
『トラック野郎・天下御免』は、1976年12月25日に公開された東映製作・配給の日本映画。「トラック野郎シリーズ」第4作で、主演は菅原文太、相棒は愛川欽也。配給収入12億8197万円を記録し、シリーズ第2作『爆走一番星』に次ぐ大ヒットとなった。
奥入瀬橋の開通式を排気ガスでぶち壊すような乱暴な幕開けから、舞台は四国、倉敷、宇和島、境港、京都へと広がる。桃次郎は巡礼姿の和歌子(由美かおる)に一目惚れし、ジョナサンは同じ相手をめぐって見栄を張り、さらに養女話や家出騒動まで抱え込む。そこへ、子を抱えた女、行方知れずの夫、借金、病、そして時間厳守の荷運びが重なり、いつもの恋騒ぎはいつしか「誰を幸せにするために走るのか」という話に変わっていく。
スタッフ
監督:鈴木則文
脚本:鈴木則文、中島信昭
音楽:木下忠司
撮影:仲沢半次郎
製作・配給:東映
公開:1976年12月25日
上映時間:105分
ロケ地は愛媛県、岡山県、京都府、埼玉県、千葉県、東京都、鳥取県、島根県。由美かおるが演じる和歌子は、当初は空中ブランコの美少女という設定だったが、美大出身のデザイナーへ変更され、それに伴って作品内容や題名も練り直された。
キャスト
星桃次郎(一番星):菅原文太
松下金造(やもめのジョナサン):愛川欽也
我妻和歌子:由美かおる
坂口千津:松原智恵子
須田雅美:マッハ文朱
須田勘太(コリーダ):杉浦直樹
伊沢正和:誠直也
松下君江:春川ますみ
亀頭姫代:京唄子
亀頭黒光:鳳啓助
あらすじ
奥入瀬橋の開通式で、桃次郎とジョナサンは長広舌の代議士を尻目に一番乗りを決め、四国へ向かう。道中、桃次郎はコンクリートミキサー車軍団と揉め、さらに寺で出会った巡礼姿の和歌子に一目惚れする。一方ジョナサンも、巡礼中の母娘を同乗させたことから和歌子に心を寄せ、独身と嘘までついてしまう。
倉敷のドライブイン「かざぐるま」では、サヤ子の養女話が持ち上がり、松下家は揺れる。桃次郎はワッパ勝負の最中に産気づいた千津を助け、彼女の娘に「桃子」と名をつける。やがて千津は「かざぐるま」で働き始め、和歌子もまたそこに身を寄せる。ジョナサンは運送会社勤めに変わり、家では和歌子との写真が原因で君江と子どもたちが家出する騒ぎになる。
桃次郎は和歌子に思いを伝えようとするが、手紙は千津に渡り、ラジオから流れる思いも勘違いを生む。さらに和歌子には先輩の伊沢がおり、母の借金問題も抱えていた。桃次郎は闘牛で得た配当金を手にしながらも、和歌子の幸せを思って身を引く。
その頃、千津の夫・松男が事故で入院していることが判明。彼が請け負っていた「境港から京都へ20トンの荷を運ぶ」仕事を、信用のために誰かが引き受けねばならない。桃次郎は千津を説得し、境港へ飛ばし、荷と母子を乗せて京都へ向かう。最後に坂口一家の再会を見届けた桃次郎とジョナサンは、雪の中へ何も言わず去っていく。
映画レビュー:天下御免とは、好き勝手に生きる免罪符ではない

『天下御免』という題を聞くと、何でもありの痛快編に思える。実際、桃次郎たちは開通式を台無しにし、喧嘩をし、恋に暴走し、勘違いを重ね、騒動を撒き散らす。見た目だけなら、自由気ままな連中の大騒ぎだ。だが、この映画が本当に見せるのは、「勝手に生きる」ことの陽気さではなく、「勝手に生きていれば済まない瞬間」の重さだ。
桃次郎は相変わらず一目惚れの人である。和歌子を見た瞬間に世界が狭くなり、そこへ一直線に走る。今回は、その一直線がことごとくズレる。手紙は届かず、ラジオの声は別人に重なり、相手の事情も読み違える。思いは本物なのに、伝わり方はどんどん間違っていく。この映画はそこが面白い。人の気持ちは真剣であればあるほど、案外まっすぐには届かない。
しかも桃次郎の周囲には、もっと切実な現実がいくつもある。子を抱えた千津、行方不明だった夫、借金を抱える和歌子の家、養女に出されそうになるサヤ子、家出するジョナサン一家。恋は大事だが、恋だけでは世界は回らない。だから桃次郎の恋心は、だんだん自分の願いではなく「相手にとって何がましなのか」を見る目に変わっていく。
ジョナサンの存在も重要だ。いつも調子が良くて、見栄を張って、余計なことを言う。今回はその軽さが家族の痛みに直結する。和歌子に「独身」と嘘をつき、写真一枚で家が揺らぐ。ここで見えてくるのは、家族というものが、立派な理屈で支えられているのではないということだ。むしろ、小さな嘘や、ちょっとした寂しさや、土産の配り方のような細部で崩れたり戻ったりする。暮らしは案外、些細なことでできている。
千津の存在は、この映画に別の深さを与えている。彼女はただ守られるだけの人ではない。出産し、働き、夫を待ち、誤って届いた手紙に揺れながら、それでも前に立とうとする。和歌子のような理想だけではなく、千津のように生活の重みを抱えた人の前で、桃次郎は初めて少し大人になる。好きだという感情と、放っておけないという感情は似ているが違う。その違いを、この映画の桃次郎はなんとなく知り始めている。
終盤の境港から京都への輸送は、シリーズ定番の爆走場面でありながら、今回は特に「誰かの生活をつなぐ」意味が強い。運ぶのは単なる荷ではない。松男の信用であり、千津と子どもの先の時間であり、壊れかけた家族をもう一度つなぐための猶予だ。桃次郎は、自分の恋を叶えるためではなく、他人の関係を間に合わせるために走る。ここに、この作品の静かな成熟がある。
闘牛の配当金をそっと置いていくラスト。あれは気前の良さの誇示ではない。感謝されたいからでもない。むしろ、顔を合わせたままでは渡せないから置いていくのだ。人を助けるというのは、ときに目立たない形が本物になる。去っていく二人の後に残るのが、雪の上のタイヤの跡だけというのも、そのことをよく表している。
『天下御免』は、自由奔放な看板を掲げながら、「人はどこまで自分勝手でいられるのか」を問い続ける映画だ。桃次郎たちは好き勝手に見える。だが本当に好き勝手なら、最後に他人の荷も、他人の借金も、他人の家族も背負わない。トラック野郎たちが魅力的なのは、無茶苦茶なまま、最後の最後で他人の事情を引き受けてしまうからだ。
天下御免とは、何をしても許されることではない。むしろ、傷ついたり間違えたりしながら、それでも最後は自分の足で責任のある方へ向かうこと。桃次郎はまた恋に敗れる。だが、敗れたままで終わらない。雪道に残るタイヤ痕のように、その生き方は派手なわりに、どこか静かに人の胸に残る。
