シネマの流星

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『スラップ・ショット』〜勝っても何も残らない、殴り、脱ぎ、仕事を終える男たち

『スラップ・ショット』〜勝っても何も残らない、殴り、脱ぎ、仕事を終える男たち

『スラップ・ショット』(原題:Slap Shot)は、1977年公開のアメリカ映画。アイスホッケーを題材にしながら、勝敗よりも「見世物としてのスポーツ」「仕事を失いつつある男たちの尊厳」を描いた異色のスポーツ映画である。

スタッフ

  • 監督:ジョージ・ロイ・ヒル
  • 脚本:ナンシー・ダウド
  • 製作:ロバート・J・ウンシュ、スティーヴン・フリードマン
  • 音楽:エルマー・バーンスタイン
  • 撮影:ヴィクター・J・ケンパー
  • 編集:デデ・アレン
  • 配給:ユニバーサル・ピクチャーズ
  • 公開:1977年2月25日(アメリカ)/1977年10月29日(日本)
  • 上映時間:123分

監督はジョージ・ロイ・ヒル、主演はポール・ニューマンの黄金コンビ。脚本を担当したのは女性脚本家のナンシー・ダウドであり、下品極まりないジョークの連打と、冷静な社会観察が同居する不思議なバランスを生んでいる。

キャスト

『スラップ・ショット』〜勝っても何も残らない、殴り、脱ぎ、仕事を終える男たち

  • レジー・ダンロップ:ポール・ニューマン
  • ネッド・ブレーデン:マイケル・オントキーン
  • ジョー・マグラス:ストローザー・マーティン
  • ハンソン兄弟(カールソン):ジェリー・ハウザー
  • フランシーヌ:ジェニファー・ウォーレン
  • スザンヌ:メリンダ・ディロン

この映画に登場したハンソン兄弟(三つ子ではないのに顔がそっくりな三兄弟)は人気者になり、90年代にはフィギュアが発売された。

あらすじ

ペンシルバニア州の架空の町チャールズタウン。製鉄所の閉鎖によって町は衰退し、マイナーリーグのアイスホッケーチーム「チーフス」も解散の危機に瀕している。
選手兼コーチのレジー・ダンロップは、チームと自分の居場所を守るため、暴力的で下品なプレーを“売り”にする戦略へと舵を切る。乱闘、挑発、反則――まともなホッケーからは遠ざかるが、観客は熱狂し、チームは勝ち始める。だが、その先に待っていたのは再生ではなく、チームの終焉だった。
勝っても残らない未来を前に、男たちはそれでも氷上に立ち続ける。

映画レビュー:殴り合いしか残されていなかった男たちの、最後の仕事

『スラップ・ショット』〜勝っても何も残らない、殴り、脱ぎ、仕事を終える男たち

『スラップ・ショット』は、スポーツ映画の顔をした労働映画である。
ここで描かれているのは、勝利の快感ではない。「もう必要とされなくなった男たちが、どう振る舞うか」という切実な問題だ。レジー・ダンロップはヒーローではない。
理想も未来像も持たない。ただ、自分がリンクに立てなくなる日を、先延ばしにしている。暴力的なホッケーを選ぶのは、観客を喜ばせたいからではない。生き延びるためだ。仕事とは、誇りではなく、延命措置になっている。
この映画の暴力は、怒りの爆発ではない。むしろ疲労の産物だ。殴ることでしか、まだ「役に立っている」と感じられない。ハンソン兄弟の無邪気な凶暴さは、その極端な表現にすぎない。悪党ではない。時代遅れになった身体そのものだ。脚本が鋭いのは、暴力を批判も称賛もしない点にある。
観客は笑い、選手は殴り合い、金は回る。そのすべてが成立している限り、誰も止めない。ここには正しさも、清潔さもない。ただ需要と供給があるだけだ。ネッド・ブレーデンが乱闘を拒否する姿は、この映画の重要な対位法になっている。
暴力を拒むが、だからといって高潔な存在ではない。何をすればいいのか分からない男だ。だから最後に選ぶのが、リンク上でのストリップという“別の見世物”になるのが皮肉だ。暴力をやめても、見世物であることからは逃げられない。クライマックスでチーフスは優勝する。
それは達成ではなく、終了の合図だ。勝利は何も救わない。ただ「ここまでやった」という区切りを与えるだけだ。ポール・ニューマン演じるレジーの魅力は、格好良さではなく諦念にある。
若くない身体、先のない仕事、それでもリンクに立つ姿には、虚勢もロマンもない。その軽さが、この映画を笑えて、同時に苦いものにしている。『スラップ・ショット』は、スポーツの映画ではない。
仕事を失いつつある男たちが、自分たちの価値を“最後に一度だけ”大声で主張する映画だ。下品で、乱暴で、救いはない。だがその姿は、驚くほど正直だ。時代に追い越された人間は、静かに消えるとは限らない。
騒がしく、みっともなく、殴り合いながら消えていくこともある。『スラップ・ショット』は、その消え方すら、仕事として引き受けた男たちの記録なのである。
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映画レビュー:なぜ裸にならなければ終われなかったのか

スラップ・ショットのラストで、ネッド・ブレーデンがリンクの上でストリップを始める場面は、初見では冗談のように映る。乱闘と暴力の映画が、最後に笑いを取りにいっただけのようにも見える。だが、この場面は偶然でも、悪ふざけでもない。むしろ、この映画が積み重ねてきた問いに対する、もっとも誠実で残酷な答えである。

この映画が描いてきたのは、「殴ること」そのものではない。殴ることでしか、自分の存在価値を証明できなくなった男たちの労働だ。身体が古くなり、技術も更新されず、社会からの需要が消えかけたとき、人は何を差し出せるのか。チーフスの選手たちは、答えを一つしか持っていない。自分の身体だ。

殴り合いとは、身体の商品化の最終段階である。痛み、流血、退場。そのすべてが「見世物」として機能している限り、まだリンクに立てる。だがネッド・ブレーデンは、その取引から降りようとする。暴力を拒否する。問題は、暴力を拒否したあとに何が残るかだ。

何も残らない。

英雄的なスポーツマンの姿も、知的な対抗軸も、社会を変える言葉も、この映画には用意されていない。残るのは、「見られる身体」だけだ。だからネッドは、殴る代わりに脱ぐ。暴力をやめても、見世物であることからは逃げられないという事実を、自身の身体で引き受ける。

ストリップは自由の表現ではない。これは解放ではない。むしろ逆だ。武器を捨て、ユニフォームを脱ぎ、最後に残った“労働者としての自分”を、完全に観客へ差し出す行為である。殴らない代わりに、裸になる。どちらも、需要に応じて身体を差し出す仕事に変わりはない。

このラストは「主体の消滅」を描いている。ネッドは何かを主張しているようで、実は何も語っていない。ただ見せているだけだ。意味も理念も、すでに剥ぎ取られている。そこにあるのは、役に立たなくなりつつある身体が、最後にできるサービスの形である。

だからこの場面は可笑しく、同時に恐ろしい。観客は笑うが、その笑いは安心から来るものではない。「殴られない代わりに、裸を見せてくれてありがとう」という取引が、あまりにも自然に成立してしまうからだ。ここには拒否も抵抗もない。ただ需要があり、供給がある。

『スラップ・ショット』が最後にストリップを置いたのは、暴力の先に理想があると嘘をつかなかったからだ。殴り合いをやめた先に、より良い未来があるわけではない。あるのは、別の形の見世物だけだ。その現実を、映画は笑いの形で差し出す。

男たちは勝った。だが救われてはいない。殴る仕事が終わり、脱ぐ仕事が残っただけだ。ストリップで終わるという選択は、敗北でも、反抗でもない。「ここまでが俺たちの仕事だった」という、静かな自己申告である。だからこのラストは下品で、正直で、そして忘れがたい。

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映画レビュー:なぜアメリカ映画は、スポーツを「仕事」として撮れるのか

『スラップ・ショット』〜勝っても何も残らない、殴り、脱ぎ、仕事を終える男たち

『スラップ・ショット』『ロンゲスト・ヤード』『がんばれ!ベアーズ』

ジャンルも年代も違うが、これらの映画には共通した感触がある。それは、スポーツを「夢」や「青春」の象徴としてではなく、きわめて現実的な営み=仕事として撮っている点だ。

アメリカ映画がスポーツを上手く撮る理由は、技術や予算の話ではない。もっと単純で、もっと残酷な前提にある。スポーツとは、身体を使った労働であり、評価されなくなれば即座に不要になる。その感覚を、映画が最初から共有しているからだ。

『スラップ・ショット』のホッケー選手たちは、勝利のために戦っているように見えて、実際には「職を失わないため」に殴り合っている。観客が喜び、チケットが売れ、金が回る限り、乱闘は正当化される。ここにスポーツマンシップはない。あるのは需要と供給だけだ。

同じ構造は『ロンゲスト・ヤード』にもある。囚人たちがフットボールをする理由は、自己実現でも更生でもない。看守たちの娯楽として消費されるためだ。身体を張ることでしか、わずかな主導権を取り戻せない。勝敗は重要ではない。試合が成立してしまうこと自体が、すでに搾取の完成形なのだ。

『がんばれ!ベアーズ』が優れているのも、子どもたちを美化しないからである。負け犬の少年たちは才能も規律もなく、指導者はアル中だ。だが、この映画は「努力すれば報われる」とは言わない。勝っても人生は好転しないし、負けても世界は終わらない。スポーツは人生の縮図ではない。人生の一部でしかない、という冷静さがある。

アメリカ映画がスポーツを撮るとき、必ず「外側」を映す。観客席、スポンサー、警察、刑務所、親、地域社会。競技は常に、社会の力関係の中に置かれる。だから、スポーツの場面がそのまま社会批評になる。殴り合いも、反則も、負け試合も、「その人が置かれている条件」を可視化する。

日本映画やがスポーツを撮るとき、内面に寄りがちなのとは対照的だ。アメリカ映画は、精神論よりも契約、身体、報酬、期限を映す。

いつまでできるのか。
代わりはいるのか。
次はあるのか。

その問いが、常に画面の底に沈んでいる。

だからアメリカ映画のスポーツは潔い。フォームが整っているからではない。終わりがはっきり見えているからだ。若さは有限で、身体は消耗品で、拍手はいつか止む。その前提を、映画が隠さない。

『スラップ・ショット』の最後が勝利でも再生でもなく、ストリップで終わるのは象徴的だ。殴る仕事が終わったあと、脱ぐ仕事が残っただけ。スポーツは夢を与える装置ではなく、使い切られた身体が最後に通過する場所として描かれる。

アメリカ映画は、スポーツを信仰していない。だからこそ、あれほど正確に、あれほど残酷に、そしてあれほど面白く撮れてしまうのだ。

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