シネマの流星

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『男はつらいよ 葛飾立志篇』〜知と愛のはざまで、 寅さんの未遂の立志

『男はつらいよ 葛飾立志篇』

『男はつらいよ 葛飾立志篇』は、1975年公開の日本映画。山田洋次監督によるシリーズ第16作。寅さんが「学ぶこと」を通じて自己像を問い直す異色作であり、「勉強するのは己を知るため」という寅さんの名言が飛び出す。若き順子(桜田淳子)との出会い、そして大学助手の礼子(樫山文枝)との恋を通じ、寅さんは「知」と「愛」のあわいに立つ。第5~7作で用いられた「〇〇篇」という副題が復活したが本作が最後となった。

スタッフ

監督:山田洋次
脚本:山田洋次、朝間義隆
製作:島津清、名島徹
音楽:山本直純
撮影:高羽哲夫
編集:石井巌
配給:松竹
公開:1975年12月27日/97分

キャスト

車寅次郎:渥美清
筧礼子:樫山文枝
田所雄介:小林桂樹
最上順子:桜田淳子
諏訪さくら:倍賞千恵子
車竜造:下條正巳
車つね:三崎千恵子
諏訪博:前田吟
御前様:笠智衆
住職:大滝秀治

あらすじ

『男はつらいよ 葛飾立志篇』

旅先で世話をした女性・お雪の娘、順子が寅さんを訪ねてくる。母を失った彼女の姿に胸を打たれた寅さんは、お雪の墓を訪ね、住職から「学がなければ己を知ることもできない」という教えを受ける。葛飾に戻った寅さんは、御前様の姪で考古学助手の礼子と出会い、恋心を抱く。学のない自分を変えようとするが、やがて礼子は師である田所教授からの想いを受け取る。寅さんは「学問がないから何もしてやれない」と悔いながら、礼子の幸福を祈りつつ旅立つ。礼子は田所の告白を断っていたが、寅さんはすでに旅の空の人となっていた。

ロケ地

山形県寒河江市(慈恩寺、お雪の墓)

上山市(かみのやま温泉)、大江町(深沢渡船場)

東京都文京区(東京大学弥生キャンパス)、葛飾区(金町すずらん通り)

静岡県沼津市(西浦足保・用心崎)

映画レビュー:『男はつらいよ 葛飾立志篇』

『男はつらいよ 葛飾立志篇』

『葛飾立志篇』は、寅さんが初めて「学び」を真正面から意識する一篇である。「己を知る」という言葉は、寅さんにとって哲学的命題となる。これまで寅さんは笑わせ、世話を焼き、そして去ることで自分を保ってきた。しかし礼子に惹かれた寅さんは、その自己像を越えて「選ばれる男」になろうと試みる。だがそれは、結局は未遂に終わる。

ここで問われるのは「知とは何か」という問題である。礼子の語る考古学も、田所の豊かな知識も、寅さんにとっては遠い世界に見える。だが寅さんの口上に礼子が心を動かされる場面は、「知は形式や学歴に宿るのではなく、生きられる言葉に宿る」という逆説を提示する。寅さんは学問を知らないが、人の心を動かす知を持っている。にもかかわらず、自らを「学のない者」として退けるのは、自己の限界を自覚する誠実さゆえである。

『葛飾立志篇』は、寅さんが「努力によって相手にふさわしい男になろう」とする、シリーズでも稀有な一篇である。これまでの寅さんは、ありのままの自分を笑いに変え、世話を焼き、そして去ることで恋に破れてきた。だが今回は違う。礼子に惹かれた寅さんは、彼女に見合うために“学ぶ”という行為に挑もうとする。そこに、恋をきっかけに人は変わろうとする、普遍的な人間の欲求が描かれている。

しかし、その努力が実を結ぶ前に物語は思わぬ転機を迎える。礼子が田所教授からの求愛を受けたことを、寅さんは「結婚が決まった」と勘違いしてしまう。自分を卑下して退いたのではなく、状況を取り違えて勝手に身を引いてしまう。この早合点こそが、寅さんという男の不器用さであり、本作の特徴である。「告白する前に引いてしまう」ことで、恋の可能性そのものを閉ざしてしまう。

興味深いのは、寅さんだけでなく、田所教授もまた礼子にフラれる点である。知識も地位も備えた学者も、愛の前では寅さんと同じ“敗者”となる。立場も学歴も異なる二人が、結果的に同じ場所に立たされる。この並列が示すのは、恋愛における勝敗は学問や努力の有無では測れないという真理である。

勉強しようと眼鏡をかけ、礼子の言葉に一喜一憂する寅さんの姿は、滑稽でありながら人間の成長の切実さを映し出す。結局、恋は実らない。だが、その過程で寅さんが見せた「変わろうとする意志」こそが、人間としての立志なのである。

ラストで田所と共に旅に出る寅さんの姿は、敗北者の孤独ではなく、不器用に愛に敗れた者同士の奇妙な連帯である。『葛飾立志篇』は、恋に敗れながらも、人は努力し、勘違いし、傷つき、それでも歩みを続ける存在であることを、ユーモラスかつ哲学的に描き出している。

マドンナ・樫山文枝(筧礼子)の魅力

『男はつらいよ 葛飾立志篇』

樫山文枝が演じる礼子は、学問を背負う女性でありながら、人の言葉に耳を澄ます温かさを持つ。知の世界に生きながら、寅さんの口上に感銘を受ける姿は、学問と生活が交差する地点を体現する。彼女の魅力は「知的でありながら、人間的に揺れる」点にある。田所教授のプロポーズの詩に迷い、寅さんに心を開きながらも、自らの人生を冷静に選びとる。その姿は、知と愛のあいだで揺れる人間の普遍的な葛藤を映している。

礼子は、寅さんを救わず、寅さんに救われることもない。だが彼女が存在したことで、寅さんは「学ぶこと」「愛すること」を改めて問い直す。その意味で礼子は、恋の相手である以上に、寅さんの哲学を深めた存在であった。

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