
『懲役太郎 まむしの兄弟』は、1971年公開の日本映画。監督は中島貞夫、脚本は高田宏治。神戸の港町を舞台に、組織にも倫理にも属さない“はぐれ者”の義兄弟が、ゆすり・たかり・スケこましを織り交ぜながら暴れ抜く東映任侠アクションの異種交配作。菅原文太×川地民夫の凸凹コンビに、安藤昇の“金バッヂ”が冷たく光るシリーズ第1弾。
スタッフ
監督:中島貞夫
脚本:高田宏治
製作:俊藤浩滋、橋本慶一
音楽:菊池俊輔
撮影:赤塚滋
編集:神田忠男
製作:東映京都撮影所
配給:東映
公開:1971年6月1日
上映時間:87分
キャスト

- 政太郎(ゴロ政):菅原文太
- 勝次(不死身の勝):川地民夫
- 早崎雄吉:安藤昇
- 上月さや子:佐藤友美
- 梅田和三郎:葉山良二
- 洋子:女屋実和子
- 花江:三島ゆり子
- 山北達平:天津敏
- 金五郎:河野秋武
あらすじ

十二犯を終えて出所したゴロ政(菅原文太)は、弟分の勝(川地民夫)と神戸・新開地に戻る。縄張りを二分する瀧花組と山北組は一触即発。組に与しない二人は“まむしの兄弟”として街で悪名を上げ、やがて山北に呼び出され瀧花組代貸・梅田の暗殺を依頼される。賭場で梅田と相対した二人は、殺しではなく大金を受け取って立ち去り、拳銃を顔なじみの娘・ゆきに預ける。
頂点に立つ七友会の早崎(安藤昇)に喧嘩を売るも相手にされず、男ぶりにうたれた二人は彫り師・金五郎のもとで背に“まむし”を彫り始める。やがて山北の凶弾が梅田を倒し、流れ弾でゆきが重傷。怒りに火のついた二人は、瀧花組の残したトラックで山北組ビルへ突入する。早崎は山北を射殺して自ら蜂の巣となり、二人は銃も爆薬も尽きるまで戦い抜く。雨に打たれ、背中の入れ墨の色が流れ、未完成の筋彫りが露わになる。二人は「次の懲役は一緒や」と肩を寄せ、夜の路地へ歩き去る。
映画レビュー:『懲役太郎 まむしの兄弟』

- 剣道5段がどないしたんや。わてら懲役12段じゃ
- 刑事は刑事らしく、弱いもんイジめて上に尾っぽ振っとったらええねん
- 刑事なんかとヤッたらポコチンの穢(けが)れや
シリーズ第1作にしての映画史に輝く名台詞のオンパレード。出所する、出迎える、また懲役に戻る。川地民夫の「兄貴、○○てなんや?」という無垢な問いは、言葉を装置化するヤクザ言語への楔となる。言葉の意味を知らない者の問いが、意味に絡めとられた世界をあぶり出す。彼らのスケこましやゆすりは、道徳的に擁護不能でありながら、同時に制度の空隙を突くコメディの跳躍でもある。笑いはここで、秩序の外へ出る身体のジャンプだ。
ゴロ政と勝は、仁義の体系にも国家の規律にも居場所を持たない。だから彼らは「正義/不正義」の物差しを持たないまま、衝動と欲と笑いで神戸・新開地を横断する。その無所属性が、結果として最も鋭く任侠を照射する。誰のために刃を抜くのか、誰のために懲役へ戻るのか。答えは組の掟ではなく、己の心にある。それこそが真の任侠であることが、このシリーズの核心である。
安藤昇が演じる早崎は、近代の冷徹さと古典の作法を同時に身にまとう。彼の射殺は、組織の論理を一瞬で終わらせる暴挙であり、同時に「落とし前」の古義を最後に実体化する身投げでもある。男は制度を超えてもなお、どこに線を引くのか。早崎は身体で線を引く。
背に彫られた“まむし”は、自己像のメタファーだ。色が流れ落ち、筋彫りだけが残るラストは、装飾としての男らしさが剥がれ、輪郭線だけの「俺」に還る瞬間である。名前でも肩書きでもない、ただの線。男は完成品ではなく、彫られ続ける身体だと映画は告げる。
任侠映画の雨は浄化の記号として使い古されてきたが、本作の雨は清めない。むしろ背中の色を流し、未完成を露出させる。それでも二人は肩を組み、歩く。完成ではなく未完成を引き受けて歩くこと。それが、まむしの兄弟に残された“哲学”であり、惚れ惚れするほど不器用な希望である。
結局、向かうのは救済ではない。次の懲役という名の反復だ。その反復に敗北の匂いは濃い。だが、反復の中にだけ保たれる友情と、身体で線を引く決断がある。中島貞夫は、任侠の看板を笑いで歪ませ、最後に背中の線を見せる。そこに残るのは、色も肩書きも洗い流された一対の輪郭。
“まむしの兄弟”という、最小単位の共同体だ。彼らは制度に属さないが、関係に属している。その関係に責任を持つかぎり、未完成でも歩ける。だから二人は、雨の路地へ消える。肩を寄せ、線のこちら側を選びながら。
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