シネマの流星

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『まむしの兄弟 お礼参り』〜借りと返しの形而上学

『まむしの兄弟 お礼参り』〜借りと返しの形而上学

『まむしの兄弟 お礼参り』は、1971年公開の日本映画。監督は本田達男、脚本は高田宏治・鳥居元宏。前作の“はぐれ者”義兄弟が再びスクリーンに帰還し、依頼でも義理でもなく、〈受け取った借りを返す〉という原初の動因=“お礼参り”を掲げて突き進むシリーズ第2弾。菅原文太×川地民夫の無軌道コンビに、安藤昇が冷光を添える。ゆすり・たかりの笑いを保ったまま、報復と仁義、私怨と共同体の線引きをめぐる東映任侠アクションの加速編。

スタッフ

監督:本田達男
脚本:高田宏治、鳥居元宏
製作:橋本慶一、俊藤浩滋、佐藤雅夫
音楽:菊池俊輔
撮影:赤塚滋
編集:堀池幸三
配給:東映
公開:1971年10月1日/上映時間:89分

キャスト

ゴロ政:菅原文太
不死身の勝:川地民夫
二階堂剛:安藤昇
藤島あき:工藤明子
藤島京一:久保浩
花江:三島ゆり子/洋子:女屋実和子
兵藤義三郎:遠藤辰雄 

あらすじ

懲役13回を終えたゴロ政は、同房だった藤島京一から“家を潰した兵頭組へのケジメ”を託され出所。弟分・勝と兵頭組へ殴り込みを決めるが、京一の姉・あきが「素人を巻き込むな」と止めに入り、二人はいったん退く。やがて兵頭は、京一の“死に水”を取った大阪大同会の二階堂(安藤昇)に押し返され一時退散。しかし兵頭は逆恨みから二階堂を襲い、あきを人質に取る。
怒りに火がついた政と勝は、助っ人到着を待つ前に「男を売る」とマシンガンを携えて兵頭組本拠へ突入。弾雨の果てに兵頭へとどめを刺し、夜明けの海辺で肩を並べる。二人は清々しく、14回目の懲役へ歩き出す。

映画レビュー:『まむしの兄弟 お礼参り』

『まむしの兄弟 お礼参り』〜借りと返しの形而上学

第2作の“お礼参り”は、単なる復讐の物語ではない。ここで描かれるのは、二階堂という完成された男に追いつこうとする意地であり、未完成な自分たちがなお「線を引きに行く」姿である。政と勝は、組にも制度にも属さないが、意地だけには従う。だから助っ人が来る前に兵頭を討つ。それは借りを返すこと以上に、「男を上げる」ための戦いだった。

その意地の行方は、ラストの会話に凝縮される。川地民夫の勝が「ワイら、ホンマに勝ったんやろか?」と問うと、菅原文太の政は「どうでもええやないか」と答える。このやり取りは、勝敗という物差しを拒否する声明だ。彼らにとって大事なのは「勝ったか負けたか」ではなく、「自分で振るったかどうか」なのだ。勝敗の判断を他者に委ねるのではなく、己の身体の向きそのものに価値を置く。

これは〈勝敗を超えた生の肯定〉である。勝利は外部の基準に属するが、意地は内部のリズムに属する。政の「どうでもええやないか」という言葉は、「勝ち負けを超えてなお歩ける」という自己の存在の強度を示す言葉である。

前作の雨が色を流し、未完成の筋彫りを露わにしたとすれば、今作はその未完成を「どうでもええ」と笑い飛ばす地点に到達する。未完成のまま、意地で立つ。勝敗の答えを持たないまま、関係だけを握って歩く。それこそが“まむしの兄弟”の哲学であり、惚れ惚れするほど不器用な希望なのだ。

敗北であっても勝利であってもない、その「どうでもええ」が、彼らを再び別荘(懲役)へと送り出す。反復の中でしか生きられない二人が、それでも笑えるのは、この境地に辿り着いたからである。

まむしの兄弟は、夜明けの光で笑う。終わったからではなく、また始められるからだ。

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