
『ラスベガス万才』(原題:Viva Las Vegas)は、1964年公開のアメリカ映画。ネバダ州ラスベガスを舞台に、同じ女性をめぐって競い合う二人のレーシングドライバーを描いたミュージカル映画である。主演はエルヴィス・プレスリーとアン・マーグレット。砂漠の街ラスベガスを背景に、スピード、音楽、恋が一体となって走り出す。
スタッフ

- 監督:ジョージ・シドニー
- 原案:サリー・ベンソン
- 製作:ジャック・カミングス、ジョージ・シドニー
- 音楽:ジョージ・E・ストール
- 撮影:ジョセフ・F・ビロック
- 編集:ジョン・マクスウィニー・ジュニア
- 製作会社:ジャック・カミングス・プロダクションズ
- 配給:メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
- 公開:1964年5月20日
- 上映時間:85分
キャスト

- ラッキー・ジャクソン:エルヴィス・プレスリー
- ラスティ・マーティン:アン・マーグレット
- マンチーニ伯:チェーザレ・ダノヴァ
- マーティン氏:ウィリアム・デマレスト
- ショーティ:ニッキー・ブレア
あらすじ

自動車レーサーのラッキー・ジャクソンは、自ら設計したレーシングカーを完成させたものの、肝心のエンジンを買う資金が足りない。資金を稼ぐために訪れたラスベガスで、水泳コーチとして働くラスティ・マーティンと出会い、恋に落ちる。
一方、名声あるレーサーのマンチーニ伯もラスティに心を奪われ、二人は恋とレースの両方で競い合うことになる。ラッキーはラスベガスのホテルで働きながらチャンスを掴み、歌と踊り、賭けと偶然に身を委ねつつ、最後のレースへと向かっていく。
映画レビュー:走ること、恋すること、賭けること

『ラスベガス万才』は、深刻な葛藤や悲劇を描く映画ではない。だが、その軽やかさの奥には、はっきりとした人生観がある。それは「人はなぜ走るのか」という問いだ。
主人公ラッキーは、勝利のためだけに走る男ではない。金がなくても、宿を失っても止まらない。走ること自体が、存在証明だからだ。レースは目的ではなく、呼吸のようなもの。生きている限り、アクセルを踏み続ける。
ラスベガスという街もまた、同じ思想でできている。勝つか負けるか。当たるか外れるか。だが人々は結果よりも、「賭ける瞬間」に魅了される。街全体が、未来に賭ける衝動で回っている。ラッキーは、この街と同じ速度で生きている。
アン・マーグレット演じるラスティは、単なる恋の対象ではない。彼女はラッキーのブレーキ役でもある。危険なレースに身を投じる彼を心配し、止めようとする。だが、それは自由を奪う行為でもある。愛とは、相手を止めることではなく、走る姿を見届けることなのだと、この映画は静かに示す。
エルヴィス・プレスリーの歌と身体は、この哲学を言葉よりも雄弁に語る。歌いながら走り、踊りながら恋をする。その軽快さは、「人生は深刻に考えすぎると止まってしまう」という感覚を体現している。意味は後からついてくる。まずは動くことだ。
マンチーニ伯は、ラッキーの対極にいるようで、実はよく似た存在だ。名声も金もあるが、それでも競争をやめられない。勝者であっても、走る理由を失えば空虚になる。だから、賭け続ける。
終盤のレースは、勝利の物語というより、「自分の速度を見つける」物語だ。ラッキーは金のためでも、名誉のためでもなく、走ることで自分を肯定する。その結果として恋も勝利も手に入るが、それは副産物にすぎない。
『ラスベガス万才』は、人生を巨大な賭場として描く。そこで勧められるのは、冷酷な計算ではない。むしろ、失敗しても走り続ける軽さだ。止まらなければ、道はどこかにつながる。
この映画が放つ明るさは、単なる娯楽ではない。それは、「生きるとは、深く考える前に一歩踏み出すことだ」という、シンプルで力強い肯定である。ラスベガスのネオンの下で、エルヴィスはそう歌い、そう走る。人生もまた、それでいいのだと。
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