シネマの流星

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宮崎駿『風立ちぬ』雲は消え、線は身体に刻まれる、設計図の外に残された愛

宮崎駿『風立ちぬ』雲は消え、線は身体に刻まれる、設計図の外に残された愛

『風立ちぬ』は、2013年に公開された日本のアニメーション映画。原作・脚本・監督は宮﨑駿。実在の航空技術者・堀越二郎と、作家・堀辰雄の小説『風立ちぬ』に着想を得て、激動の時代を生きた若者の夢と愛を描いた叙情詩的ドラマ。零戦の設計者として知られる堀越の人生を下敷きに、「生きねば。」というメッセージのもと、創造と喪失のはざまで揺れる青春を描いている。

スタッフ

  • 監督:宮﨑駿
  • 脚本:宮﨑駿
  • 原作:宮﨑駿(企画原案:宮﨑駿による漫画『風立ちぬ』)
  • 音楽:久石譲
  • 主題歌:荒井由実「ひこうき雲」
  • 制作:スタジオジブリ、日本テレビ、電通、ディズニーなど
  • 配給:東宝
  • 公開:2013年7月20日
  • 上映:126分

声の出演(キャスト)

  • 堀越二郎:庵野秀明
  • 里見菜穂子:瀧本美織
  • 本庄:西島秀俊
  • 黒川:西村雅彦
  • カストルプ:スティーブン・アルパート
  • 里見:風間杜夫
  • 服部:竹下景子
  • 堀越加代:志田未来
  • 堀越二郎(少年時代):大西健晴
  • カプローニ:野村萬斎

あらすじ

宮崎駿『風立ちぬ』雲は消え、線は身体に刻まれる、設計図の外に残された愛

空を飛ぶことに憧れる少年・堀越二郎は、夢の中で出会ったイタリアの飛行機設計者カプローニの言葉に導かれ、技術者の道を志す。少年の夢は、やがて時代の大きなうねりに巻き込まれていく。

関東大震災、大恐慌、そして戦争。激動の昭和初期。青年となった二郎は、戦闘機の設計者として飛行機への夢を追い続けるが、それは同時に「戦争の道具」を作るという矛盾を孕んでいた。

そんな中、かつて震災時に出会った少女・里見菜穂子と再会し、二人はやがて深く惹かれ合う。しかし菜穂子は結核を患い、儚い命を抱えていた。愛する人との静かな時間と、自らの才能を試す創造の日々。二郎は“飛ぶこと”への夢と、“生きること”への痛みの狭間で揺れる。

やがて、彼が設計したゼロ戦は、世界に名を轟かせる戦闘機となる。しかしその先に待っていたのは、夢が現実の暴力に絡め取られていく苦い結末だった。

「生きねば。」
夢に殉じた青年が、失うことを知りながらもなお歩み続けた道。その先にあったのは、風のなかに微かに残る、愛と祈りの記憶だった。

映画レビュー:宮崎駿『風立ちぬ』—設計図と風のあいだで

宮崎駿『風立ちぬ』雲は消え、線は身体に刻まれる、設計図の外に残された愛

『風立ちぬ』は「飛ぶ」夢の礼賛ではない。夢を飛ばすために、どれだけ現実を引き受けるかという、痛みを伴う物語だ。堀越二郎は美しい機体を設計する。しかし飛行機は空想では浮かばず、空気という見えない媒介に身を預けてはじめて持ち上がる。ここで風は、自然現象である以上に、時間と死の比喩として機能する。風は常に去る。映画はその緊張を一貫して見つめる。

二郎は「正しいか」ではなく「美しいか」で決める。だが美は免罪符ではない。美しい形は、人間の欲望と国家の暴力に容易に接続される。作品はそこで断罪にも賛美にも逃げない。作る者は、つくること以外では語れない領域をもつ。その不気味な自由と孤独を、夢の場面の静けさで示す。夢の中で会うカプローニは、希望の代弁者ではない。「君の夢は美しいが、代償がある」と静かに告げる他者だ。夢は自由だが、現実で支払うのは呼吸であり、生活であり、誰かの時間だ。

呼吸はこの映画の核心にある。飛行機は空気を掴んで飛び、人は肺で風を受けて生きる。大地震の熱気、工場の風切り音、草むらの擦過音、そして菜穂子の病室の静気。風は上昇の推力であると同時に、奪われた呼吸の空白でもある。生きることと飛ぶことが、同じ媒介(風)に依存しているという事実が、作品全体に淡い恐怖と温情を与える。

設計とは、偶然と崩壊に形を与える試みだ。だが真に美しい機体は、構造計算の勝利ではなく、耐えうる喪失の総体として立ち上がる。必要な軽さは、捨てた重さの記録だ。だからこそ映画は、成功の瞬間よりも「決めて、捨てる」沈黙の時間を丹念に描く。二郎が見ているのは未来の栄光ではなく、今ここでしか選べない一条の線だ。

菜穂子の存在は、二郎の夢に絵の具を混ぜる。彼女は「生きねば」というスローガンの象徴ではなく、呼吸の温度そのものだ。絵筆と咳、静かな笑い、窓辺の光。そのすべてが、飛行機よりもはかないが、飛行機よりも確かな生の尺度になる。別れは敗北ではない。別れによってしか掴めない現実の重さがあり、その重さが二郎の設計に影を与え、機体に人間の比重を刻む。

『風立ちぬ』は、夢と現実を対立させない。夢は現実に混ざり、現実は夢に汚れる。その混濁こそが生の質であり、作品はその濁りを、非難も正当化もしないまなざしで受け止める。飛ぶことは歓喜であり、責任であり、喪失の別名でもある。風が立つ。ならば生きる。生きるとは、風に抗うことではなく、風の中で選ぶことだ。

 

映画レビュー:風立ちぬ(批評バージョン)

棒読みのように聞こえるセリフは、「感情の押し売り」を避け、むしろ日常に近いリズムや温度を生み出す。過剰な演技を排したことで、人物の“内面の静けさ”や“日本的情緒”が際立つのだ。庵野のセリフが他の声優と比べて浮いているからこそ、“非現実的な人物性”や孤高さが逆に強調されている。

しかし本作に関して言えば、アニメーションである必然性がない。この内容なら実写のほうが活きる。アニメ化することでリアリティが逆に嘘っぽく見えてしまっている。

たとえば『もののけ姫』は、実写にすればグロテスクすぎる題材をアニメ化することで中和に成功した。『紅の豚』は、アニメでありながらハードボイルドに振り切ることで、独特のアンニュイな世界観を成立させた。つまり、アニメだからこそ成立する表現があった。

だが『もののけ姫』でアニメ表現を極めてしまったがゆえに、その後の宮﨑駿には“アニメからの離脱”とも言える傾向が見えてくる。

アニメーションの本質は「命を吹き込むこと」にある。現実の延長線上にある表現なら力を持つが、無理にリアルさを追求すると、かえって嘘っぽさが目立ってしまう。アニメーションは常に新鮮でなければならない。生ものであり、例えるならサラダのようなものだ。だが2000年代以降の宮﨑作品は、映画オタクや高齢層に向けたものとなり、監督自身の年齢とともに“老齢化”してしまっている。

とはいえ、宮﨑駿の失敗作には妙な魅力がある。彼の作品は中途半端に転がる凡打ではなく、見事なまでの空振り三振になる。その潔い失敗は、むしろ爽快感すら伴っている。

 

音楽レビュー:主題歌『ひこうき雲』—上昇と消滅の同時性

音楽レビュー:主題歌『ひこうき雲』—上昇と消滅の同時性

この曲は挽歌であり、出発でもある。旋律はやわらかく上向き、すぐに着地する。高く掲げるのではなく、掬い上げて戻す手つき。そこにあるのは歓喜の弧と、回帰の習性だ。上昇だけの音楽は野心を煽る。下降を含む音楽は、帰る場所の輪郭を思い出させる。

タイトルの「雲」は、機体の航跡であると同時に、時間に書かれた白い線だ。引かれた瞬間から消えはじめる線。消えることが前提の記録。映画が描く設計図は残そうとし、歌が呼ぶ航跡は消えながら残る。ひとつは紙の上の恒常への意志、もうひとつは空の上の可逆的な記憶。両者は矛盾しない。人は残したいから描き、消えるから描く。

荒井由美は「空」と「歩幅」を同じ譜面に乗せる。長く伸びる持続音は上空の薄い光、ゆったり刻む拍は肺の歩み。過度に跳躍しない旋律線は、夢より約束に近い運動だ。約束は跳ばない、歩く。歩く音楽は、聴く者の呼吸に寄り添い、個々の記憶を私的な儀式へと変えていく。

歌詞は誰かを天へ解放するようでいて、地上に残された者の眼差しを支える重りでもある。上に行く者が軽いのではない。軽やかに見えるのは、地上に残った者が“重さ”を引き受けるからだ。だからこの歌は悲しみを軽くしない。悲しみが歩ける形に変わるのを手伝う。

『風立ちぬ』の終幕で、この曲が流れる意味は明確だ。。美しい機体も、愛の記憶も、やがて雲のように薄れていく。だが消えるものだけが、空を一瞬照らす。その一瞬を「生」と呼ぶ。

この歌は、飛行の賛歌であり、地上の倫理の復唱でもある。上昇と消滅が同時に起こる世界で、何を残すかではなく、どう消えるかを問う。聴き終えるたび、胸の奥に細い線が一本、静かに引かれる。風がそれを薄めても、線を引いた呼吸の記憶だけは、確かに身体に残る。

 

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