
- 公開年:2023年11月25日
- 監督:鈴木宏侑
- 出演者:新井秀幸、和座 彩、錫木うり、鍛代良 、 久保田翔、橋本つむぎ、柳谷一成、池内明世 、 金谷真由美、野呂健一
- 撮影:近藤康太郎
- 脚本:新井秀幸
- 音楽: バッハ、ベートーヴェン
- 配給:マーブルダンス
- 上映:72分
あらすじ
ちょっと救いようのない3組のオムニバス。
かつては文学賞にも手が届いた小説家の荒木はアルバイトの職場の後輩女性と飲みに行ったり、日々題材を探して夜の隅田川を歩いている。ある日帰宅すると、別れたはずの恋人が現れ、うんざりした荒木は部屋を出て行く。
妹の就職祝いのため、久方ぶりに帰省する姉つくし、カクヤスで働く舞台俳優の彼氏。母とは喧嘩別れして以来の再会だったが、そこに思わぬ来訪者が現れる。
仲睦まじい夫婦の真二と陽子は妊活を始めるが、なかなか子宝に恵まれない。思い立って医者に行くと、ある事実が発覚する。真二は真相を確かめようと、故郷である宇和島へ向かう。
その頃、荒木は付き合いはじめた職場の後輩女性が家に行きたいとただをこね、帰宅するとそこには予想だにしない同居人がいた。3組にそれぞれ異なる修羅場が訪れ、彼らは思わぬ行動に出る。
映画レビュー
2025年2月3日ver
2023年、渋谷で封切られた映画『めためた』。2024年7月に菊川で2度、年末に新宿、年が明けて吉祥寺で観た。さすがに4回目は飽きるかと思いきや、むしろ新鮮さが増し、深く染み渡ることに驚いた。『めためた』に賞味期限はなく、観るたびに発酵と熟成を重ねていく。年間で片手に余るほどしか劇場に足を運ばない自分にとって、こうした映画と出逢えることは奇跡に近い。
冒頭、スランプに陥った小説家が夜の隅田川、橋の欄干の上を綱渡りのように歩く。落ちずに渡り切れたら、再び筆が進む——そんな切実な願いが滲む。だが、同じ物書きとしてその光景を目にしたとき、心の中で「こりゃダメだ」と呟く。そんなことをしても何も変わらない。小説家自身、それを知っているはずだ。それでも、何かをしなければ前に進めない。この無言のファーストシーンから、『めためた』は、ちょっと救いようのない人物たちの物語であり、同時に「それでも」を描いた映画だと予感させる。
幼い頃に父に捨てられ、その影に囚われ続ける長女。妹の就職祝いで5年ぶりに実家へ帰るが、そこで待っていたのは、初老を迎える母が若い男と結婚するサプライズ。再び自分が捨てられる恐怖に取り憑かれた長女は、その焦燥を隠すために母親を責め立てる。長女に立ち向かったのは歳の離れた妹。Googleに就職が決まった妹の揺るぎない正論に長女はズタズタになる。「家族」を放棄するような言葉を吐いた長女は「娘」としての立場も「姉」としての立場も失う。自分は何者なのか?誰からも取り残されたとき、ようやく気づく。「娘」でも「姉」でもなく、ただ「自分」でしかないことに。傷つけてきたのは、父でも母でも妹でもなく、自分自身。自分と向き合うことの寂しさ、自分を知ることの孤独。それでも「自分」という傷を抱えながら、生きていくしかない。
子どもの頃から自分の子どもを望んでいたカメラ好きの男。大学時代、後輩を妊娠させながらも父になれなかった後悔を背負う彼は、専業主婦の妻と妊活に励む。不妊治療の過程で、自らに子種がないことが明らかになるが、その現実を受け入れられず、過去へ逃避行する。そんな夫をいさめる妻に「俺たちは希望に向かっている」と主張する。だが妻は「絶望しかないよ!」と言い放つ。子どもができなくてもいいのか——夫の問いに、妻は答えない。うなずきもしない。ただ、じっと夫を見つめる。その眼差しには、どんな言葉よりも、どんな笑顔よりも、深い未来が宿っている。
すべてを吐き出し、何もかもが壊れたその先で、夫婦はベートーヴェンの旋律に乗せて踊り出す。これから歩む将来を迎え入れる。
母の旅立ちを受け入れた長女は、嘲笑していた彼氏のヘンテコなダンスに身を委ねる。「自分」に絶望し、そして「自分たち」の旅路へと足を踏み出す。
小説家は、隅田川の橋をパンツ一丁で疾走する。不安定な欄干の上ではなく、沿道を堂々と跳び跳ねる。その柔らかなリズムと弾力は、絶望を飲み込み、未来と戦う準備運動。
『めためた』は、三振を繰り返したバッターが最後にホームランを打つ映画ではない。5打数5三振を喫したバッターが、明日も三振する可能性しか見えなくても、それでも打席に向かう映画。描いたのは、「それでも」という一歩。その接続詞が人生のどこかにある限り、ベートーヴェンが応援歌になる。
我々は登場人物たちの幸せな姿を観たいわけではない。彼らの幸福を「願いたい」のだ。映画館は現実逃避の洞窟ではなく、祈りの場所。スクリーンに眼差しを注ぎ、自分たちも救われる。そうすることで寄るべなき魂を、自ら光の出口へと導く。5回目の『めためた』を観ることがあっても、また心の中に豊かな波紋が広がるだろう。渋谷で観ていれば東京コンプリートだったと悔やみながら、吉祥寺をあとにした。
2025年2月1日ver
昭和のホームドラマといえば、「ちゃぶ台返し」のシーンが思い浮かぶ。ちゃぶ台にとっては迷惑な話だが、ひっくり返す人間は真剣なのだろう。令和4年に生まれた『めためた』には、そんな昭和特有の体当たりのエネルギーが宿っている。LINEのスタンプひとつで恋愛が終わり、家族が断絶する現代において、『めためた』のブレーキの壊れた衝突には、郷愁と未来が同居している。
3組の男女がパートナーと繰り広げる大喧嘩は、プロレスの場外乱闘さながら。風呂のドアは壊すわ、早朝・深夜に怒鳴り散らすわ、近所迷惑も甚だしい。だが、その怒りは暴力でも、自己防衛でも、自傷でもない。「喧嘩するほど仲が良い」といった前向きもない。虚勢と威勢の果てに、自分たちの弱さや欠点を曝け出し、それを確認するための行為に見える。
物語の終盤、妊活に励む妻が作品全体を象徴するセリフを叫ぶ。子種がないことが発覚し、それでも「俺たちは希望に向かっている」と言い張る夫に放った一言。
絶望しかないよ!
不妊、母と娘の確執、スランプに陥った小説家。3組の男女がそれぞれ抱える苦悩はバラバラだが、彼らは「絶望」という一本の糸で繋がっている。そして、妻の一言はスクリーンの内側だけでなく、観客の自分にも貫通する。
将来に不安を抱え、何を言えばいいのか、どこへ向かえばいいのか。その焦りを振り払うために逃げ道を探す。そうやって、もがけばもがくほど大事なものを失っていく。『めためた』は自分の心情を映し出す鏡であり、返り血でもある。
すべてを吐き出し、何もかも壊れた男女は、ベートーヴェンの旋律に乗って、いきなり踊り出す。小説家は隅田川の橋をパンツ一丁で疾走する。単なる現実逃避ではない。己の無力さを受け入れ、何かをあきらめ、過去を置き去りし、これから訪れる絶望を迎え入れる準備運動に見える。
いざ絶望に立ち向かったとき、彼らは何らかの選択をするだろう。その先に待っているのは後悔かもしれない。絶望の上塗りかもしれない。だが、きっと後悔をも肯定できる。報われなくても踊る。走る。すべて出し切ったとき、図々しい透明感が生まれる。結果オーライ。
絶望上等!
それが『めためた』だ。
2025年1月30日ver
物語の始まり。スランプに陥った小説家が隅田川の橋を歩く。肌にまとわりつく夜の重い空気、不安定に揺らぐ欄干越しの水面、何かに取り憑かれた表情。スクリーンから漂ってくる不穏な湿度に、ある夜の記憶が蘇った。
千駄ヶ谷の駅前は大勢の野次馬がひしめき合い、警備員は声こそ優しいが殺気立っている。新国立競技場は鉄柵に囲まれ近づけない。コロナ禍の東京オリンピック閉会式。フルマラソンが行われるはずだったこの日、酷暑を言い訳に42.195キロは札幌へ逃げた。納得いかなかった。マラソンだけは開催地を走って欲しかった。新宿のアパートを飛び出し、閉幕の直後に幻の東京コースを独りで走った。理由も曖昧、ただ怒っていた。
『めためた』の男女3組がパートナーと繰り広げる大喧嘩はプロレスの場外乱闘さながら。風呂のドアは壊すわ、早朝・深夜に怒鳴り散らすわ、近所迷惑もいいところ。しかし、LINEのスタンプひとつで恋愛が終わり家族が断絶する現代において、ブレーキの壊れた衝突は滑稽でありながら、どこか胸に迫るものがある。妊活のなかで子種がないことが発覚し、それでも「俺たちは希望に向かっている」と言い張る夫に妻が叫ぶ。
絶望しかないよ!
すべてを吐き出し、何もかもが壊れた先で、3組の男女はいきなり踊りだす。ベートーヴェンの旋律に乗り、己の無力さを受け入れ、それでも前に進む。小説家は隅田川の橋をパンツ一丁で疾走する。何かをあきらめ、過去を置き去りし、絶望にピンポンダッシュする。沿道に応援者はいない。だが、祝福はある。
オリンピックの夜、幻の東京コースを走り抜けても世界は変わらなかった。モヤモヤも晴れなかった。それでも朝日に照らされた国立競技場は、昨夜より小さく見えた。今は会社員を辞め物書きをやりながら、売れない本を書き続けている。
絶望のない人生なんて味気ない。自分の過去や未来に過保護になる必要はない。安全装置を外し、思いきり翔んで、思いきり堕ちる。そのほうが、いつか訪れる後悔を肯定できる。報われなくてもいい。ただ、踊り続ける。ただ、走り続ける。
2024年12月ver
映画は闇への入り口であり、同時に光の窓でもある。映画館に来る観客は誰もが張り裂けそうな孤独を抱え、題名のない日常を生きている。2022年に生まれた『めためた』は、寄るべなき魂を光の出口へと導いてくれる。
この映画を東京の菊川、新宿で合計3回観た。一度目は震え、二度目は泣き、三度目は大笑い。 昔の才能を超えられない物書き、幼少のころ家庭を捨てた父をもつ長女、子種がないことが発覚する夫。想いのたけをパンチのようにパートナーの顔面にぶつける3組の男女の怒りと絶望が織りなす72分のオムニバスは、噛めば噛むほど味が深まる白米。
いい映画には、いい音や色や形だけではなく「湿度」がある。『めためた』のオープニングの夜の隅田川は、コロナ禍にあった東京オリンピック閉幕式の国立競技場の空気と匂いを思い出させた。殺伐としているのに冷めていて、虚無を抱えている。湿った場所なのに砂漠のように渇いている。そんな不思議なグラデーションの質感が漂流している。
3組の男女を待っているのは希望ではない。もがいてあがくほど大事なものを失っていく。行き先もわからず、手がかりもなく、岐路に迷い、帰路を失う。
3組の悲愴がピークに達したとき、彼ら彼女らはベートーヴェンの曲に乗せて絶望と輪舞する。春の光を呼ぶようにひたむきに踊り、根拠のない勇気で一歩を踏み出す。
希望があるからではない。希望を求めて人は生きる。男女3組は互いを知らないが、決して無関係でも無関心でもない。同時代で呼吸し、なにかと戦っている。出逢うことのない3つの物語はミステリートレインで繋がっている。そうやって世界は愛し合う。
乗り越えるでも踏ん張るでもなく、時間と旅行しながら、ちょこちょこ歩き、波にまかせてぷかぷか浮かんでいく。 絶望や後悔のない人生なんて味気ない。『めためた』には、この映画にしかない世界にひとつだけの推進力がある。ちょっと救いようのない男女3組が三本の矢となって、我々に寄り添ってくれる。
自由にならなくていい
自由を目指さなくていい
不自由の翼を広げればいい
映画館を出たとき、『めためた』に流れる川は私たち自身の河になる。それはやがて、未来という大河になる。
2024年7月ver
映画は暗闇の世界で観るプラネタリウム。テレビではキラキラ光るキャラクターもシネマでは途端に味気なくなる。ちょっと救いようのない人物たちにこそキネマの神様は微笑む。スクリーンは金幕ではなく銀幕。映画は金閣寺ではなく銀閣寺。映画界にはメッキの金閣もあるが、白銀の輝きを放つ本物の銀閣が『めためた』である。
3組の男女の群像劇。主人公は二股生活を送るスランプに陥った作家、婚約者の彼氏を連れて帰省すると母親が若い男と結婚するサプライズが待っていた女、妊活に励むが旦那に子種がないと発覚する夫婦。
この映画は登場人物のバックボーンは描かず、風景と会話がプロフィールとなる。目の前に起こる出来事にどんなリアクションをとるか、その「今」だけを紡いでいる。
セリフやストーリーを一部しか用意せず、あとは役者たちに任せ、現場で事故的に生まれる火花をカメラに収める手法。ドキュメントなのかフィクションなのか、不思議なグラデーションの質感が漂う。
本当にいい映画には音や色や形だけではなく、心地よい「湿度」がある。『めためた』は光と湿度の映画であり、沈黙が美しい。撮影監督の近藤康太郎は、匂い・吐息・沈黙・光・温度・湿度のすべてを逃さず捉えた。これが長編監督デビューとなる鈴木宏侑、主演・脚本の新井秀幸が「こんな映画はもう二度とつくれない(と思います)」と口を揃えるように、再び令和の奇跡が生まれる可能性は低い。
偶然かもしれない、一発屋かもしれない。
だけど線香花火も打ち上げ花火も一回しか見れないから尊い。ラッキーパンチであっても日本映画にとって『めためた』が近年最高の宝石であることは変わらない。
ゴッホが時代の先を生き、現世に理解されなかったように、『めためた』も何年間の熟成を経て爆発するかもしれない。この映画には北野武、ジム・ジャームッシュ、ヴィム・ヴェンダース、ホン・サンス、レオス・カラックスなど先人たちが銀幕に放ってきた色素と元素がある。
映画は寄るべなき者たちのもの。絶望が待っていると分かっていても踊り続ける。その背中を押してくれる。希望があるからではなく、希望を求めて人は生きる。出逢うことのない3つの物語はミステリー・トレインで繋がっている。そうやって世界は愛し合う。
『めためた』は曇り空、曇りガラスを肯定する。人生は晴れや雨の日より曇りが多い。どうすればいいのかわからない、なにを発すればいいのか言葉が出てこない。悶々としながら、誰しもそれぞれの曇り空、曇りガラスを抱えて生きていく。
乗り越えるでも踏ん張るでもなく、時間と一緒に旅行をしながら、ぷかぷか浮かんでいく。晴れの日が来なくても曇ったままでも何とかなる。
自由にならなくていい
自由を目指さなくていい
不自由の翼を広げればいい
白く翔べ、白く堕ちろ。後悔のない人生なんて味気ない。後悔を肯定できればいい。ベートーヴェンの『悲愴』は曇り空を肯定するためにこの世に産み落とされた。舞踏会場ではなく、宵闇で踊るためのダンスミュージック。
『めためた』は心の体重を少し軽くしれくれる。
『めためた』に登場する人物たちも、『めためた』という映画も、これからも世界という大海原を流れていく。たゆたえども沈まずに。
鑑賞記録
2024年6月24日

はじめて『めためた』を観たのが2024年6月24日。菊川のStranger。1週間の限定上映の中日。予想だにしなかったあまりの素晴らしさに震え、舞台挨拶の内容が頭に入らなかった。それほど感動で震えた。
2024年6月26日

『めためた』を自分の言葉で論じたくて2日後にStrangerに向かった。一度目は震えたが、この時は涙が出た。上映後は舞台挨拶ではなくカフェスペースでトークスタディ。監督の松本優作さんも参加。途中から主演・脚本の新井秀幸さんも合流し、『めためた』が全編・即興芝居で作られたことを知った。地図のない冒険、その迫力が役者たちに憑依し、傍観者である我々のくすぶっている何かを刺激する。アドリブという闇の中で光を探す作業が、めためたの人物たちの境遇と共鳴し、「光」より強い「闇」の輝きを生み出している。
2024年12月23日

映画レビューを読んでくださった新井秀幸さんから声をかけていただき、新宿ケーズシネマでの3度目の鑑賞。この時は大笑いし、劇場の観客も大爆笑だった。上映後の打ち上げ後に招待いただき、日付が変わったクリスマスイヴ、監督の鈴木宏侑さんから2025年2月2日の上映に向けた作品レビューを依頼いただいた。
映画こぼれ話
①『めためた』を素晴らしい即興芝居で彩った女優たちの多くは現在、別の仕事をしている。この映画でしか見られない流星を見逃さないでほしい。また他の俳優も家具屋さんでの仕事、ウーバーイーツ、小学校の教諭など様々な仕事を掛け持ちしながら俳優活動を続けている。
②『めためた』の演出にはホン・サンスやジム・ジャームッシュといった監督の鈴木宏侑がリスペクトする先輩監督へのオマージュが随所に込められている。本来、オマージュは失敗に終わることが多いが、『めためた』はうまく機能している。偉大な先人たちが、今作の背中を押してくれている。
③本作で印象的な妊活の夫婦は当初のシナリオにはなく、2組の物語を撮った段階で追加が決まった。撮影されたアパートは以前、監督の鈴木宏侑が住んでいたアパート。
④映画に登場する隅田川を流れる橋は、主演・脚本の新井秀幸の人生ベストムービーである『ポンヌフの恋人』をイメージしている。ちなみに監督の鈴木宏侑のベストムービーは『地獄の黙示録』と『ニューシネマ・パラダイス』である。
⑤本作のメインテーマと言えるベートーヴェンの『悲愴』は当初は『皇帝』の予定だった。実際に音楽を当て込めてみたところ、違う音楽がいいとのことで『悲愴』に変更さされた。