シネマの流星

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『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

『バリー・リンドン』(Barry Lyndon)は、1975年に公開された歴史映画。18世紀ヨーロッパの社会階級、戦争、結婚、賭博、決闘。人間の運命が“偶然と欲望”に揺さぶられる世界を、スタンリー・キューブリックが圧倒的な視覚美で描いた大作。原作はサッカレーの小説『The Luck of Barry Lyndon』(1844年)。

スタッフ

  • 監督・脚本・製作:スタンリー・キューブリック
  • 原作:ウィリアム・メイクピース・サッカレー
  • 製作総指揮:ヤン・ハーラン
  • 音楽:レナード・ローゼンマン(ハンデル、シューベルトなどの既存曲を編曲)
  • 撮影:ジョン・オルコット
  • 編集:トニー・ローソン
  • 配給:ワーナー・ブラザース
  • 公開:1975年12月18日、1976年7月3日(日本)
  • 上映時間:185分

音楽プロデューサーは、当初ニーノ・ロータだったが、キューブリックが時代設定に合わないシューベルトの作品を用いたことに意見が対立し、降板した。後任は『エデンの東』や『理由なき反抗』のレナード・ローゼンマンが務めた。

キューブリックや撮影のジョン・オルコットは、時代の雰囲気を忠実に再現するため、ロウソクの光だけで撮影。NASAのために開発された明るいレンズを使用した。

キャスト

  • レドモンド・バリー/バリー・リンドン:ライアン・オニール
  • レディ・リンドン:マリサ・ベレンソン
  • ブリンドン子爵:レオン・ヴィタリ
  • ポツドルフ大尉:ハーディ・クリューガー
  • シュヴァリエ・ド・バリバリ:パトリック・マギー
  • バリーの母ベル:マリー・キーン
  • ナレーター:マイケル・ホーダーン

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あらすじ

『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

18世紀のアイルランドに生まれたレドモンド・バリーは、従姉ノラへの恋と彼女の求婚者クイン大尉への嫉妬から決闘を行うが、家族による芝居によって村を追われる。無一文となったバリーは七年戦争に志願して渡欧し、戦場での脱走・変装・詐術を経てプロイセン軍に入隊、のちにスパイ任務で知り合ったギャンブラーのシュヴァリエと行動を共にし、ヨーロッパ社交界でイカサマ賭博に生きるようになる。

その途上で病弱なリンドン卿の若い妻レディ・リンドンを誘惑し、やがて卿が亡くなると結婚して「バリー・リンドン」と名乗り領地を手に入れる。しかし放蕩と浪費に溺れ、妻の連れ子ブリンドン子爵と深く対立し、評判を失い、最愛の息子ブライアンの死で家庭は崩壊する。

没落したバリーは酒に溺れ、家計は破綻。ついにブリンドン子爵から決闘を申し込まれ片脚を失う重傷を負う。バリーは年金と引き換えに国を去るよう命じられ、母と共にイギリスを離れて放浪生活へ戻る。彼のその後の消息は定かではない。

映画レビュー:成功とは“偶然に拾った椅子”であり、転げ落ちるもの

『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

『バリー・リンドン』は、出世物語にも栄光の物語にも見えるが、実際には「人間は、何によって人生を左右されているのか」という問いが、175分の静かな奔流となって画面を流れていく。

バリーは特別な才能を持たない男だ。勇気があるわけでも、知性に秀でているわけでもない。ただ、“その場その場で刺激に反応する”というシンプルな衝動で生きている。その衝動が、恋を引き寄せ、決闘を招き、戦争に巻き込まれ、脱走へ追いやり、イカサマ賭博に手を染め、やがて貴族の未亡人と結婚する。

バリーは階段を登るのではない。転がりながら、たまたま高い場所に落ち着いてしまった男である。

人生の選択の大半は、熟考の結果ではなく、怒り、嫉妬、欲望、退屈しのぎ。そういった即興の反応から決まっていく。バリーはその反応の純度が高く、特別な怪物ではない。

上流社会に到達した途端、バリーは自分の「空白」と向き合わされる。レディ・リンドンと結婚し、豪奢な邸宅に住み、貴族としての振る舞いを身につけようとする。しかし努力すればするほど、自分の“不在”が際立つ。教養がない、誇りの置きどころが曖昧、どこに立てば良いのか理解していない。

成功とは、金や肩書を手に入れることではなく、その場所を支えるための「自分という芯」を持っていることだ。バリーにはそれがない。だから、見栄と浪費で“自分の形”を外側から作り始める。だが、外側から固めた形は、ひとつの不運で簡単に崩れる。息子ブライアンの死は、その崩壊の最初の亀裂だ。バリーは息子を愛することで、自分の空虚さを埋めようとしていた。その唯一の“意味”が消えたとき、バリーは落ちるしかなくなる。

バリーは悪人ではない。しかし善人でもない。ただ、幸福をつかむ器を与えられなかった人間だ。それでも、落ちぶれた最後の瞬間。決闘に敗れ、片足を失い、年金と引き換えに国を追われる場面、そこに奇妙な静けさがある。

成功の輝きより、失敗のあとの静けさのほうが、人を真実に近づける。愛した分だけ、痛みも増す。高く登った分だけ、落ちる時の音が大きく響く。

キューブリックの冷静な構図は、その皮肉を“美しさ”として包み込む。もがきのすべてが、キャンドルの光の中に漂う埃のように見える。

バリーはどこに行っても「借り物」だった。軍隊の服も借り物、ギャンブルの技も借り物、貴族の称号も借り物、息子への愛さえ、拠りどころとして借りていた。自分の名前で立つことができなかった。だが、その不器用さは、時代と階級の中に生まれた普通の人間の姿でもある。

『バリー・リンドン』は、成功と失敗を対立させない。どちらも大差ない。人はどちらにいても孤独で、どちらにいても迷い、どちらにいても自分を見失う。だからこそ、人生は美しい。どんな終わり方をしても、その人の物語に変わりはない。

キューブリックの冷徹な視線は、バリーを突き放しているように見えて、実はもっと深い場所で肯定している。

「人はみな、何者にもなりきれないまま、生きて、そして散っていく」

その静かな事実を、キャンドルの炎のように揺らめく映像で刻みつけた映画。滑稽で、残酷で、それでも目を離せない生のかたちが、『バリー・リンドン』には詰まっている。

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映画レビュー:なぜバリーは、自分から銃弾を受けにいったのか?

『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

バリーは、数奇な運命を“銃弾を避けることで”くぐり抜けてきた男だ。クイン大尉との決闘を生き延び、戦場でも死を回避し、脱走兵として処刑を免れ、詐欺師として貴族の元で地位を得るまで、一度として銃弾が肉体を貫くことはなかった。バリーが貴族の頂点に近づけたのは「被弾しなかった人生」の上に成り立っている。

しかし、バリーが社会階級の最上階に触れたあと、その地位を失う原因となるのは “自ら浴びた銃弾” である。なぜバリーは、義息ブリンドンに銃を撃たせたのか?

若いバリーは、行き当たりばったりで行動しながらも、不思議なほど “死だけは避ける”才能 に恵まれていた。戦争では、戦術でも勇敢さでもなく、ただ“運”と“その場しのぎ”で生き残る。この生存は、「自分にはまだ何かがある」 という幻想を与える。

その幻想が、詐欺へ、賭博へ、貴族への上昇へと導いていく。実態のない空気の階段を、運だけで登っていくような生き方だ。

手にしたものはどれも仮のもので、それでも一瞬、眼前には スコットランドの貴族の青空(=虚空) が広がる。バリーは中身を持たないゆえに“空”を持てた男だった。

しかし、成功した瞬間、「銃弾を避ける理由」を失った。バリーが求めたものは、愛でも誇りでもなく、ただ 「自分が何者かになれる場所」。しかし、貴族の生活に入ったとき、悟り始める。自分には、教養もない。貴族としての誇りもない。構築してきた人生の支柱もない。上に登り切った瞬間、自分の空虚さしか見えなくなる。

成功したあと、バリーは初めて “生き残る意味の喪失” と向き合わされる。銃弾を避けてきた理由が、もうどこにもなかった。

物語の終盤、ブリンドン子爵に決闘を挑まれたとき、バリーは相手を倒すことができた。経験がある。蛮勇もある。運もまだ残っている。

それでも、あえて引き金を引かず、自ら無防備になり、銃弾を受ける道を選ぶ。これは衝動ではない。むしろ、人生で初めての“能動的な選択”だった。

バリーは気づいた。自分が歩んできた上昇の階段は、運に押し上げられただけの、中身のない仮設の高台だったと。そこに居続ける理由は、もうどこにもない。銃弾を受けるとは、「バリー・リンドン」という偽名を終わらせる行為だった。

バリーは貴族から落ちていくのではなく、自分で降りていった。銃弾を受け、左脚を失い、決闘相手からの年金と交換で国を去る。この結末は「失脚」ではない。

自身が架空の階級から降り、レドモンド・バリーという出発点に戻るための道だ。ようやく、自分の本当の場所を選んだ。貴族の空は借り物で、アイルランドの虚空こそが、本当に自分の頭上にあった空だった。

貴族という虚像から離れたとき、初めてバリーは、虚空の本当の意味を知る。それは「何も持たないこと」ではなく、「自分の名前で立つこと」

バリーは“負けた”のではなく、“戻った”のだ。多くの人物は成功を目指して生きるが、成功が自分を壊すと気づいている者はほとんどいない。

バリーは偶然によって階段を登った。そして最後は、自分の意志で階段を降りた。撃たれた瞬間は、敗北ではなく、「生涯で初めて、自分の人生に責任を持った瞬間」でもある。銃弾を受けることで、バリーは初めて“自分の重さ”を手に入れた。

過剰な虚飾もなく、借り物の称号もなく、レドモンド・バリーとして呼吸できる生を選んだ。

なぜバリーは自ら銃弾を受けたのか?それは、手にしてきたものすべてが「避けた銃弾の上に築かれた偽りの人生」だと悟ったからだ。そして、銃弾を受けることによってしか、自分の人生を“自分のもの”として取り戻すことができなかったからだ。

銃弾は、身を滅ぼすのではなく、レドモンド・バリーという本当の名前へ帰すための扉となった。

バリーは人生の最後に、虚空のスコットランドを捨て、虚空のアイルランドへと帰っていった。そこには、初めて自分で選んだ空が広がっている。

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