シネマの流星

映画とは魔法。どこでもドアであり、タイムマシン。映画館の暗闇はブラックホール。スクリーンの光は無数の星たち。映画より映画館のファン

映画と漫画の『鬼滅の刃』

映画『鬼滅の刃』

鬼滅の刃の映画最新作が2025年に公開される。原作が終了した2020年から根強い人気。2020年に劇場公開された『無限列車編』は、その年のワーストムービーだった。アニメは表現の幅が広いから足し算で作ってしまう。すべてのセリフにBGMをかぶせてるから言魂の力が台無し。せっかく声優がいい仕事してるのに、すべてを無にしてる。しかも感傷的なシーンには湿っぽい音楽を足してるから余計に冷めてしまう。せっかくテーマも話も良いのに、雪舟水墨画に塗り絵を、ミロのヴィーナスに口紅を塗ったような映画だった。驚くことに、知人や友人に話を聞くと、漫画よりアニメや映画のファンが多い。というより、漫画の凄さを理解していない。だから本稿では漫画の凄さを語りたい。

鬼滅の刃が斬り落としたもの

映画と漫画の『鬼滅の刃』

令和3年の元日、友人の女性から『鬼滅の刃』の漫画を薦められた。毎年、東北の実家に帰省していたが今年は「帰って来るな」と言われたらしい。

今の日本には鬼が溢れている。「だったら晩ご飯どう?」と元旦に誘った。新年を迎えた荻窪はゴーストタウンだったが、運よく海鮮居酒屋が1軒開いていた。

彼女が言うには、鬼滅の刃は最終巻がすべて。主人公の丹治郎は鬼を斬ったあと哀しい眼差しを向けるが、ラスボスの鬼舞辻無惨には一切の情を挟まない。それが真実らしい。早速、漫画アプリで購入してiPadで読んでみた。

鬼滅の刃は、とても日本的な漫画だ。鬼退治の桃太郎伝説に似ているが、構図は組織vs.組織。「鬼殺隊」と「鬼舞辻無惨と十二鬼月」の対立。桃太郎のようなフリーランスは1人もいない。人も鬼も組織の上下関係が厳しく、『北斗の拳』や『ドラゴンボール』のように、単独で荒野をさまよう者はいない。両者の対立は無限vs.有限でもある。鬼には寿命がなく老いも病気もない。しかし、鬼舞辻無惨が死ねばすべてが無と化す。「無」と「無限」が紙一重。一方、人間には寿命があり老いも病気もある。有限を抱えている。しかし、組織のトップが死んでも意志は残り、次から次へと鬼滅の遺伝子が現れる

鬼という無限であり有限、人という有限であり無限、捻転とコントラストの妙。これに兄弟、姉妹、双子、捨て子の話など、民話や落語の人情噺をフュージョンし、過去でも現在でも未来でもない絶妙の世界観を形成している。

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兄は妹のヒーローであり、妹は兄にとってのマドンナ。丹治郎と禰󠄀豆子の関係は『男はつらいよ』の寅次郎とさくらを思わせる。

そう、『鬼滅の刃』とは日本人が昔に持っていた忘れ物を取りに帰る23巻の旅と言える。時代が大正であることも珍しい。正確な理由は知らないが、少年ジャンプの先輩で、明治を舞台にした『るろうに剣心』へのオマージュだと思っている。作者の吾峠氏は、るろ剣を終わらせたくない、完結させたくない。未完であることの尊さ、未練を愛している気がする。

そして、鬼滅の刃を咀嚼する2つのキーワードが「五感」と「旧字」

強靭な力を持つ鬼殺隊の「柱」が次々と死んでいく中、最後まで生き残るのが炭治郎、伊之助、善逸の3人。

映画と漫画の『鬼滅の刃』

3人は物事をそれぞれ嗅覚、触覚、聴覚で判断する。外部からの情報でもロジックでもない。己の感覚によってのみ行動する。

組織に属しながらも自分の本能に誠実だ。他人には頑固だが、己には素直。柱でもない下っ端の3人だけは独立した組織内フリーランス

共感ではなく、そこにあるのは共鳴。共感には同調圧力が、共鳴には愛がある。だから最後まで三本の矢は折れなかった。SNSの世界では共感が美徳とされ、尖った意見は否定の壁という鬼に喰われる。

一方で情報も地図もない時代は、自分の感性こそが羅針盤だった。食べログなど無いときは、他人の口コミではなく「ここは食わせそうだ」と自分の嗅覚を頼りにグルメ地図を開拓したもの。失敗も多いが、そのアンテナと一歩が感性を研磨する。現代は情報に溢れているが冒険が少ない。

そして、作者の吾峠氏が読者に託したものが「旧字」である。

映画と漫画の『鬼滅の刃』

主人公の名前・竈門丹治郎は「窯」ではなく「竈」を使う。フリガナがないと分からない。少年誌にも関わらず、嫌がらせのように無数に旧字を放り込んでくる。作者は先ほどの3人では描かなかった五感のひとつ「視覚」を読者に託した。

旧字には風景があり、人間臭さがあり、言魂がある。

しかし日本語は徐々に平易な漢字に変形していった。それは進化であり退化でもある。令和というロストワールドに、作者は旧字体を蘇らせることで「喪失」「無」を表現した。旧字こそが、この作品の幻想とフィクション性を高めている。

鬼滅の刃が本当に斬ろうとしたのは「鬼」ではなく、現代にありふれている情報や、ありとあらゆる「有」。日本人が失いつつある「無」という本当の贅沢を掘り起こしたのである。