
『君たちはどう生きるか』は、2023年に公開された日本のアニメーション映画。監督・脚本は宮﨑駿。タイトルは吉野源三郎の同名小説から借りられているが、内容は直接の翻案ではなく、宮崎自身の少年時代や戦争体験を下敷きにしたオリジナル作品である。死別、喪失、そして成長をめぐる寓話として、スタジオジブリの集大成とも言うべき映画となった。
スタッフ
監督:宮﨑駿
脚本:宮﨑駿
原作:宮﨑駿(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』から着想)
音楽:久石譲
主題歌:米津玄師「地球儀」
制作:スタジオジブリ
配給:東宝
公開:2023年7月14日
上映:124分
声の出演(キャスト)

牧眞人:山時聡真
眞人の母:木村佳乃
眞人の父:木村拓哉
眞人の継母・夏子:柴咲コウ
アオサギ(青サギ男):菅田将暉
大叔父:火野正平
ヒミ:あいみょん
あらすじ

第二次世界大戦下。空襲で母を失った少年・牧眞人は、父の再婚に伴い疎開先の屋敷に移り住む。深い森に囲まれたその屋敷で、彼は言葉を話す奇妙なアオサギと出会う。アオサギに導かれ、不思議な塔に足を踏み入れた眞人は、現実と夢、死と生の境界が溶け合う異世界に迷い込む。
そこで彼は、死んだはずの母に似た存在、巨大なペリカン、火を纏った少女ヒミ、そしてこの世界を築いた大叔父と邂逅する。塔の中には「生と死を支える秩序」が積み木のように積み上げられており、それを継承するか否かが眞人に委ねられる。
少年は喪失を抱えながら、現実へと帰還する決断を迫られる。大叔父の塔を継がず、未熟なまま生きていく未来を選び取った眞人。その足取りは、問いかけと矛盾を抱えながらも、確かに「生」へと向かっていた。
映画レビュー:宮崎駿『君たちはどう生きるか』

『君たちはどう生きるか』は、宮崎駿の遺言でありながら、決して答えを提示しない。「君たちはどう生きるか」という問いを観客へ手渡すための寓話である。
物語は「死から始まる」。母を失った眞人は、欠落した場所から出発する。その欠落を埋めるのは理想や完成ではなく、矛盾や不安を抱えたまま歩み続けるという運動そのもの。宮崎がこの映画で提示したのは「完成した世界観」ではなく、「未完成のまま生きろ」というメッセージである。
アオサギはその象徴だ。滑稽で不気味で、導き手であると同時に道化でもある。つまり「答えを与える存在」ではなく、「問いを増幅させる存在」だ。人は導かれて生きるのではなく、矛盾を抱えて生きるのだという事実を突きつける。
塔の大叔父は「完璧な秩序」を少年に託そうとする。しかし眞人はそれを拒む。積み木のように整った世界は安定を与えるが、同時に死んだ世界でもある。生きるとは、秩序を継ぐことではなく、乱雑さを抱えて未来に向かうこと。壊れた積み木をそのまま背負って進むこと。それこそが「どう生きるか」への答えなき答えなのだ。
ラスト、眞人は母を取り戻さない。失われたものを「失われたまま受け入れる」ことで、初めて現実へと還っていく。宮崎が肯定するのは、悲しみを消すことではなく、悲しみと共に生きることだ。
『君たちはどう生きるか』は、宮崎アニメの総決算であると同時に、「不完全さの哲学」を描いた作品である。飛ぶ夢を描いた過去作に対し、この映画が見つめるのは「飛べないままの生」。問いを抱えたまま歩き続けること。それが宮崎が最後に示した「生きる姿勢」だ。
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映画レビュー:宮崎駿『君たちはどう生きるか』(批評バージョン)

宮崎駿の作品は、これまでは前半に圧倒的な力を見せ、後半で尻すぼみになりながらも、結局は序盤の輝きで押し切る。そんなタイプだった。だが今作は、出だしからつまずいている。
空襲の場面は激しい動きと大音量で迫力を煽るが、むしろ逆効果だ。戦争の惨さや母を失った悲しみに寄り添うには、派手さよりも静けさこそが必要だった。結果として空襲はアトラクションのように消費されてしまい、作品は深みを欠いてしまった。
宮崎駿は本来、複数の人物の物語を同時に描くのが得意ではない。『カリオストロの城』が名作たりえたのは、次元や不二子の物語を広げず、ルパンに集中したからだ。今回は夏子や王子の物語を盛り込もうとした結果、全体が散漫になってしまった。青鷺とのバディ構造はルパンと銭形のようで悪くなかったが、余計な枝葉が作品の力を削いでいる。
さらに問題なのは「醜さ」の扱いだ。ブサイクな青鷺や妖怪のような老婆の登場は、AIでは生み出せない「人間的な不完全さ」を象徴していたはずだ。しかしその醜さは物語に生かされず、単なる奇抜さで終わってしまった。
キャスティングも大きな失敗だ。木村拓哉の声は整いすぎて父親像にそぐわない。菅田将暉や木村拓哉の存在感は知名度先行で、声が「役」ではなく「記号」として響く。火野正平や國村隼はすぐに本人と分かる声質をそのまま使っていて、技術に頼った演技はAI声優と変わらない。演技の「下手さ」こそ人間の証であり、魂の熱を感じさせる。菅原文太が『おおかみこどもの雨と雪』で見せた自然な力強さとは対照的だ。
加えて、物語の構造にも既視感がつきまとう。夏子の白装束は『すずめの戸締まり』の鈴芽と重なり、常世の描写も細田や新海がすでに踏み込んだ領域に見える。イザナギがイザナミを追って黄泉に行く構図も、新海誠が『星を追う子ども』で扱ったものだ。新海は「死とはなにか」「旅とはなにか」を自ら定義し提示したが、宮崎はその定義を観客に丸投げしている。問いかけの姿勢は良いが、作家の思念が映画に刻まれなければ、単なる空虚な投げかけに終わる。
正直、眠気に襲われ、途中で映画館を出たくなる瞬間もあった。せっかくの米津玄師による美しいイントロも、レクイエムのように響いてしまった。
音楽レビュー:主題歌「地球儀」—問いを抱えて歩く歌

米津玄師が書き下ろした主題歌「地球儀」は、ラピュタの「君をのせて」と同じく“宮崎映画の祈りの歌”である。ここで歌われるのは希望の賛歌ではない。「問いの子守歌」である。
旋律は穏やかに始まり、やがて螺旋のように上昇し、再び沈静していく。これは飛翔ではなく「呼吸」の運動だ。吸い、吐き、また吸う。生きることが未完成の往復であることを音楽が体現する。
歌詞における「地球儀」は、完璧な地図ではなく、手の中で回転する小さな球体だ。すべてを見渡せるが、どこにも立てない。眞人が塔の秩序を拒み、不完全な世界へ戻るように、「完全な答え」を拒否し、問いを回し続ける球としての世界を肯定する。
米津の声は澄み切っていない。深い影を含んで響く。それは眞人の未熟さと呼応している。未熟だからこそ未来に向かえる。影を抱えた声だからこそ、光を希求する。
この歌は「生きろ」と命じるのではなく、「どう生きるか」を投げかけて終わる。問いを残す歌は、聞く者に宿題を残す。宮崎が映画で観客に委ねた問いを、米津は歌で引き受けている。
「地球儀」は、完成を拒む歌である。完成しないからこそ回り続ける。答えがないからこそ歌い続けられる。映画が終わっても、旋律は胸の奥で回り続ける。
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