪夢、宇宙の果てで、最も近いものに触れる

『惑星ソラリス』は、未知の惑星との接触を描くSFでありながら、実は「人間が自分の内側に遭難する話」だ。宇宙は遠い。この映画が描く距離は、地球と惑星の距離ではなく、自分と自分の距離である。

ソラリスの海がやっていることは、攻撃ではない。少なくとも銃や爆弾の形では現れない。ソラリスは人間を殺すより先に、人間の心の奥から“触りたくないもの”を引きずり出す。しかもそれを、もっとも弱い形で差し出す。罪の形ではなく、愛の形で。恐怖の形ではなく、懐かしさの形で。だから手を振り払えない。

ハリーは、亡霊のように現れて、ただ脅かす存在ではない。彼女は「もしやり直せたら」という願いの具現だ。だが願いが叶うと、次に出てくるのは嬉しさではなく、困惑である。やり直せるなら、あのときの自分は何だったのか。あの選択は何だったのか。人は、過去を消したいのではない。過去を“別の意味にしたい”。ソラリスは、その欲望を丸ごと映してしまう。

タルコフスキーが地球の導入を長く置いたのは、単なる前置きではない。自然の水、草、風、家の重さ。そういう地上の手触りがあるからこそ、宇宙ステーションの空虚さが効く。宇宙は広いから孤独なのではない。生活の手触りが薄いから孤独なのだ。ステーションの廊下は、身体の帰る場所を失った空間に見える。そこで「訪問者」たちは、心の帰る場所として現れる。

ハリーが死ねないという設定は残酷だ。死ねないのは罰ではなく、未完の状態が続くということだ。人生が苦しいのは、失うからではない。終わったはずのものが終わらないからだ。謝れなかった言葉、言いそびれた一言、取り返しのつかない態度。それらは、現実では二度と触れないから、かろうじて折り合いがつく。だがソラリスは、それを“目の前に置く”。触れられる形で置く。すると折り合いが壊れる。人は、許したいのに許せず、捨てたいのに捨てられない。

ここで面白いのは、ケルヴィンが「科学者として」勝とうとしないことだ。心理学者だが、心理学で整理できないものを前にして、だんだんと“理解”を諦めていく。理解ではなく、関係が始まってしまう。人間は、分からないものを拒否するだけでは生きられない。分からないまま抱えるという生活の技術がある。ケルヴィンがハリーを愛してしまうのは、その技術が暴走した結果でもあるし、人間らしさの発露でもある。

そしてラスト。父の家へ帰るのは救いに見える。それは「帰れた」ではなく、「帰りたかった」が世界になった場面だ。つまり、現実の回復ではなく、記憶の島に住むという選択に近い。ここがタルコフスキーの厳しさだ。人は過去を修復して生き直すのではない。過去と一緒に住む場所を作って生きていく。しかもそれは、外の世界ではなく、自分の内側に作られる。

『惑星ソラリス』は、宇宙を描いた映画ではない。宇宙を使って「人間の心はどこまで自分のものか」を問い続ける映画だ。ソラリスの海は鏡に見えるが、鏡より厄介だ。鏡は表面を映すだけだが、ソラリスは“自分でも見ないようにしていた内側”を、手触りのある存在として差し出してくる。

それでも、この映画は暗いだけでは終わらない。最後の抱擁には、理解ではなく受容がある。正しさではなく、ただ寄りかかる強さがある。人生は一度きりで、やり直せない。だが、やり直せないからこそ、人はせめて「抱える形」を選び直すことができる。タルコフスキーが見せるのは、その静かな選び直しだ。

宇宙の果てで起きるのは、新しい発見ではない。自分が置き去りにしたものが、取り立てに来る。『惑星ソラリス』は、その取り立てから逃げずに立ち尽くすための、長い時間の映画である。

 
 

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『市民ケーン』〜成功の果てに残る、ひとつの雪

『市民ケーン』〜成功の果てに残る、ひとつの雪

『市民ケーン』(原題:Citizen Kane)は、1941年に公開されたアメリカ映画。監督・脚本・製作・主演をオーソン・ウェルズが務めた。25歳で撮ったデビュー作にして、映画史上最高傑作の一つと評される。新聞王チャールズ・フォスター・ケーンの死の謎「ローズバッド(バラのつぼみ)」を軸に、生涯が周囲の証言によって再構成されていく。深度焦点撮影、非線形構成、音響編集、照明設計。そのすべてが映画表現の革命となった。

スタッフ

  • 監督・製作・脚本:オーソン・ウェルズ
  • 共同脚本:ハーマン・J・マンキーウィッツ
  • 撮影:グレッグ・トーランド
  • 音楽:バーナード・ハーマン
  • 編集:ロバート・ワイズ
  • 配給:RKO
  • 公開:1941年5月1日(米)
  • 上映時間:119分

音楽は『サイコ』や『タクシードライバー』で有名なバーナード・ハーマン。編集は『ウエストサイド物語』の監督ロバート・ワイズが担当している。

制作会社であるRKOは、まだ映画を作ったことがないオーソン・ウェルズに「50万ドルまでなら好きな作品を撮っていい」という破格の条件を出し、『市民ケーン』が生まれた。

バラの蕾が掘られた雪そりは3つ作られ、2つが撮影で焼却された。残った1つは競売にかけられ、落札したのはスティーブン・スピルバーグである。

キャスト

『市民ケーン』〜成功の果てに残る、ひとつの雪

  • チャールズ・フォスター・ケーン:オーソン・ウェルズ
  • ジェデッドアイア・リーランド:ジョゼフ・コットン
  • スーザン・アレクサンダー:ドロシー・カミンゴア
  • バーンステイン:エヴェレット・スローン
  • ウォルター・サッチャー:ジョージ・クールリス
  • メアリー・ケーン:アグネス・ムーアヘッド

ケーンの親友役に『第三の男』で主演するジョゼフ・コットン。新聞記者を『シェーン』のアラン・ラッドが演じている。

「バラの蕾(ローズ・バッド」は、この映画のモデルになったウィリアム・ランドル・ハーストが愛人のマリオン・デイヴィスの秘部を指して呼んでいたもの。

あらすじ

『市民ケーン』〜成功の果てに残る、ひとつの雪

広大な邸宅「ザナドゥ」で新聞王チャールズ・フォスター・ケーンが死ぬ。最期の言葉は、「ローズバッド(薔薇のつぼみ)」。その謎を追う記者トンプソンは、かつてケーンと関わった人々に取材を重ねる。母親に引き離され、富と引き換えに幼少期を失った少年。新聞を買収し、大衆を扇動し、政治家を目指した青年。愛をも「所有」しようとし、やがてすべてを失った男。人生は成功の連続でありながら、同時に空洞の拡大でもあった。最後に見つかるのは、燃やされていく一枚のそり。そこに刻まれた名“ROSEBUD”。それはケーンが最後まで取り戻せなかった「幸福」の名であった。

映画レビュー:世界を手にして、手の温度を失う

『市民ケーン』〜成功の果てに残る、ひとつの雪

『市民ケーン』は、成功の物語ではなく、喪失の解剖である。富も名声も愛も手にした男が、人生の最後に握っていたのは、小さなスノードームだった。新聞王は、世界を手にした代わりに、世界を感じる手を失った。

ケーンは何を求めていたのか。愛か、承認か、支配か。その人区別を失ったまま、人生は膨張していく。ケーンにとって愛するとは所有することであり、成功するとは支配することだった。その積み重ねの果てに残るのは、ただの空洞、心の迷宮だった。

誰かを愛そうとすればするほど、ケーンはその相手を自分の一部にしようとした。スーザンに歌手の夢を押しつけたのも、彼女を輝かせるためではなく、「自分の夢の延長」に置くためだった。

この映画は、幼少期の一瞬、雪の中で遊ぶ少年ケーンの記憶をめぐる物語である。富と引き換えに、ケーンは「誰かに抱きしめられる」という感覚を失った。

“ローズバッド”は、その消えた温度の象徴。"薔薇のつぼみ"は、もう戻れない時間である。

ケーンは、人生のどこかで凍りついた時間が、最後の吐息として口をついて出た。ウェルズのカメラは、人間の“内なる建築”を描く。巨大な屋敷の柱やアーチ、遠近を誇張する構図は、ケーンの心の断層そのもの。広大な空間の中で、ケーンは常に小さく映る。光は遠く、声は反響し、影だけが異様に長い。それは「孤独の物理的な形」であり、映画が“孤独”を空間で表現した瞬間だった。

そして、この映画が『市民ケーン』と名づけられた理由も、そこにある。ケーンは市民を動かし、自らも“市民”であろうとした。市民に身を委ね、市民のために動き、市民の代表として存在しようとした。だが、社会における声が大きくなるほど、ケーンの「個」は遠ざかっていく。「市民」であろうとするほど、人間であることから離れていった。富と権力によって拡張された“公共の顔”が、内側の“私”を覆い隠していく。

『市民ケーン』とは、名声と孤独が同じ根から生まれる真実を抱えた映画である。ケーンはその名を呼ばれるたびに、子どもの頃の“名もなき自分”から遠ざかっていく。だから、最期の言葉は名ではなく、たった一つの呼びかけ“ローズバッド”だった。それは市民の言葉ではなく、子どもの叫び。

ラスト、そりが燃やされる場面。その炎は、単なる秘密の終焉ではない。「失われた人間性の葬送」であり、同時に「赦し」でもある。どれほど歪んでも、人はかつての無垢をどこかに抱いて生きている。それが灰となって消えるとき、ようやくケーンは“人間としての死”を迎える。

音楽レビュー:バーナード・ハーマンの“鳴らない旋律”

『市民ケーン』〜成功の果てに残る、ひとつの雪

『市民ケーン』の音楽を担当したのは、後に『サイコ』『タクシードライバー』を生み出すバーナード・ハーマン。この映画の音楽は、感情を導くための装飾ではない。それは「沈黙の輪郭」を描くための音である。

ハーマンは、旋律よりも“間”を信じている。低音の弦が緩やかに波打ち、ブラスが遠くで響く。音が部屋の奥で迷っているかのようだ。ザナドゥの冷たい広間に響くその音は、ケーンの孤独の“残響”に近い。

冒頭の“ローズバッド”の場面。音は静かに膨らみ、そして吸い込まれるように消える。それは、ケーンの人生が音もなく閉じる瞬間を予告している。

ハーマンの音楽は、観客の感情を操作しない。それは、“人間の内面の残響”を可視化している。

終盤、燃え上がる炎のシーンでも、音楽は決して劇的にならない。その抑制こそが、ケーンの人生の重さを響かせている。音の少なさが、沈黙の深さを際立たせる。

『市民ケーン』は、問いの映画である。「人間とは何か?」という問いを、物語の奥に埋め込み、観る者に託す。その答えは誰も語らない。だからこそ、この映画は終わらない。“ローズバッド”は謎ではなく、すべての人が心に抱く原点の名だ。それを忘れたとき、人は成功しても幸福にはなれない。そして、それを探す旅こそが、生きるということの本質なのだ。

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『戦艦ポチョムキン』〜視線は撃たれる、見るという行為が変わる75分

『戦艦ポチョムキン』〜視線は撃たれる、見るという行為が変わる75分

『戦艦ポチョムキン』(英題:Battleship Potemkin)は、1925年に制作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。監督はセルゲイ・エイゼンシュテイン。長編第2作にして、「第1次ロシア革命20周年記念」として国家的に製作された作品である。

1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を題材に、視点の異なる複数カットを衝突させて感情と意味を立ち上げる「モンタージュ理論」を、映画そのものの筋肉として確立した。

1925年は世界の映画が一斉に強くなった年でもある。日本では阪東妻三郎の『雄呂血』、アメリカではチャップリンの『黄金狂時代』、ロン・チェイニーの『オペラ座の怪人』などが生まれた。

スタッフ

『戦艦ポチョムキン』〜視線は撃たれる、見るという行為が変わる75分

  • 監督・脚本・編集:セルゲイ・エイゼンシュテイン
  • 助監督:グリゴーリ・アレクサンドロフ
  • 原作:ニーナ=アガジャーノ・シュトコ
  • 撮影:エドゥアルド・ティッセ
  • 美術:ワリシー・ラハリス
  • 録音:イ・カシケヴィッチ
  • 音楽:エドムント・マイゼル(1926年)、ニコライ・クリューコフ(1950年)、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1976年)
  • 製作会社:ゴスキノ第一工場
  • 配給:ATG
  • 公開:1925年12月24日(ソ連)/1967年10月4日(日本)
  • 上映時間:75分

当初は『1905年』というタイトルで、革命の始まりから挫折までを6つのエピソードで構成する計画だった。しかし撮影が遅れ、公開日(1925年12月24日)までに完成しそうになかったため、6つのうちの一つ「戦艦ポチョムキンの反乱」に焦点を絞って完成させた。撮影はオールロケで行われ、そのことが記録映画のような迫真性につながっている。

キャスト

『戦艦ポチョムキン』〜視線は撃たれる、見るという行為が変わる75分

  • アレクサンドル・アントノフ
  • ウラジミール・バルスキー
  • グリゴーリ・アレクサンドロフ ほか

主要な役以外は素人が多く、水兵やオデッサ市民を実際の大衆として画面に立たせている。神父役はセヴァストポリ郊外の果樹園の老園丁が演じ、エイゼンシュテイン自身も神父役で出演している。

あらすじ

『戦艦ポチョムキン』〜視線は撃たれる、見るという行為が変わる75分

1905年6月。軍の敗北が続き、国内では労働者のゼネストや農民の暴動、各地の反乱が重なり、革命の気分がじわじわと軍の内部にまで入り込んでいく。黒海の戦艦ポチョムキンは、ゼネストが起きているオデッサの港の近くに碇泊していた。

ある朝、甲板に吊された牛肉の表面に蛆が群がっている。腐敗が目に見えるほど進んだ肉を、上層は「食え」と言う。水兵たちの怒りは最初から爆発しているわけではない。むしろ最初は、我慢と軽い抗議のあいだで揺れている。しかし先任士官ギリヤロフスキーは水兵たちを追い払い、食卓には腐肉のスープが並ぶ。誰一人、手をつけない。

緊急集合のラッパが鳴り、甲板に整列した水兵たちに艦長ゴリコフは命じる。「スープに満足した者は前に出ろ」。出ない者は帆桁に引っぱりあげろ、と。ここで行われているのは処罰ではなく、“踏み絵”だ。食うか、拒むか。生きるために屈するか、屈しないために危険へ進むか。水兵たちは動揺する。

そのとき水兵マトウシェンコが呼びかけ、砲塔の下に集まるよう促す。多くがそこへ移動する。ギリヤロフスキーは衛兵に、艦首に残った十数名の水兵を撃てと命じる。空気が凍る。そこで水兵ワクリンチュクが叫ぶ。「兄弟たち、誰を撃つつもりか!」。衛兵たちの銃口が下りる。命令は続くが、撃てない。撃てないという事実が、すでに反乱の始まりになる。

ギリヤロフスキーは自ら銃を奪い、水兵たちを撃とうとする。すると水兵たちは一斉に立ち上がり、反撃に転じる。軍医や艦長は海に投げ込まれ、艦内の秩序はひっくり返る。だが、その瞬間の代償として、指導者ワクリンチュクはギリヤロフスキーの銃弾に倒れる。

反乱のニュースはすぐオデッサに広がり、市民の心を揺さぶる。港には人が集まり、死んだワクリンチュクを悼み、怒りが共有され、まるで一つの巨大な身体が目を覚ましたように群衆がうねる。だがその高まりは祝祭で終わらない。オデッサの階段では、国家の側が“秩序”を回復する名目で、市民に向けて暴力を行使する。ここで映画史上最も有名な場面の一つが生まれる。「オデッサの階段」だ。群衆は逃げ、崩れ、押しつぶされ、階段は人間の流れを破壊する装置になる。

やがて黒海艦隊が鎮圧に向かってくるという情報が入る。降伏か抗戦か。船の内部で激しい議論が起きる。結論は抗戦。夜、艦隊が姿を見せる。ポチョムキンは信号旗を掲げる。「われらに合流せよ」。射程距離に入る。戦いか、死か。緊張の一瞬が流れる。

そして次の瞬間、ポチョムキンの水兵たちが聞くのは、津波のように押し寄せる「同志!」という声だ。敵になるはずの艦隊が、同じ言葉を返してくる。ここで映画は“勝利”を描くというより、「分断が解ける瞬間の眩しさ」を描いて終わる。終わり方があまりにも明るいからこそ、観客の中には逆に、次の現実の重さが残る。

映画レビュー:この映画が撃つのは、銃ではなく視線だ

『戦艦ポチョムキン』〜視線は撃たれる、見るという行為が変わる75分

『戦艦ポチョムキン』のすごさは、革命を礼賛したからではない。もっと映画的で、もっと身体的だ。これは「人が何を見るか」を作り変えてしまう映画である。映画が観客の目を操れることを、ほとんど暴力のような力で示す。

発端が蛆の湧いた肉だというのが重要だ。政治的スローガンではない。議会でも演説でもない。まず“食べ物”が腐っている。体に入れるものが腐っている。つまり、支配の最初の形は思想ではなく生活の汚染として現れる。水兵たちが怒るのは思想のためではなく、身体のためだ。ここが強い。人は理念より先に、胃と喉で屈辱を理解する。

そしてエイゼンシュテインは、その屈辱を「顔の連鎖」にする。個人の怒りを、群衆の怒りへ変える過程が、台詞ではなく切り返しで見えてくる。視点の違うカットがぶつかり合うことで、観客の心に“同じ感情”が増幅される。モンタージュは編集技術というより、感情の工学だ。見る側の内部に、怒りの回路を作ってしまう。

「兄弟たち、誰を撃つつもりか!」という叫びは、内容以上に“銃が下りる”ことが決定的だ。言葉が世界を変えるのではない。世界の動きが言葉を証明する。撃てない手がある。撃てない瞬間がある。その一瞬を映画がつかまえると、観客の中でも何かが下りる。怖さが下り、ためらいが下り、そして別の決意が上がってくる。

オデッサの階段の場面が有名なのは、残酷だからだけではない。階段という構造が、人間を転ばせ、分断し、追い詰める。兵士たちの行進は顔が薄く、ほとんど機械のように見える。個人の怒りや恐怖が顔を持っていたのに対し、権力の側は匿名の形で迫ってくる。誰が悪いのかが薄れていくほど、暴力は効率化していく。

それでもこの映画は絶望だけに沈まない。最後、艦隊との対峙で起きるのは、勝敗というより“認識の反転”だ。敵だと思っていたものが、同じ言葉を返す。「同志!」。ここで描かれるのは、団結の美しさというより、「分断が演出だったと気づく瞬間」の解放感だ。人は、自分が一人だと思わされている間は弱い。だが“呼びかけが返ってくる”とき、世界は急に広くなる。

ただし、この広さは永遠ではない。だからこそ胸に残る。『戦艦ポチョムキン』は、勝利の確定ではなく、可能性の点火で終わる。点火した瞬間だけが眩しい。眩しいから、影も濃く見える。

オールロケと素人の顔が生む記録映画的な迫真性も、この作品の硬さを支えている。演技の巧さではなく、群衆の肌が画面を満たす。だからこそモンタージュが嘘にならない。切り刻まれているのに、生々しい。編集が激しいのに、現実味が増す。ここにエイゼンシュテインの逆説がある。現実は一枚の長回しで見えるのではなく、むしろ“断片の衝突”で立ち上がる、と。

『戦艦ポチョムキン』は、歴史の映画である以前に、映画そのものが歴史を動かせるという幻想の映画だ。観客は席に座ったままなのに、呼吸が変わる。目つきが変わる。世界の見え方が変わる。

そして一番重要なのは、その映画が100年経ったいまも色褪せないということ。オデッサの階段が何度も引用され、パロディされるのは名場面だからだけではない。あの“視線の設計図”が、時代を超えて使えてしまうからだ。

『戦艦ポチョムキン』は、革命を描いた映画ではない。視線の革命を起こした映画である。観終わったあと、自分の目が少しだけ変わっていることに気づく。その変化こそが、この作品の本当の衝撃だ。

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映画レビュー:語れば壊れる。沈黙に触れた瞬間、活弁は試される

『戦艦ポチョムキン』〜視線は撃たれる、見るという行為が変わる75分

一度、観てみたいのが『戦艦ポチョムキン』の活弁上映だ。佐々木亜希子さんの語りを見てみたい。

戦艦ポチョムキン を活弁で語ることは、単に難しいのではない。ある種、「語ること自体が裏切りになる瞬間」と向き合う行為である。

この映画は、説明で成立していない。むしろ説明を拒絶する構造を持っている。

エイゼンシュテインのモンタージュは、「意味」を言葉で与えるのではなく、「衝突」で観客の中に発生させる。カットとカットがぶつかることで、観客の内部に感情が生まれる。つまりこの映画は、観客の中で完成する。

ここに活弁の最大の困難がある。

活弁は本来、「補う」芸である。無声映画に声を与え、人物に意志を与え、観客の理解を導く。だが『戦艦ポチョムキン』においては、補った瞬間に、観客が自分で生み出すはずの感情を奪ってしまう危険がある。

語りすぎると、観客の内側で起きるはずの“生成”が止まる。

たとえば「オデッサの階段」。あの場面は、恐怖や怒りを説明していない。むしろ、切り刻まれた視線の連続によって、「観客自身が恐怖を構築する」仕組みになっている。

ここで活弁が「逃げろ!」「危ない!」と感情を先回りしてしまえば、観客は受け取るだけの存在になる。本来は、観客が自分で恐怖に追いつく時間が必要なのに、その時間を奪ってしまう。この映画において、活弁は“観客の思考速度”と戦うことになる。

早すぎても壊れる。
遅すぎても壊れる。

さらに厄介なのは、この映画が「群衆の映画」である点だ。

主人公がいない。語るべき“中心人物”がいない。通常の活弁は、人物に声を与え、その人物を軸に物語を組み立てる。だがここでは、群衆そのものが主体であり、しかもその主体は固定されない。

ある瞬間には水兵、ある瞬間には市民、ある瞬間には母親、ある瞬間には兵士。
主体が流動する。活弁士が誰の視点で語るのかを決めた瞬間、その流動性は失われる。

だから語りは、「固定すること」と「流れに従うこと」のあいだで引き裂かれる。

そして決定的なのは、「沈黙の強度」である。

『戦艦ポチョムキン』は無声映画だが、静かな映画ではない。むしろ沈黙が圧力として存在する。蛆の湧いた肉。銃口を向けられた水兵。撃てない瞬間。ここでは「音がないこと」自体が意味を持つ。沈黙が、観客の身体を緊張させる。

活弁は声を入れる芸である以上、この沈黙をどう扱うかが最大の問題になる。

語るべきか。
黙るべきか。

黙れば職務放棄に見える。語れば映画を壊す。

ここで活弁士は、「語らない勇気」を持てるかどうかを試される。さらに、この映画は“速度の映画”でもある。モンタージュはリズムであり、呼吸であり、心拍である。カットの長さ、切り替えのタイミング、視線の誘導、すべてが精密に設計されている。

活弁がそこに乗るということは、別のリズムを重ねることになる。

合えば増幅する。ズレれば破壊する。

つまり活弁士は、「映画のリズムに従う演奏者」でなければならない。だが同時に、「独自の語り」を持たなければならない。

この矛盾を解決するのは極めて難しい。

では、どうすればよいのか。結論はひとつしかない。語るのではなく、“触れる”。

説明しない。先回りしない。意味を与えない。

ただ、観客の視線と呼吸を邪魔しない位置に立つ。必要なときだけ、最小限の言葉を置く。それ以外は、沈黙に従う。

『戦艦ポチョムキン』の活弁とは、声を足す芸ではない。

「どこで声を引くか」を選び続ける芸である。映画が観客の内部に作ろうとしているものを壊さず、しかし完全に放置もしない。

そのギリギリの境界に立ち続ける。だからこの作品は、活弁士にとって一つの到達点であり、同時に試金石でもある。

語れる者ではなく、「語らないことで成立させられる者」だけが、この映画に触れることを許される。

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