山下敦弘の『オーバー・フェンス』ではオダギリジョーがホームランをかっ飛ばし、『水深ゼロメートルから』ではプールにホームランが飛んでくる。男と女の対極的な構図。
砂だらけのプールは女という砂漠であり荒野。男子禁制の土俵。メイク、生理、恋バナ。男が踏み入れてはいけない女子寮。女だけの世界。
彼女たちは女という髷を結い、世界という敵から押し出されないように抗う。男という砂埃を払うのではなく、自ら裸足で砂を噛み踏みしめ、前へ前へ進む。
水底ではなく水面に人生が宿ることをクロード・モネが描いたように、狭いプールの向こうには水平線があった。
空っぽのプールは大空でありカンヴァス。彼女たちは裸足という絵筆で自由に描く。雨音は大粒の拍手。『水深ゼロメートルから』という美しい波紋。
男との戦い、大人との戦い、自分との戦い。言い訳を作って逃げていた彼女たちに数時間で大きな変化、亀裂が訪れる。タイトルの「水深」は時間の深さ。
上手い演出は登場人物の誰も汗をかかないこと。紫外線UV全開だけど、汗をかかない。そのことで雨が活きる。最後の雨は、主人公たちがこれからの人生でかく汗でもある。
人間は弱いから強くなろうとする。醜いから美しくなろうとする。
愚痴や不平不満のオンパレードで構成される映画は、最後に豊穣を迎える。
カタルシスのように天に昇華されるのではなく、雨となって降りてくる。
その一滴は大地を固め、世界に流れて大河となる。
男の自分が観ても人生の接続詞を作れる映画。年齢、お金、才能。そんな言い訳を吹き飛ばし、ゼロから始める一歩をくれる。