
『星を追う子ども』は、2011年に公開された新海誠監督の長編アニメーション作品。『秒速5センチメートル』に続く4作目であり、新海誠作品の中でも冒険譚として位置づけられる。これまでの「会えない」ことをテーマとした作品とは異なり、本作では「旅」を通して「喪失」と向き合う物語が展開される。喪失と向き合う旅の果てにある「別れ」の意味を問いかける。
スタッフ
- 監督:新海誠
- 脚本:新海誠
- 原作:新海誠
- 製作:伊藤耕一郎、川口典孝など
- 出演者:金元寿子、入野自由、井上和彦
- 音楽:天門
- 主題歌:「Hello Goodbye & Hello」(歌:熊木杏里)
- 製作:コミックス・ウェーブ・フィルム
- 配給:メディアファクトリー、コミックス・ウェーブ・フィルム
- 公開:2011年5月7日
- 上映時間:116分
あらすじ
山間の小さな町に住む少女・アスナは、幼い頃に父を亡くし、母と二人で静かに暮らしていた。そんな彼女の日常は、父の形見である謎の鉱石のペンダントと、山の中の秘密の隠れ家によって彩られていた。
ある日、アスナは山で不思議な少年シュンと出会う。シュンは「アガルタ」と呼ばれる地底世界から来たと話し、彼女に「また会おう」と約束をする。しかし、その直後、シュンは消息を絶ってしまう。
シュンの死を受け入れられないアスナは、彼に似た少年シンと、教師モリサキの導きのもと、伝説の地下世界「アガルタ」への旅に出る。モリサキは亡き妻を蘇らせるために、アガルタの秘術「命の門」を探していた。
異世界アガルタで繰り広げられる冒険と、喪失と再生の物語。アスナは旅の果てに何を見つけるのか? そして、モリサキが辿り着く運命とは——。
映画レビュー

4年ぶりの4作目。英題は『Children who Chase Lost Voices from Deep Below』 。色は黄昏。『秒速5センチメートル』の勢いそのままに、新海誠の死生観をダイレクトに照射し、監督としての境地に達した作品。

約10年前のデビュー作と同じく、タイトルに星を入れた。「ほし」から「星」へ。新海誠は進化の歩みを止めない。
今作で重要な小道具が鉱石ラジオ。明日菜とシュン(アガルタ)は聴覚によってつながる。ラジオはモノローグだが、一方通行であってもひとは想いを受け止める。想いは届く。

レールに耳をあてる明日菜のオープニング。アニメーション史上、最高の幕開け。
明日菜は「遠い違う場所」に呼ばれている。求めている。線路の遠く先を見るのではなく”聴こうとする”。音のない音を聴こうとすることで、自分を此処ではないどこかへ運ぼうとする。そして地底の歌を聴いている。
なぜ今作の舞台が地底なのか?それは大地の理を解き放ったからである。大地の香り、命そのものの息吹。命とは長いものも短いものも、受け継がれることによってのみ存えていく。総ての命は繋がっている。虫は木の葉を食べていき、その亡骸はやがて大地に帰りその樹を育てる。地底からは命ある限り、希望を持ち続けろという歌が聞こえてくる。

舞台は溝ノ淵という架空の田舎。11歳の主人公・明日菜が信州米を買っている。ここは新海誠の故郷。映像のみずみずしさは若き日の心象風景を思わせる。故郷はセピア色ではなく、常に新鮮なのだ。

タイトルの”星を追う子ども”はアガルタから星を求めて来たシュンであり、星になった少年を追う明日菜とシン。そして少年の頃、SFに夢中になった新海誠自身。

人は亡くなると星になり地上を見守る。すべての子は死に向かい、星を想う。タイトルにはそんな普遍性が散りばめられている。

明日菜はいつも走る。何かを追うように。触れるわけでも掴むわけでもない。星は届かないから美しい。追いつづけることに意味がある。

死者を蘇らそうと向かうアガルタは自分を生まれ直す場所。地底なのに空がある。だが星はない。そんな古代王国はテレビゲームの『イース』を彷彿させる。主人公のアスナはアドル・クリスティン。ここにも新海誠のDNAは生きている。

そして、ケツァルトルに飲まれるアスナとシュンは胎内で生まれ直す。

早くに父を亡くした明日菜と娘に出逢えなかった森崎。アガルタという場所で親子関係にある2人にとって、さよならを知るための旅。「自分探しの旅」と言うが、旅にはもう一つの意味がある。また見ぬ自分を産み落とすため。森崎が幼少の明日菜を連れて行くのは、自分で自分を生み直させるため。それが旅だ。

旅は何かに出逢うためではなく、失うためにある。今の風景を捨てること。今の自分を失くすこと。シンが旅に出る前に髪を切るのも、シュンへの未練への断捨離。得るのではなく捨てるために旅に出る。

死とはこの世での役割を終え、喪失によって命はもっと大きなものの一部となる。死もまた旅の一つ。明日菜は死の寂しさを抱えながらも、死の悲しみを乗り越えた。

妻リサを蘇らそうとした森崎も視力を失うことで開眼する。「できれば君に生きていて欲しい」、シュンと同じ願いを明日菜に伝える。
この世に生を受けることは、同時に「死」を運命づけられること。生きることは呪いであり、また祝福でもある。

明日菜とシンは黄昏の意味を知る。日没の色は夜明けの色と同じであると。朝日と夕陽。「時間」によって、太陽はふたつに分断され、そしてひとつに紡がれる。生があって死が訪れるのではなく、生の中に死があり、生と死もまた、ひとつに繋がっている。
『星を追う子ども』のタイトル

2011年5月7日。新海誠は初めて「死」と「旅」をテーマにした。「星」は死者であり、「追う」は旅。地下世界のアガルタが舞台なのに、タイトルが宇宙。新海誠は地下にも星を見出せる。想像力と創造力によって。
英題は『Children who Chase Lost Voices from Deep Below』。直訳すると「地下よりの失われた声を追う子どもたち」。星になったシュンを追う明日菜とシンのこと。星を追うこと、すなわち死とは何かを知ること、それらは自分を知ることでもある。
今作の舞台は新海誠のふるさと。かつて星を追う子どもだった自身が反映されており、此処ではないどこかを遠望する我々でもある。星にたどり着くことはできない。だが、わかっていてもなお追うことが人生。
我々は死ぬ運命にあり、死ぬとわかっているからこそ、今を激しく生きる。
この短いタイトルの中に、新海誠は「生」と「死」の意味を濃縮させている。
『星を追う子ども』一汁三菜

『星を追う子ども』は新海誠の故郷・小海町と新海誠が生まれた70年代が舞台。食材は信州米と信州味噌。劇中に登場するクドウ味噌は小海町に実在するお店。

母子家庭の明日菜は小学生だが、たくましさがあり少女と女性の境界線がない。自炊の生活力と同時に、ひとりで食事をする儚さが「さよならを知るための旅」という本作のテーマに伴奏している。食によって『星を追う子ども』がなんたるかを表現する新海誠の凄さ。

舞台をアガルタに移してからも、その能力が発揮される。初めての食材であっても明日菜はアガルタの地元料理を振る舞う。

明日菜は民族衣装とともに土地に完全に適応している。心なしか、信州の一汁三菜より少し豪華。4人で囲む食事。もう明日菜は独りではない。
『星を追う子ども』の民族衣装

『星を追う子ども』は完成度と点で新海誠の頂点にあたる作品。森崎は妻を生き返らせるため、明日菜はシュンを知るために地底世界のアガルタに向かう。
アモロートの村でふたりは一宿の世話になるが、森崎は地上のままの服。だが、明日菜はアガルタの民族衣装を着る。

この国に馴染めない森崎とは反対に、明日菜はアガルタから受け入れられ、明日菜のほうもアガルタの世界に寄り添っている。
外国を理解するにはご当地メシと同じ服を着ること。それが文化である。新海誠は衣装を並べることで、ふたりとアガルタの関係性、この先の未来を示した。
『星を追う子ども』の音楽
天門が奏でるピアノ音は「大自然」の音、匂い、囁きがある。それはアスナを包む子守唄。そして、目覚ましアラームに転調する。
そして『ほしのこえ』で宇宙のヒソヒソを音にした天門は、地底の星を奏でた。地底の星には潤いがある。瑞々しい星を届けた。
星を追う子どもをつかまえに
ほしのこえを聴きに
雲のむこう、約束の場所の舞台を巡る
秒速5センチメートルの舞台を追う
言の葉の庭の舞台を巡る
君の名は。を逢瀬する
天気の子を見上げる
すずめの戸締まりを旅する
彼女と彼女の猫を巡る
新海誠 もうひとつの世界
新海誠と新宿
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新海誠監督ご本人も気づかなった作品の深淵に迫った映画レビュー集です。