映画は暗闇の世界で観るプラネタリウム。テレビではキラキラ光るキャラクターも映画では途端に味気なくなる。ちょっと救いようのない人物たちにこそシネマの神様は微笑む。スクリーンは金幕ではなく銀幕。映画は金閣寺ではなく銀閣寺。映画界にはメッキの金閣もあるが、本物の銀閣が『めためた』である。
3組の男女の群像劇。主人公は二股生活を送るスランプに陥った作家。婚約者の彼氏を連れて帰省すると母親が若い男と結婚するサプライズが待っていた女。妊活に励むが旦那に子種がないと発覚する夫婦。
この映画は登場人物のバックボーンは描かず、風景のみがプロフィールとなる。目の前に起こる出来事にどんなリアクションをとるか、その「今」だけを紡いでいる。
セリフやストーリーを一部しか用意せず、あとは役者たちに任せ、現場で事故的に生まれるものをカメラに収める手法。ドキュメントなのかフィクションなのか不思議なグラデーションの質感が漂う。
本当にいい映画には音や色や形だけではなく、いい湿度がある。『めためた』は光と湿度の映画であり、沈黙が美しい映画。撮影監督の近藤康太郎は、匂い・吐息・沈黙・光・温度・湿度のすべてを逃さず捉えた。これが長編監督デビューとなる鈴木宏侑、主演・脚本の新井秀幸が「こんな映画はもう二度とつくれない(と思います)」と口を揃えるように、再び令和の奇跡が生まれる可能性は低い。
偶然かもしれない、一発屋かもしれない。
だけど線香花火も打ち上げ花火も一回しか見れないから尊い。ラッキーパンチであっても日本映画にとって『めためた』が近年最高の宝石であることは変わらない。
ゴッホが時代の先を生きすぎて現世に理解されなかったように、『めためた』も何年間の熟成を経て爆発する。この映画には北野武、ジム・ジャームッシュ、ヴィム・ヴェンダースなどの色素と元素がある。神様に祝福された映画の先輩たちが『めためた』の背中を押している。
映画は寄るべなき者たちのもの。絶望が待っていると分かっていても踊り続ける。その背中を押してくれる。希望があるからではなく、希望を求めて人は生きる。出逢うことのない3つの物語はミステリー・トレインで繋がっている。そうやって世界は愛し合う。
『めためた』は曇り空、曇りガラスを肯定してくれた。人生はロングショットで見たとき、晴れや雨の日より曇りが多い。どうすればいいのかわからない、なにを発すればいいのか言葉が出てこない。悶々としながら、誰しもそれぞれの曇り空、曇りガラスを抱えている。
それを乗り越えるでも踏ん張るでもなく、時間と一緒に旅行をしながら、ぷかぷか浮かんでいく。晴れの日が来なくても曇ったままでも何とかなる。
自由にならなくていい
自由を目指さなくていい
不自由の翼を広げればいい
白く翔べ、白く堕ちろ。ベートーヴェンの『悲愴』はきっと、曇り空を肯定するためにこの世に産み落とされた。あの曲はダンスミュージック。『めためた』は心の体重が軽くしれくれた。
『めためた』に登場する人物たちも、『めためた』という映画も、これからも世界という大海原を流れていく。たゆたえども沈まず。