
『血煙高田の馬場』は、1937年に公開された日本映画。監督はマキノ正博。主演は阪東妻三郎。忠臣蔵のエピソードで有名な「高田馬場の決闘」を題材にしている。第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)、51分に短縮され、『決闘高田の馬場』として再公開された。史実の決闘場は、現在の高田馬場ではなく西早稲田である。
スタッフ
- 監督:マキノ正博(共同名義:稲垣浩)
- 脚本:牧陶三
- 原作:牧陶三
- 音楽:高橋半
- 撮影:三井六三郎、石本秀雄
- 製作:日活京都撮影所
- 配給:日活
- 公開:1937年12月31日
- 上映時間:57分(再公開版51分)
※1952年に『決闘高田の馬場』として短縮再公開された。
本作の全撮影日数は7日。12月31日に、大阪千日前の常盤座を筆頭に、正月興行作品として公開された。
キャスト

- 中山安兵衛:阪東妻三郎
- 大工の熊公:市川百々之助
- 八卦屋の天眼:伊庭駿三郎
- 講釈師・楽々亭貞山:志村喬
- 菅野六郎左衛門:香川良介
- 若党・武助:市川正二郎
- 堀部弥兵衛:藤川三之祐
- 小野寺十内:久米譲
撮影前日、マキノは阪東妻三郎を宮川町のホールに連れて行き、ジャズのレコードをかけてダンスを踊り、翌日の本番ではジャズのノリで撮影をした。アクションシーンの疲労から阪東妻三郎は、「二度と高田の馬場はやらん」と宣言していた。
史実での中山安兵衛は24歳で、36歳の阪妻が演じている。実際は決闘に遅れておらず、最初から助太刀している。八丁堀から西早稲田まで疾走するのは講談による脚色である。
あらすじ

元禄七年の江戸。八丁堀の長屋に暮らす中山安兵衛は、酒と喧嘩を好む気風のいい浪人だ。長屋の人々からは「先生」と慕われる一方、唯一頭が上がらないのが叔父・菅野六郎左衛門である。
ある因縁から、菅野は村上庄左衛門との果し合いを、高田馬場で行うことになる。当日、菅野は安兵衛を訪ねるが、安兵衛は酒と喧嘩に明け暮れ、家にいない。刻限が迫り、菅野は書き置きを残して単身、決闘の場へ向かう。
やがて帰宅した安兵衛は、長屋の人々に促されて書き置きを読み、事の次第を知る。血相を変えた安兵衛は、高田馬場へ向かって全力で走り出す。長屋の住人たちも、幟を掲げてその後を追う。
だが、安兵衛が到着したとき、叔父はすでに多勢に無勢で斬られ、瀕死の状態だった。怒りと悔恨に駆られた安兵衛は、村上一味十八人を斬り伏せる。喝采を浴びる中、安兵衛は叔父に駆け寄るが、すでに息はない。勝利の歓声の中で、安兵衛だけが立ち尽くす。

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映画レビュー:走った先に、何が残るのか

『血煙高田の馬場』は、仇討ちの物語である前に、「走る男」を描いた映画である。阪東妻三郎が全力で走る。ただそれだけの行為が、これほどまでに観る者の心を掴んで離さない映画は、『ロッキー』だけであり、阪妻とスタローンの他にはいない。
中山安兵衛は、悲壮な英雄ではない。酒を飲み、笑い、喧嘩をし、長屋の中で人に囲まれて生きている。軽やかで、血の気が多く、楽天的だ。その身体には、若さと生命力が溢れている。
高田の馬場へ向かう安兵衛の走りは、説明も心理描写もない。ただ、前へ、前へと進む身体があるだけだ。その走りは単なる疾走ではない。未来を変えようとする衝動と、すでに遅れているかもしれないという不安が、同時に足に宿っている。
観客は安兵衛を応援しながら、同時に「間に合わないかもしれない」という予感も抱いている。その二重の感情が、走りを美しく、そして異様なほどスリリングなものにしている。
史実は残酷だ。安兵衛は、間に合わない。だからこそ、この映画は仇討ちのカタルシスに安住しない。映画としての快楽は、ここから加速する。
十八人斬りの場面で、阪妻の身体は解き放たれる。斬る、跳ぶ、かわす、回る。その一連の動きは、現実の殺し合いというよりも、舞踏そのもの。音楽のようにリズムを刻み、観客は否応なく高揚する。ここにあるのは、悲劇の重さではなく、映画ならではの爽快さだ。殺陣は暴力というより“見世物”として輝く。
この瞬間、観る者は安兵衛の悔恨ではなく、阪東妻三郎という俳優の肉体美と運動性に惚れ惚れする。史実の悲しさを知っていても、なお目が離せない。ここに、時代劇映画の残酷な魅力がある。
しかし、映画はそのまま酔わせ続けない。斬り終えたあと、静かに現実を突きつける。叔父は、すでに死んでいる。どれほど鮮やかに勝っても、時間だけは戻らない。
安兵衛は勝者だが、英雄ではない。最後の立ち姿に、達成感はない。あるのは、怒りでも虚無でもない、もっと鈍く、重たい感情だ。「間に合わなかった」という事実を、そのまま引き受ける沈黙である。
この映画は、仇討ちを肯定もしなければ否定もしない。ただ、走った先に人が何を得て、何を失うのかを、黙って差し出す。
安兵衛は走った。走る姿は、今なお美しく、爽快で、観る者の胸を打つ。走ったからこそ、背負うものが生まれた。「人が全力で走り、全力で斬る姿が、これほどまでに気持ちいい」という事実を、疑いなく提示する。
『血煙高田の馬場』は、走ることの快楽と、走っても届かない現実を、同時に刻みつける映画である。だからこそ、阪妻の走りと殺陣、その果ての血煙は、今も観る者の胸の奥に鮮やかに残り続ける。

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