
『わが青春に悔なし』は、1946年公開の日本映画。監督は黒澤明、主演は原節子。京大事件(滝川事件)とゾルゲ事件(尾崎秀実)を下敷きに、弾圧の時代に引き裂かれる師弟関係と、その渦中で「自分の足で立つ」ことを覚えていく一人の女性を描く。
スタッフ

- 監督:黒澤明
- 脚本:久板栄二郎
- 製作:松崎啓次
- 音楽:服部正
- 撮影:中井朝一
- 編集:後藤敏男
- 製作会社:東宝
- 配給:東宝
- 公開:1946年10月29日(日本)
- 上映時間:110分
撮影は1946年4月から10月15日まで行われ、冒頭の吉田山の場面は衣笠山や宝ヶ池で撮影された。近くのものから背景までピントが合っているように見せるパンフォーカス撮影を試みようとしたが、大量の照明が必要になるため、敗戦直後の電力不足で諦めた。
本作は、楠田清監督の『命ある限り』と題材が類似しているとして変更を余儀なくされ、黒澤は2つの脚本からはまったく異なる作品が生まれると審議会で述べたが、受け入れられることはなかった。そのため最後の20分間を書き直すことになり、黒澤明は「無理に話を替えたから、少し歪んだものになった。題名とは逆に、大いに悔あり」と述べている。
キャスト

- 八木原幸枝:原節子
- 野毛隆吉:藤田進
- 八木原教授:大河内傳次郎
- 野毛の母:杉村春子
- 八木原夫人:三好栄子
- 糸川:河野秋武
- 毒いちご:志村喬
1946年9月、主演の原節子は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街を賑わせた。
あらすじ

1933年。京大教授・八木原の娘、幸枝は、父の周囲に集う学生たちの熱気の中で育つ。教え子の糸川と野毛は対照的だ。糸川は器用で、時代の風向きを読む。野毛は不器用で、正面からぶつかる。幸枝はその二人の間で、自由な青春を謳歌しているように見えるが、実際はまだ「自分の立ち位置」を持っていない。誰かの言葉に反応し、誰かの情熱に惹かれ、気分で揺れている。若さとはしばしばそういうものだ。
だが「京大事件」が起きる。自由主義を守ろうとした八木原教授は大学を追われ、教室は急に冷える。議論の場が消え、空気だけが残る。国家が恐れているのは、銃ではなく言葉だと分かる。父が追放されることで、幸枝は初めて「考えることが危険になる時代」を知る。
野毛は学生運動に身を投じ、検挙され、やがて転向して満州へ渡る。糸川は検察官の道を選び、社会の側に立つ。二人の選択は、善悪というより生き残り方の違いになる。時代は人を裁くが、その裁きは後から来る。選択した瞬間には、誰も結果を知らない。
数年後、東京で再会した幸枝と野毛は互いの愛を確信し、結婚する。野毛が「平和を求める地下活動」に関わっていることを、幸枝は薄々知っている。だが彼女は問い詰めない。知らないふりをして守るのでもない。むしろ、知った上で一緒にいる。ここで幸枝は、恋愛の甘さではなく、生活の重さとして愛を引き受け始める。
1941年、野毛は国家機密漏洩の容疑で逮捕され、獄中で謎の死を遂げる。幸枝も取り調べを受けるが、屈しない。彼女が強いのは、信条を演説できるからではない。自分の選択を否定して生き延びたくないからだ。出所した幸枝は、野毛の遺骨を抱え、雪深い農村に暮らす野毛の両親を訪ねる。だがそこには慰めがない。息子は「国賊」扱いされ、家は村から迫害されている。両親の目に、幸枝は「災いを運んできた女」にも映る。拒絶され、追い返され、居場所がない。
それでも幸枝は村に留まる。着物を脱いで、もんぺに履き替え、農作業に打ち込む。泥にまみれ、手がひび割れても、逃げない。ここで彼女が戦っているのは村人ではない。もっと根の深いものだ。世間という空気、噂という暴力、そして「自分が間違っていたかもしれない」という内側の恐れ。それらに対して、彼女は労働で応える。言い返す代わりに、鍬を振る。これは自罰ではなく、自分の足場を作る行為である。
終戦を迎え、父・八木原教授が復職し、幸枝を迎えに来る。だが幸枝は簡単に「戻らない」。都会の安全や、知識人としての生活へ戻れば、たしかに楽にはなる。けれど、彼女がここで掴んだものは、楽さではない。自分が選んだ場所で、自分の身体で立つ感覚だ。最後、彼女は晴れやかな表情で車に乗る。そこにあるのは勝利ではない。諦めでもない。自分の人生を自分で引き受けた者の、静かな手応えである。
映画レビュー:悔いがないとは、無傷という意味ではない

この映画を観ると分かる。「悔いがない」とは、後ろを振り向かないことではない。むしろ逆で、振り向いても崩れない、という意味に近い。
幸枝は最初から立派な人間ではない。むしろ、気まぐれで、嫉妬もするし、優柔不断でもある。だが時代がそれを許さなくなる。自由な青春は、強制的に終わる。父が追われ、友が分かれ、恋が政治と結びつく。ここで幸枝は「正しい側」に立つために成長するのではなく、「自分の選んだ側」を引き受けるために成長する。
この作品で重要なのは、思想を語る場面より、暮らしが変わる場面だ。着物からもんぺへ。教室から畑へ。都会の言葉から、村の沈黙へ。幸枝は働く。働くことで、過去の選択に形を与える。野毛を愛した、という事実を、日々の汗で更新し続ける。
この土地と幸枝の姿は、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラを思わせる。
村人の迫害は残酷だが、特別な怪物ではない。「世間」が自己防衛するときの普通の顔でもある。危険なものから距離を取る。噂を信じて安心する。異物を排除して眠る。そういう仕組みの中で、幸枝は排除される側に立つ。すると、彼女の中で価値の順番が変わる。名誉や体面より、嘘をつかないことが大きくなる。孤独より、自分を裏切ることが怖くなる。
黒澤がパンフォーカス撮影を試みながら、電力不足で断念したという話も、この映画の雰囲気に似ている。全部にピントを合わせたい。だが戦後直後の現実は、それを許さない。見えるはずのものが見えないまま進む。『わが青春に悔なし』も、すべてを整然と説明する映画ではない。後半が書き直され、歪みも残る。それでも歪みが消えないからこそ、敗戦直後の「まだ整っていない世界」の手触りが出る。きれいに仕上がっていないことが、逆に誠実に感じられる瞬間がある。
幸枝の晴れやかな表情は、幸福の表情ではない。覚悟が固まった顔だ。人生は一度の選択で決まらない。だが「引き受ける」と決めた瞬間から、同じ出来事の意味が変わる。悔いがないとは、成功したから言える言葉ではない。失っても、傷ついても、なお「それでも自分が選んだ」と言える状態のことだ。
この映画は、自由を賛美して終わらない。自由が奪われる時代に、自由を取り戻すにはどうすればいいかを、きれいごとではなく身体で示す。最後に残るのは、思想よりも、生活の姿勢である。だから『わが青春に悔なし』は、戦後のスローガンではなく、一人の人間が自分の人生を取り戻すまでの、重い記録として立っている。
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