
『すずめの戸締まり』は、2022年に公開された新海誠監督の長編アニメーション映画。『君の名は。』(2016)、『天気の子』(2019)に続く新海誠の監督作であり、喪失と再生をテーマにした壮大なロードムービー。『星を追う子ども』(2011年)以来の女性を主人公とした映画となっている。
スタッフ
- 監督・脚本・原作:新海誠
- キャラクターデザイン:田中将賀
- 作画監督:土屋堅一
- 美術監督:丹治匠
- 音楽:RADWIMPS、陣内一真
- 声の出演:原菜乃華、松村北斗、深津絵里、染谷将太
- 制作:コミックス・ウェーブ・フィルム
- 配給:東宝
- 公開:2022年11月11日
- 上映時間:122分
あらすじ
九州の静かな町に暮らす17歳の少女・岩戸鈴芽(すずめ)。ある日、彼女は「扉を探している」という不思議な青年・宗像草太と出会う。彼を追って山奥へ向かったすずめは、廃墟にぽつんと佇む古い扉を見つける。扉の向こうには、かつて見たことのない異世界が広がっていた。
しかし、扉は“災い”を呼び寄せる存在。日本各地には、未だ開いたままの扉が点在しており、それらを閉じなければ大地震を引き起こしてしまう。ひょんなことから草太が椅子の姿になってしまい、すずめは彼と共に“戸締まりの旅”へと出る。
- 鈴芽が「家族」を知る旅
- 姉としての海部千果
- 母性を宿す二ノ宮ルミ
- 未だ見ぬ父としての宗像羊朗
- 過去をつなぐ兄の芹澤朋也
- 現世と常世を抱える岩戸環
- ダイジンに込めた地震との向き合い方
- 草太を三脚の椅子に変えた理由
- 鈴芽が救済に目覚めるきっかけ
- 戸締りが意味する災い(誹謗中傷)
- 新海誠が開いた新たな扉
- 鈴芽の分身として描く草太
- 初めて描いた登山の構図
- 最も重要な登頂の地・神戸
- 新海誠がタイトルに込めた意味
映画レビュー
新海誠のデビュー20周年、劇場第8作『すずめの戸締まり』
作品のメインカラーをブルーにし、『君の名は。』『天気の子』に続く"青の時代"の三部作を創り上げた。新海誠は前前前作の『言の葉の庭』を最後に、作品のカラーを寒色の青で統一している。
それまでは桜色、茜色、新緑など暖色が多かったがカラーを一変。しかも今回は扉を水面に浮かび上がらせ、アクアブルーも盛り込み、より青を強調している。前作『天気の子』で空と海はひとつであると描いた続編を思わせる。
『すずめの戸締り』は、『君の名は。』『天気の子』と並び、世阿弥が提唱した「序破急」のように大きく飛躍する完結作。このトリロージ(3部作)は、新海誠の「青の時代」シリーズである。
鈴芽が「家族」を知る旅

『すずめの戸締まり』は17歳の岩戸鈴芽が宮崎を飛び出し、故郷の岩手まで日本を北上する。そこで鈴芽が4歳の自分(すずめ)を救い、自分を乗り越える物語。主人公の名前「鈴芽」に関して、Twitterスペースで監督本人が語っていたのは「誰でも知っている名前にしようと思った」。候補にはツバメなどもあったらしい。
新海誠の映画の中で、鳥は重要なキャラとして使われている。
『秒速5センチメートル』ではアカゲラに貴樹の想いを託し、『星を追う子ども』ではツバメが明日菜に生命の儚さを教え、『言の葉の庭』ではセキレイによって孝雄と雪野の想いの並走を表現した。
姉としての海部千果

宮崎を脱出した鈴芽が最初に降り立つ地が愛媛。ここで出逢うのが海部千果。鈴芽と同じ高校2年生、親友のような存在として描かれる。

化粧をしない鈴芽と反対に、リップをつけた千果には付き合いはじめた彼氏がおり、すぐにひと気のない場所に連れ込もうとする男の下心に嫌気がさしている。

恋愛経験のない鈴芽に、キスすることで好きな人(草太)を目覚めさせると指南。千果は鈴芽の自転車より一歩大人に近づくバイクの免許を持っている。千果すでに働いている。親友というより姉としての存在感が濃い。

千果は鈴芽の過去や環境を詮索しない。自分の眼で見た鈴芽で判断し、その背中を押す。愛媛で経験した千果の応援が、やがて自分を救う行為への助走となる。

ふたりを結ぶきっかけが蜜柑。新海誠は食べものに「結び」を宿す。前作『天気の子』ではマクドナルドが帆高と陽菜を結んだ。食欲を失った草太の代わりに、食べものが鈴芽と草太の旅を救う。この構図は「喪失は新たな出逢いである」という新海誠の人生観が反映されている。食べものは体内に受け入れることであり、同じ飯を食べることは、相手とつながること。食べものによる結びは、次の街・神戸でさらに色濃く描かれる。
母性を宿す二ノ宮ルミ

次なる場所・神戸に鈴芽を導くのが二ノ宮ルミ。千果と鈴芽を結んだのは食べもの(ミカン)だったが、ルミは前作と同じマクドナルド。そして、ルミと鈴芽を結ぶのは雨。
『彼女と彼女の猫』でチョビと彼女を結んだのが雨だったように、新海誠は雨を愛する。『言の葉の庭』では孝雄と雪野を、『天気の子』では帆高と陽菜を結ぶ赤い糸として雨を描いた。
鈴芽と草太が後ろ戸を閉じたあとは必ず雨が降る。『君の名は。』で彗星が落ちた場所に雨が降って糸守湖ができたように雨は生命の母。
ルミは双子の子どもを抱え、シングルマザーとして生きる。鈴芽の母・椿芽と同じ境遇。愛媛の千果は「姉」で、ルミは鈴芽の「母」ルミによって鈴芽は「母性」を宿す。双子の世話をすることで母親としての仕事を知る。鈴芽に対し、ルミは焼うどんを振る舞う。鈴芽の故郷・岩手の郷土料理であり、母・椿芽との想い出の味。ポテトサラダをのせ、おふくろの味を再現してあげる。ルミはスナックの「ママ」であり、鈴芽は夜の仕事を通して飲んだくれの世話をすることで母性を知る。

新海誠は衣装に重要な意味を込める。千果は旅立つ鈴芽に、過去に来ていた服を託した。姉(千果)から妹(鈴芽)へのお下がりであり、故郷から抜けられない自分の代わりに、広い世界を見てもらうことを託す。
ルミ(母)も娘(鈴芽)にスポーツキャップを渡す。帽子は頭を”守る”母性の証。その後、皇居の地下の扉を閉じたあと、鈴芽は再び制服に着替える。髪型も宮崎と同じポニーテール。もとの場所(故郷)へ還っていく。鈴芽は草太の白い外套を羽織って宮崎に帰るが、看護師(ナース)の制服を暗喩したもの。

最も重要な衣装が「靴」。学生靴を捨てた鈴芽は、サイズが合わないブカブカの草太の靴を履く。『言の葉の庭』で描かれたように、靴は一歩を踏み出し、今の自分を超えるためのもの。愛媛の廃校では、使われなくなった靴が出てきたが、今作で靴のアップが非常に多い。
宮崎の廃墟(上之浦)や愛媛、神戸でハードル走のように通行止めを飛び越え、御茶ノ水で聖橋を飛び越える。
「自分を超えていく」象徴。鈴芽の旅はジャンプして乗り越える旅なのだ。
未だ見ぬ父としての宗像羊朗

新海誠は父と娘を描くことが多い。自身が娘を持つ父として新海作品は「父性」が鍵を握る。
神戸を発った鈴芽が向かったのは東京。ここで出逢うのが宗像羊朗。草太の育ての親であり、鈴芽が地震で椅子の脚を失ったように、羊朗も閉じ師の仕事によって右腕を失っている。草太は宮崎で鈴芽に「見たことを忘れろ」と言い、愛媛で「怖くないのか?」と訊いた。
同じく羊朗も鈴芽に「怖くないのか?」と問う。かつて地震で母を失った鈴芽は、自分が死ぬことよりも再び大切な人(草太)を失うほうが怖いと、自分の意志を確認する。
そして再度「これまでのことを忘れなさい」と言う羊朗に対しても、「忘れられるわけない」と抗うことで、鈴芽が過去の喪失から逃げず、未来へ向かうことを再確認する。
羊は「未」とも書くが、羊朗によって鈴芽は未だ見ぬ自分の内側をのぞく。その意志が4歳のすずめにかけるメッセージにつながる。鈴芽の意志の強さによって、羊朗も勇気と大切なひとを想う心を思い出す。父は娘に育てられる。
過去をつなぐ兄の芹澤朋也

鈴芽を草太のもとへ導く芹澤朋也は兄のような存在。オープンカーは扉を閉じる物語とコントラスト。芹澤が右手に巻いている紐のアクセサリーは鈴芽の赤いリボンとリンクしている。
芹澤は「忘れていく人々」と反対に、過去を覚えている。オールディーズの音楽、草太に2万円を貸したこと(実際は借りている)を忘れない。鈴芽を旅のゴールに導くことで、借金の代わりに草太に「お返し申す」をする。鈴芽は一時的に草太を失うが、喪失によって別の出逢いがある。芹澤を通して、新海誠は喪失の意味を再燃している。

新海誠の作品で魂と運命を託すのが乗り物。主人公を援護射撃し、推進させる。千果の単車は『天気の子』の夏美のカブであり、叔母の環の自転車は『君の名は。』のテッシー、そして二ノ宮ルミの車は、ゆりかごとして初登場する。4歳で母を亡くした鈴芽にとって、ルミの車は母親の抱擁、胎内。広い世界を開いてあげる兄の芹澤はオープンカー。鈴芽は芹澤の助手席ではなく後部座席に座る。隣ではなくクロス。男女は足し算ではなく掛け算なのだ。
鈴芽は旅先で姉、母、父、兄を知った。だから4歳のすずめに「ちゃんと大人になる」と声をかけられた。現実の世界で家族をなくしても、人生という旅の中で新たな家族に出逢えることを知ったから。
オープニングで鈴芽が目覚めたとき、部屋には2羽の黄色い蝶が飛んでいる。4歳のすずめの絵日記の表紙にいた蝶。2羽は鈴芽の両親であり、たとえ亡くなったとしても家族は永遠に鈴芽を見守り続けている。
『星を追う子ども』では「喪失を知る旅」を描き、今作は「再生」を前面に押し出した。地震を喪失(破壊)、その後の生活や旅を再生(創造)として描いていている。
現世と常世を抱える岩戸環

『天気の子』に須賀圭介がいたように新海誠は過去と現在を複雑に抱える人物を登場させ、物語に深淵のスパイスを加える。『すずめの戸締り』では鈴芽の叔母にあたる岩戸環。姉・椿芽と同じく岩手県の出身で、なんらかの理由で宮崎に引っ越した。言葉も完全な宮崎弁で故郷を捨てている。しかし、鈴芽が4歳で地震を経験したことで環の運命は大きく変わる。直接、地震を経験した鈴芽以上に。

環は母親代わりになろうとするが、鈴芽にとっては叔母のまま。常世(喪失)と現世(思い通りにならない現実)を抱えたジレンマは環を支配する。新しい環境への順応が得意なはずなのに、鈴芽に依存することで己に呪縛をかけてしまう。
環は鈴芽の心を見ようとしない。見るのが怖いといったほうが正確だろう。鈴芽は環が思うよりずっと強靭で豊穣な心を持っている。環もそれを感じながら、どうしても過去が障壁となり、触れたら壊れてしまうのではないかと踏み込めない。だから鈴芽が旅をするにも信用できず、その真意を見守ろうとせず、自分の手が届く範疇に囲おうとする。環という名は「環状」の意味がある。自分の輪の中に鈴芽がいないと不安になる。地震によって芽生えた鈴芽を守られなければという母性によって、皮肉にも子どもに盲目な大人に変貌してしまった。

『天気の子』の須賀に通ずる。だが大人になった環も須賀も、最後は鈴芽や帆高と真剣に向き合うことで子どもに還っていく。サン=テグジュペリの『星の王子さま』が、大人に染まってしまった大人に向けた文学であったように、新海誠もかつて子どもだったことを忘れている大人に強烈なアイロニー(皮肉)を発している。
ダイジンに込めた地震との向き合い方

11月11日の初日公開のあと、深夜2時1分に、TOHOシネマズ新宿で新海誠のサプライズ挨拶があった。普通ならプレッシャーから解放されイキイキとした表情になるはずが、無事に公開を迎えた監督とは思えない心痛な面持ちだった。テーマがテーマだけに、相当の重圧を背負ったのは間違いない。

鈴芽を後ろ戸に導く招き猫のダイジンは、過去の閉じ師の子どもが要石になったもの。『天気の子』の人柱。拙い言葉をしゃべるのは、かつて幼児だったからだろう。
鈴芽と同じく幼少に親(おそらくサダイジン)と別れ、鈴芽から「うちの子にならない?」と声をかけてもらったことで自由を得て世界へ飛び出す。
要石から解放されても閉じ師としての本能、宿命は消せない。だから鈴芽を後ろ戸に導いた。もうひとつは、東京で親(サダイジン)を救うため、草太を東京に戻そうとする。サダイジンを要石に戻したのは羊朗。ダイジンが草太を毛嫌いするのは、人柱にならず各地を回り続ける閉じ師だから。

ダイジンは主人公の女性を見守る点で『彼女と彼女の猫』のチョビ。『星を追う子ども』のミミ。つまり新海誠自身でもある。新海誠は女性を主人公にした2作品で、猫が女性の孤独を温め寄り添う役割を果たしてきた。フランスの画家バルテュスが、絵画の多くに自己の分身として猫を登場させたように、新海誠も自分を作品に登場させる。
また、会話の断絶が起きていた鈴芽と環の関係にサダイジンが入ることで溜めていた本音をぶつけ合い、互いの心に近づく。猫は人と人を結ぶ。
草太を三脚の椅子に変えた理由

今作では三脚の椅子によって3つが支え合う構図が描かれる。鈴芽、草太、4歳のすずめ。過去、現在、未来。三脚の椅子はすべての時間が溶け合う常世、すなわち死(喪失)の暗喩でもある。
ダイジンが草太を椅子に変えたのは、鈴芽の母・椿芽の化身だから。見すぼらしい痩せ猫の自分を鈴芽は見捨てなかったように、椅子としての機能を失った三脚の椅子を鈴芽は捨てずに取っておいた。一本の脚を失くしても母の想いが鈴芽に寄り添い、鈴芽の12年間を支えた。

その役割を草太に受け継いだ。ダイジンは鈴芽の愛を欲していたが、鈴芽の旅を支えるのは草太であることを察知していた。
もうひとつは「断捨離」。鈴芽が捨てずに大事にしているからこそ、新しい生活を始めるために過去を断捨離しようとした。動機は鈴芽を独占したいからだが、結果的に鈴芽が過去を乗り越えることに一役買う。
鈴芽が救済に目覚めるきっかけ

ダイジンがなによりも重要な意味を持つのは、新海誠と地震への向き合い方を投影しているからである。
鈴芽が最初に救済するのがダイジン。そのことで草太は要石になり各地に地震が起きるが、ダイジンを救ったからこそ、鈴芽は誰かを救うことを覚えた。そして最後に過去の自分を救うことができた。

新海誠は地震を完全な悪と描かず、人間が受け入れるべき存在として描いた。喪失は新たなものを生み出す母でもある。死者にとって地震は忌まわしいものだが、生き残った人間には新たな人生を開く扉でもある。人は自然を受け入れながら生きる。それこそが我々がこの世に生を受けた意味であり、新海誠は可愛いキャラクターに重要な意味を託した。
三脚の椅子は本来は動かないもの。しかし、意志があれば人生は動かせる。椅子は座るもの。しかし、今作の椅子は動く。失くした1本の脚(母)は、より大きな存在に生まれ変わる。喪失はマイナスではなく、大きく飛躍するための屈伸。
戸締りが意味する災い(誹謗中傷)

新海誠のような時代のトップランナーは、時代劇を作ろうと無意識に現代と未来を投影してしまう。『君の名は。』の男女の入れ替わりはジェンダーレスに向かう世界を、『天気の子』では豪雨の令和を予言した。
『すずめの戸締り』のダイジンはSNSと密接に関わっている。愛らしいダイジンの姿を世の中の人々はSNSに投稿する。今作で描かれる災いとは誹謗中傷の暗喩。常世は死後の世界であり、ヘイトが渦巻くSNSのネガティブな世界。扉を閉じる行為は誹謗中傷の口を塞ぐこと。安直な批判を自粛することを示唆している。
ミミズは誹謗中傷の塊であり、地震と同じく人間を殺める。言論の自由が叫ばれ、誰もが安全なところから物を言えてしまう時代からこそ、『すずめの戸締まり』はその口を閉じる意味を問うている。
遠くから物を言う象徴として登場するのが鈴芽の叔母である岩戸環。故郷を飛び出した鈴芽をLINEや電話のリモートで非難する。初対面の芹澤を「警察呼ぶわよ」と決めつけるのも誹謗中傷。環は鈴芽を心配しているが、鈴芽の心は見ていない。愛情の裏返しから、自分の範疇に収めようとする。

フェリーに乗った鈴芽が未だ見ぬ世界へ憧れるのは、環の束縛から解放された喜びである。これは『天気の子』の帆高と同じ。環は自身も宮崎を飛び出し、ふたりは旅を通して互いに近づき、東北のサービスエリアでは本音をぶつけ合い、コミニュケーションの本質を取り戻す。

環に恋心を抱く岡部稔もリモートでバスのチケットを取り、行動を抑止しようとする。遠くから人を動かそうとする現代性。稔は夫婦のごとく環と行動が似ている。愛ゆえの暴走、恋の盲目が少し微笑ましいが、愛には二面性がある。
環の手作り弁当を見た友人の絢は「愛が深えねえ」と言うが、芹澤はふたりを見て「闇が深え」とつぶやく。愛とは闇。世の中に100%正しいことなど存在しない。

福島の原発を前にした芹澤の「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」も重要なセリフ。メディアの中で描かれる福島は地震の悲惨なイメージしかなかったが、実際に訪れると真逆だった。固定観念で何かを決めつけることは誹謗につながる。自らの足で情報を稼ぎ、人と対話を重ねることで人災は減る。
新海誠は『君の名は。』以降、自ら多くの批判を受け、他の著名人への誹謗中傷についても何度かメディアで語ってきた。遠くに届ける「こえ」を大切する新海誠だからこそ、人を殺める誹謗中傷に警鐘を鳴らしたのである。
もうひとつ「戸締まり」は人間関係を閉ざすことでもある。人が人を病原菌扱いし、日本にはマスクによる断絶が横行した。前向きな断捨離もあるが、この数年で多くの人間関係が終わりを迎えた。人の心は荒み、誹謗中傷は増えている。今作では鈴芽と千果、ルミ、草太とのハグのシーンが多いが、ソーシャル・ディスタンスへのアンチテーゼになっている。
新海誠が開いた新たな扉

今作はもともと鈴芽と別の女性のロードムービーにする予定だった。しかし、新海誠は自らのアイデンティティである「男女の出逢いと奇跡」にドリフトした。普遍性を散りばめた。
鈴芽の分身として描く草太

『すずめの戸締まり』のオープニングは4歳のすずめが草原をかき分ける場面から始まる。すなわち草太に出逢う物語であることを示す。
男女+猫のロードムービーは『星を追う子ども』と同じ。明日菜と森崎は、共に喪失を抱えた親子関係で描かれていたが、鈴芽と草太は同志としての関係になっている。
鈴芽も草太も両親とは違う人間によって育てられた。草太の実父は教師であり、草太は親と同じ職に就こうとする。これは鈴芽が母と同じ看護師を目指すのと同じ。

鈴芽の部屋にはツルゲーネフの『はつ恋』が置いてある。草太が初恋の相手かはさておき、「人は恋をすることで子どもでも少女でもなく”恋する人”になる」というツルゲーネフの考えを『すずめの戸締り』にも反映している。
草太は単なる恋愛の対象ではなく、鈴芽とニコイチの関係、すなわち『天気の子』の帆高と陽菜のように、ふたりで乗り越える存在。色彩においてもふたりは対照で描かれる。鈴芽の眼は赤であり、草太の眼は青。これは動脈と静脈を表し、ひとつに結ばれて心臓になることを表す。

ルミの双子は鈴芽と草太の化身であり、女の子が赤、男の子が青。草太の青は海であり、鈴芽の赤は山を象徴している。服も月(夜・鈴芽)と太陽(朝・草太)の構図になっている。女の子の月は、4歳のすずめが常世に迷い込んだ日に見た電波塔の月。男の子の太陽は草太が天照大神(太陽の神)を表しているからである。
初めて描いた登山の構図

『すずめの戸締まり』で新たに開いたもの。八ヶ嶽を望む小海町で生まれ育った背景を抱えながら、新海誠が今まで描かなかったもの。
登山である。
鈴芽の戸締まりの旅は「登山」の構図になっている。新海誠が意図的にそうしたのではない。山に囲まれ、山に登って育ったバックボーンがそうさせた。戸締まりをする扉の場所は高台にあり、鈴芽と草太は登り下りを繰り返す。

宮崎で登りはじめ、愛媛で七合目を越え、神戸の観覧車で登頂し、下山途中の東京で遭難し、岩手で下山。そして宮崎に生還する。
愛媛で鈴芽は「わたしたちって凄くない?」と人間の力を実感し、千果も「あんたは大事なことをしとる気がする」と予見する。クライマーは山を登る前「あんな高いところ行けるわけがない」と思うが、歩き始めるうちに「人間の力って凄いかも」と感じ始める。

クライマーはパートナーを「戦友」と表現する。今作で鈴芽が草太を「戦友のような存在」と表現し、代わりに要石になろうとするのも山で遭難したときパートナーを助けようとする行動と同じ。鈴芽が草太の代わりに要石になろうとするが、逆の場合でも、草太は鈴芽の身代わりになろうとしたはずだ。

神戸のスナックで草太は「大事な仕事は、人からは見えないほうがいい」と言う。閉じ師は修験者のような存在であり、山にいる姿は地上人から見えない。双子の子どもが鈴芽を使って富士山ごっこで山を登る真似をする。新幹線で「富士山を見逃した」と鈴芽が嘆くのも登山を示唆したものである。
最も重要な登頂の地・神戸

今作で新海誠は大地震を直接的に描いている。3月11日や屋根に乗り上げた漁船の描写など当時をフラッシュバックする絵が多い。一方で阪神・淡路での地震は直接的に蘇らさず、明るく楽しく生きている人々の姿にとどめた。しかし、神戸を通ったからこそ、鈴芽は過去を乗り越えることができた。

後ろ戸のある遊園地で鈴芽は常世に飲み込まれそうになる。宮崎や愛媛でも視覚的に常世は映っていたが、心は持っていかれなかった。神戸が岩手と同じ大地震の被害を受けた場所だからこそ、常世は磁力を発揮した。
地震を防いだあと、神戸のスナックで焼きうどんを食べる。そして草太の椅子に座る。鈴芽が椅子に座るのは岩手以来であり、一瞬だけ幼少に里帰りし、岩手と神戸を連結している。

神戸は鈴芽が初めて「お返しします」と後ろ戸を閉じた場所。その後、観覧車に乗って頂上へついたとき登頂を果たす。ちっぽけで無力と思っていたけど自分達はやれる。未来は大丈夫なんだ。これは山登りで得られる唯一の宝物であり、4歳のすずめへのメッセージにつながっていく。自分を救えるのは自分しかいないのが登山。多くの人々が共存している地上と違い、山は助けを呼ぶか、自分の足で下りなければいけない。

神戸で登頂したふたりは草太の故郷の東京に下山する。登山で最も危険なのは下山であり、観覧車で地上に下りるとき、鈴芽は初めて「怖かった」と口にする。クライマーが恐怖を感じるのも下山。そして草太は下山途中の東京で遭難し要石に変わってしまう。
鈴芽は羊朗の反対を振り切り、草太の救出に向かうことで無事に帰還する。登山は空から降りそそぐ光ではなく、大地から這い上がってくる光を自らの足でつかむ行為。『すずめの戸締まり』は日本を平行移動しながら、登山を描いた物語なのである。
新海誠がタイトルに込めた意味

今作のタイトルは漢字の鈴芽ではなく、ひらがなになっている。すなわち4歳のすずめ。物語の中で扉を閉じて回るのは17歳の鈴芽だが、不安の戸を閉じ、未来への新たな扉を開いていくのは過去のすずめなのである。
そして17歳の鈴芽は、あの日、母親にかけられなかった言葉を草太にかける。閉じ師の仕事を続ける草太が怪我をしたら治療できるよう、母と同じ介護士を目指す。これからも鈴芽は何度も「おかえり」を草太に届けるだろう。
山に囲まれた故郷で育った人間にとって、鳥は自由の象徴であり、代弁者。『すずめの戸締まり』におけるスズメという名前には「進め」の意が込められている。
すずめの戸締まりを旅する
ほしのこえを聴きに
雲のむこう、約束の場所の舞台を巡る
秒速5センチメートルの舞台を追う
星を追う子どもをつかまえに
言の葉の庭の舞台を巡る
君の名は。を逢瀬する
天気の子を見上げる
彼女と彼女の猫を巡る
新海誠 もうひとつの世界
新海誠と新宿
新海誠 監督の映画レビュー集を出版しました

新海誠監督ご本人も気づかなった作品の深淵に迫った映画レビュー集です。