シネマの流星

映画とは魔法。どこでもドアであり、タイムマシン。映画館の暗闇はブラックホール。スクリーンの光は無数の星たち。映画より映画館のファン

井筒和幸『アメリカの活動写真が先生だった』〜映画本の頂点、映画レビューの到達点

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  • 著者:井筒和幸
  • 出版社:小学館
  • 発売日:1998年12月20日
  • ページ数:315ページ

映画レビューの究極。奥義と言ってもいい。映画を語らずして語る。

言葉を生業にする物書きとして、いつか挑戦し、到達したい領域だ。

井筒監督の『アメリカの活動写真が先生だった』は、いわゆる「映画評論」の期待を、意図的に裏切る。

作品解説は、ほぼ皆無。理論も技法論もない。当時どんな暮らしをしていた、どんなことを考えて生きていたかなど、完全な自分語り。本書から浮かび上がるのは、ひとりの人間が、映画とともに生きてしまった時間そのもの。

語られる映画は、語られると同時に、ほとんど語られない。『バルジ大作戦』や『許されざる者』までの65作品を分析するのではなく、人生の節目に偶然、立ち会っていた「出来事」として扱われる。井筒監督にとって映画は、鑑賞物ではなく、思考や倫理が形成される「環境」だったのだ。

この本の奥義を、ボクシングで喩えるなら、「ジャブだけで読者をKOしてしまう」ことだ。物書きはしばしば、一文で読者の心を動かそうとして、大振りのフックやアッパーカットを繰り出す。名言、過激な比喩。だが井筒監督は、そうした“決め球”をほとんど使わない。ただ淡々と、生活と記憶を綴っていく。

こうした語り口の本は、他にもある。だが多くは「ふーん」で終わる。心までは届かない。ところがこの本は違う。ジャブだけで構成された試合が、派手な大技よりも観る者の身体に衝撃を残す。静かな一打一打が、確実に読者を追い詰めてくる。これは技術ではなく、境地だ。奥義と言わざるを得ない。

井筒監督は業界人だが、「映画とは何か」を問わない。「人は何によって形成されるのか」を、映画という媒介を通して問い返している。

井筒少年が奈良で映画に出逢い、大阪で暮らすようになってからも、常に映画はそこにあった。タイトルでは、映画を「先生」と呼びながらも、決して映画への敬意を装飾しない。

映画は崇高な信仰ではなく、乱暴で、俗で、暴力的で、時に差別的ですらある。それでも、いや、だからこそ、現実を直視する力を与えてくれる。映画を理解すること、映画に影響されて生きることは、まったく別の行為である。

この本に出逢ったのは、立命館大学に通い、映画を京都で映画を見始めた頃だった。プロ視点の解説が読めると期待していたので、最初は面食らった。しかし、それが映画を語ることだと教えられた。

映画とは分析して語る対象ではなく、すでに語る主体を形づくった「過去」である。この本を読み終えたとき、映画の知識を得るのではない。代わりに、「自分は何に影響されて、ここまで来たのか」という問いを突きつけられる。

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『アメリカの活動写真が先生だった』は、映画レビューの究極形である。映画は答えを与えない。ただ、時間としてそこに在り続ける。その時間の中で何を感じ、何を抱え、何を見ないふりして生きてきたのかを問う。

井筒監督は、映画を「先生」と呼びながら、最後まで弟子になろうとはしなかった。だから、映画を語らずして、映画を語ることができた。

映画という他者の時間に照らされながら、自分がどう歪み、どう耐え、どう今日まで立ってきたのかを、真っ直ぐに見つめている。

 

『アメリカの活動写真が先生だった』に登場する映画作品

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夜の大捜査線

グラン・プリ

殺しの分け前/ポイント・ブランク

ブリット

イージー・ライダー

真夜中のカーボーイ

ライアンの娘

ゲッタウェイ

さらば冬のかもめ

サブウェイ・パニック

バリー・リンドン

ロンゲスト・ヤード

愛のメモリー

ザ・ドライバー

レイジング・ブル