『カリオストロの城』の本編は冒頭の4分のみ。炎のたからものが終わるオープニングまで。冒険の舞台であるカリオストロ公国に向かう旅情こそが作品の心臓であり、ロードムービー。目的地に到着するまでが浪漫。
「旅とは風景を捨てること」と言ったのは寺山修司。旅とは目的地に行くまでが旅。目的地に着いてからはおまけ。カリオストロ公国に着いてからはエピローグ。
宮﨑駿はルパンに迫り、自分が表現したいことより借り物であるルパンの真実を見せることに集中した。
次元や五右衛門のエピソードを入れず、あえて存在(物語)を消すことで、逆に次元や五右衛門、峰不二子の存在感を際立たせた。
国営カジノからお金を盗んだとき、ゴート札を見たルパンは「過去と対話する」。泥棒としてやり残したことがある。宿題を持っているほうが人生は面白い。ルパンはニヤリと笑う。
そして過去に向かう。まだ出会ったことがないものに出会う旅ではなく、自分の原風景にケリをつける旅。過去を精算しにいく。
過去の忘れ物に気づいたルパンは言う。
「次元、次の仕事が決まったぜ」
それは次元大介に伝えているようで、自分自身に向けた言魂。ルパンの仕事=泥棒。何かを盗みに行く。何を盗むのか?偽札ではない。自分の過去を盗みに行く。過去を盗みに未来へ向かう。
次元は何も訊かず、何かを察知する。ルパンの情念を受け止める。理解したわけではない。次元は何も知らない。ルパンが語るまで自分からは訊かない。ルパンが何かを始めようとしている。だったら、その祭りに付き合おうじゃないか。その関係性を宮﨑駿は完璧に描いている。
フィアットからゴート札が風に舞う。ウエディング・カー。ルパンと次元の結婚式。ふたりは夫婦以上の関係。
幸せを訪ねて私は行きたい。寂しい心を温めてほしい。ハードボイルドの象徴だったルパンの女性的な部分を表出し、その心情を歌で吐露した。女ったらしなルパンほど内面は女性的。人恋しい。寂しがり屋。そのルパンの奥深くに次元が寄り添う。
宮﨑駿はルパンを女性化した。次元は旦那であり、奥さんがルパン。妻が話し出すまで旦那の次元は黙って付き合う。宮﨑駿しかできない。
クラリスの存在は副菜。この映画に副題をつけるなら「風と共に去りぬ」
クラリスにとってルパンは「風」である。頬をやさしく撫でる風であり、クラリスの情念の炎を燃え上がらせる風。風は人の心をやさしく盗んでいく。「風」は去っていく。クラリスは最後、ルパンに見せたことのない笑顔を愛犬に見せる。クラリスのルパンへの想いは尊敬。おじさんと少女の関係。ルパンはクラリスの心を裸にはできない。だからルパンは風のように去っていく。
ルパンと次元はフィアットに乗る。峰不二子はバイク。独り乗り。自立している。ルパンはどこまでも女性的。峰不二子が男性的。カリオストロの城は、クラリスという少女と、ルパンという女性を描いた女の映画なのである。だから監督は宮崎駿なのだ。宮﨑駿はルパンを女性として描くことで、アニメのキャラではなく人間として見つめ、捉えたのである。