シネマの流星

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『雄呂血(無頼漢)』〜群れない正しさは血を流す、体制に背を向けた男の美学

『雄呂血(無頼漢)』

『雄呂血』(おろち)は、1925年に公開された無声映画。監督は二川文太郎、主演は阪東妻三郎。阪妻が東亜キネマから独立し、自らのプロダクションを立ち上げた第1作であり、のちの「剣戟ブーム」を決定づけた記念碑的な一本である。

スタッフ

  • 監督:二川文太郎
  • 脚本:寿々喜多呂九平
  • 原作:寿々喜多呂九平
  • 製作総指揮:牧野省三
  • 撮影:石野誠三
  • 製作:阪東妻三郎プロダクション
  • 配給:マキノ・プロダクション
  • 公開:1925年11月20日
  • 上映時間:75分

タイトルは当初『無頼漢』だったが、検閲の指摘によるカットと改題を経て『雄呂血』となった。「雄呂血」とは、表面は善人の顔をしながら裏で悪事を働く大偽善者を指す言葉ロケは奈良・東大寺と氷室神社で行われた。

キャスト

『雄呂血(無頼漢)』

  • 久利富平三郎:阪東妻三郎
  • 漢学者・松澄永山:関操
  • 奈美江(永山の娘):環歌子
  • 江崎真之丞(奈美江の夫):春路謙作
  • 侠客・赤城の次郎三:中村吉松
  • 浪岡真八郎:山村桃太郎
  • 二十日鼠の幸吉:中村琴之助
  • ニラミの猫八:嵐しげ代
  • 薄馬鹿の三太:安田善一郎
  • 町の娘お千代:森静子

ヒロインの環歌子は阪東妻三郎と同い年であり、役者として駆け出した大部屋時代の頃から盟友。大スターの阪妻を「妻ちゃん」と呼べる数少ない女優のひとり。

あらすじ

『雄呂血(無頼漢)』

享保の頃。小さな城下町で、漢学者・松澄永山の娘奈美江と、弟子の若侍・久利富平三郎はひそかに愛し合っていた。だが平三郎は、家老の息子の無礼を怒って揉め事を起こし、破門される。さらに奈美江を中傷する若侍を懲らしめた行為も誤解を招き、師からも追われるように町を去る。

自分が正しいと信じた行動が、そのたびにねじ曲げられ、平三郎の心は荒んでいく。やがて彼は無頼の浪人となり、虚無へ沈んでいく。

流れ着いた先で女・千代の情に縋ろうとするが、千代はすでに人の妻となっていた。追手から逃げた平三郎は侠客・次郎三のもとへ転がり込むが、その次郎三こそ喰わせ者だった。病に苦しむ旅の夫婦を助けたかと思えば、妻に言い寄り、手籠めにしようとする。しかもその妻は、かつての初恋の人・奈美江だった。

平三郎は次郎三を斬り捨てる。だが逃げ場はなく、十重二十重の包囲の中で大乱闘となり、ついに捕えられる。群衆の罵声を浴びながら引かれていく平三郎。その中に、涙に濡れて平三郎を伏し拝む奈美江夫婦の姿があることを、群衆の誰も知らない。

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映画レビュー:正しさが孤独を選ぶとき、剣は世界に背を向ける

『雄呂血(無頼漢)』

『雄呂血』が輝きを放つのは、「権力への反抗」である。久利富平三郎は、英雄になろうとしない。名を上げる野心も、体制を転覆させる理想も持たない。ただ、理不尽なものに呑み込まれる。

この映画の敵は、刀を持った相手ではない。もっと厄介なのは、「あいつはこういう人間だ」という見立てである。一度貼られた札が、人を勝手に決めていく。平三郎の行動は、本人の意図から離れ、噂と体面のなかで別の意味に変質してしまう。ここには、個人の心よりも“世間の解釈”が強い世界がある。

平三郎は、だんだん言葉を失う。理解してもらう努力を諦めていく。言い訳をすればするほど、余計に疑われる。誤解を解くための言葉が、逆に火に油を注ぐ。そうして最後に残るのが、剣だけだ。剣はまっすぐだ。剣だけが、いま起きていることを誤解しない。斬れば倒れる。そこに裏はない。 しかし、その「まっすぐさ」は救いではない。剣がまっすぐであればあるほど、平三郎は社会から遠ざかる。強くなるほど孤独になる。

この映画が描く対立は、善と悪ではない。個人と群衆、無頼と権力の対比である。平三郎が対峙しているのは、目の前の敵ではなく、「数」と「体面」と「既に出来上がった秩序」だ。噂、肩書き、立場。そうしたものが重なり合った巨大な重さに、たった一人の身体が立ち向かう。その構図は、あまりにもモダンで、あまりにも早すぎる。

阪妻を見ていると、シルヴェスター・スタローンが重なって見える。『ロッキー』が描いたのも、勝つか負けるかではなかった。恐怖や権力、社会的な序列に向かって「それでも前に出る」という姿勢の美しさだった。結果は二の次でいい。ただ、逃げずに立ち続けたかどうか。それだけが問われる。

阪妻も同じだ。振るう剣は、勝利のためではない。名誉のためでもない。理屈が通じない世界に対して、反抗として振るわれる。走り、跳び、斬り続けるその身体は、滅びへ向かう運動であると同時に、世界に対して最後まで「ノー」を言い続ける姿勢だ。

『雄呂血』は、アメリカン・ニューシネマを先取りしている。体制に勝つことよりも、体制に回収されないまま滅びることの美しさ。『俺たちに明日はない』や『イージー・ライダー』が描いた美学は、すでにこの映画の中にいる。

無声映画であることも決定的だ。言葉がないのではない。言葉が信用できない世界を描くために、沈黙が選ばれている。だから阪東妻三郎の身体は雄弁になる。剣戟は単なるアクションではなく、思想であり、宣言だ。

『雄呂血』は、正しさが報われない映画ではない。正しさが「群れない形」で存在し得ることを、美しく示した映画である。

剣はまっすぐだ。そのまっすぐさは、世界と和解しない。だが、和解しない姿勢こそが、いつの時代も最も自由なのだ。それが、この映画が、今なお血の色を失わない理由である。

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