
『お熱いのがお好き』(原題:Some Like It Hot)は、1959年公開のアメリカ映画。監督・製作はビリー・ワイルダー。主演はトニー・カーティス、ジャック・レモン、マリリン・モンロー。禁酒法時代のシカゴを舞台に、マフィアの殺人現場を目撃してしまった二人のミュージシャンが、追っ手から逃れるため女装し、女性バンドに紛れ込む。そこから恋と嘘と追跡劇が一気に転がり出す、スクリューボール・コメディ。
原題は、マザー・グースの『Pease Porridge Hot』の一節に由来する。熱いのが好きな者もいれば、冷たいのが好きな者もいる。好みも欲望も、人のかたちはひとつではない。その感覚が、この映画全体に軽やかに流れている。ラストのセリフ「完全な人はいない(Well, nobody’s perfect.)」は、映画史に残る言葉として語り継がれている。
スタッフ

- 監督・製作:ビリー・ワイルダー
- 脚本:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド
- 原作:R・ソーレン
- 音楽:アドルフ・ドイッチェ
- 撮影:チャールズ・ラング
- 編集:アーサー・P・シュミット
- 配給:ユナイテッド・アーティスツ
- 公開:1959年3月29日(アメリカ)/1959年4月29日(日本)
- 上映時間:120分
マリリン・モンローは当初、本作をカラー映画だと思っていたが、白黒映画だと知った途端に不機嫌になったという。ワイルダーはその理由について、カーティスとレモンの女装がカラーで映ると非難の対象になりかねないため、白黒で撮ったと語っている。
当時使われたスチール写真や宣伝用ポスターの一部は、モンローが妊娠していたため、彼女の顔と別の出演者の身体を組み合わせたものだった。
撮影は1958年8月初旬から11月12日まで、サミュエル・ゴールドウィン・スタジオで行われ、多くのシーンはカリフォルニア州コロナドのホテル・デル・コロナドで撮影された。

マリリン・モンローが汽車の中で、ウイスキーとベルモット、水枕、シンバルまで使って「マンハッタン」を作る場面は印象的で、このカクテルを世界的に有名にした。
キャスト

- シュガー・ケーン・コワルチェック:マリリン・モンロー
- ジョー/ジョセフィン/ジュニア:トニー・カーティス
- ジェリー/ダフネ:ジャック・レモン
- スパッツ・コロンボ:ジョージ・ラフト
- マリガン警部:パット・オブライエン
- オズグッド・フィールディング3世:ジョー・E・ブラウン
- リトル・ボナパルト:ネヘマイア・パーソフ
- スウィート・スー:ジョーン・ショウリー
- シグ・ポリアコフ:ビリー・グレイ
- つまようじのチャーリー:ジョージ・E・ストーン
- ビーンストック:デイヴ・バリー
企画当初は、フランク・シナトラとミッチー・ゲイナーが主演予定だったが、ワイルダーは本作のコメディ感覚にぴったりの俳優としてジャック・レモンを見つけ、主演の一人に推薦した。
マリリン・モンローが歌う「アイ・ウォナ・ビー・ラヴド・バイ・ユー」は後年まで広く親しまれ、バラエティ番組のお色気シーンなどでもよく使われる曲になった。
あらすじ

禁酒法時代のシカゴ。サックス奏者のジョーは、女好きで調子がよく、その場しのぎで生きる男だ。相棒のジェリーはベース奏者で、ジョーより慎重だが、結局は彼に巻き込まれてばかりいる。二人はマフィアのボス、スパッツ・コロンボが経営する酒場で働いているが、警察の手入れで仕事場を失う。さらに最悪なことに、彼らはスパッツ一味が密告者を射殺する現場を目撃してしまう。逃げた二人は、次に見つかれば命はないと知る。
金も仕事も逃げ場もない中で、彼らが見つけた唯一の脱出口は、女になることだった。ジョーはジョセフィン、ジェリーはダフネと名乗り、女性だけのバンド「スウィート・スーとソサエティ・シンコペーターズ」に潜り込み、列車でマイアミへ向かう。そこで出会うのが、ボーカル兼ウクレレ奏者のシュガー・ケーンだ。シュガーは美しく、どこか危なっかしく、夢ばかり見ては男に傷つけられてきた女性である。彼女は、もうサックス奏者なんてこりごりだと言いながら、やさしくて眼鏡をかけたお金持ちと恋をしたいと語る。
もちろん、それを聞いてジョーが黙っているはずがない。彼は女装のままシュガーと親しくなりつつ、別人格として大富豪の御曹司「ジュニア」に化け、今度は男として彼女を口説き始める。女のふりをして近づき、男のふりをして奪おうとする。嘘が二重にも三重にも重なるが、その嘘がだんだん本音の輪郭を浮かび上がらせていくのが、この映画のおかしさであり、切なさでもある。
一方ジェリーは、ダフネとして、年配の億万長者オズグッド・フィールディング3世に猛烈に言い寄られる。はじめは迷惑でしかなかったはずなのに、ダフネとして踊り、口説かれ、プレゼントされ、ちやほやされるうちに、ジェリーの中で妙な変化が起きる。冗談で始まった女装が、ただの変装では済まなくなる。男としての自分、女として扱われる自分、そのあいだがぐらつき始めるのだ。
マイアミに着いてからも、二人の綱渡りは続く。ジョーはオズグッドのヨットを利用して、ジュニアとしてシュガーとの距離を縮める。インポテンツだと称して無垢な大富豪を演じる一方で、シュガーの側は、彼の芝居の中に自分が夢見てきたやさしさを見てしまう。彼女が欲しかったのは金そのものではなく、乱暴に消費されないことだった。
そのころホテルでは、イタリア・オペラ愛好会の会合を装ったマフィアたちの全国会議が開かれており、そこにスパッツ一味も現れる。ジョセフィンとダフネはついに追っ手に見つかり、またしても命からがら逃げることになる。そのうえ二人は、マフィア内部の粛清現場まで目撃してしまい、ますます後戻りできなくなる。
追われる中で、ジョーはシュガーに本当のことを打ち明けきれず、別れの電話でごまかそうとする。しかしシュガーは彼を追ってくる。ダフネはダフネで、オズグッドからの本気の求婚にうろたえる。冗談のはずの婚約が、妙に現実味を帯びてくる。
そしてラスト、ヨットの上で、ジョーはついに変装を解き、自分は金持ちでも立派な男でもないと告白する。シュガーはそれでも彼を受け入れる。ダフネはオズグッドに向かって、自分とは結婚できない理由を次々に並べ立て、最後にはかつらを脱いで「俺は男だ」と叫ぶ。ところがオズグッドは少しも取り乱さず、あの一言を返す。
「完全な人はいない」
この一言で映画は終わる。追跡劇も恋も変装も、最後にはこの言葉に吸い込まれていく。
映画レビュー:人は、ひとつの顔だけでは生きていけない

『お熱いのがお好き』は、女装コメディとして抜群に面白い。この映画が本当にすごいのは、変装をただの笑いで終わらせていないところだ。服を着替えることが、そのまま人の見え方を変え、生き方まで揺らしてしまう。そんな当たり前で、でも見落とされがちなことを、これほど軽やかに見せる映画はそう多くない。
ジョーとジェリーは、生き延びるために女になる。最初は命を守るための芝居にすぎない。だが芝居は長く続くと、だんだん「隠していたもの」より「出てきてしまうもの」のほうが大きくなる。ジョーは男としては軽薄で嘘つきだが、ジョセフィンとしてシュガーの話を聞くとき、本気で相手の寂しさに触れる。ジェリーはダフネとして扱われる中で、自分でも知らなかった浮き立つ気分に出会ってしまう。ふたりとも、別人を演じているつもりで、むしろ素の自分を掘り当てていく。
この映画のおかしさは、見た目と中身がズレることから生まれる。そのズレは笑いのネタであるだけでなく、人間そのもの。人はいつも、少し演じながら生きている。仕事の顔、恋人の前の顔、弱さを見せないための顔。どれかひとつだけが本物で、あとは偽物というわけではない。場面ごとに違う顔を持ちながら、それでもなんとか自分をつないでいる。その事実を、この映画は笑わせながら肯定してくる。
シュガーという人物もいい。彼女は単なる“可愛いヒロイン”ではない。傷つきやすく、夢見がちで、同じ失敗を繰り返す。でも、その弱さは馬鹿さではない。人に期待してしまうことを、簡単にはやめられないだけだ。つまり彼女は、ひどく人間らしい。ジョーが彼女に惹かれるのは、美しいからだけではない。何度がっかりしても、まだ優しさを信じようとするからだ。皮肉屋の男が、まぶしさに負ける。嘘が増えるほど、恋が本物になる。
この映画は「まともであること」の線引きをからかっている。男はこう、女はこう、恋はこう、成功者はこうあるべきだという決まりを、次から次へとずらしていく。難しい顔をせず、笑いの勢いで飛び越えてしまう。その身軽さがいい。正しさを声高に主張するのではなく、そんなにきっちり分けなくても世界は回る、と肩の力を抜かせてくる。
ラストの「完全な人はいない」は、名ゼリフというだけではない。これは失敗や欠点を見逃してあげる、という甘い話でもない。人はみな、少し足りず、少しずれ、少しごまかしながら生きているという認識。だからこそ、相手を切り捨てる前に、その不完全さごと受け取る余地が生まれる。完璧さを条件にした瞬間、恋も友情も、すぐ壊れる。
この映画は、欠けた者どうしが出会う話だ。嘘つき、夢見がち、臆病、見栄っ張り。誰も立派ではない。立派でないからこそ、相手の欠けも見える。そのとき笑いは、相手を馬鹿にするためではなく、一緒にややこしい世界を渡るための知恵になる。
白黒映画であることも効いている。色がないぶん、変装のあわただしさや表情の機微がくっきり立つ。現実の細かな質感より、人物の揺れやリズムが前に出る。華やかなのに、どこか抽象的でもある。その距離感が、この映画をただの時代の産物にせず、いま見ても古びないものにしている。
『お熱いのがお好き』は、ドタバタ喜劇でありながら、人が人を見るとはどういうことかをさりげなく問う映画でもある。見た目で決めつけること、肩書きで恋すること、役割に安心すること。その全部をひっくり返した先に、案外やさしい景色が待っている。
完全ではない者たちが、完全ではないまま、どこかで笑って受け入れ合う。だからこの映画は、こんなに愉快で、こんなに強い。
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