
『サタデー・ナイト・フィーバー』(原題:Saturday Night Fever)は、1977年公開のアメリカ映画。監督はジョン・バダム、主演はジョン・トラボルタ。ブルックリンの若者が、週末の夜だけディスコの王になる。ビージーズを中心にしたサウンドトラックは社会現象になり、サウンドトラック『サタデー・ナイト・フィーバー』が24週1位となった。
スタッフ

- 監督:ジョン・バダム
- 脚本:ノーマン・ウェクスラー
- 製作:ロバート・スティグウッド
- 音楽:ビー・ジーズ/デヴィッド・シャイア
- 撮影:ラルフ・D・ボード
- 編集:デイヴィッド・ローリンズ
- 配給:パラマウント映画/CIC
- 公開:1977年12月14日(アメリカ)/1978年7月22日(日本)
- 上映時間:118分
この映画は、1976年にニューヨーク・マガジンに掲載されたイギリス人作家ニック・コーンによる記事「Tribal Rites of the New Saturday Night」に着想を得た。最初は『サタデーナイト』という題で企画が転がり始めた。しかし、ベイ・シティ・ローラーズが1976年に同名の「サタデー・ナイト」をヒットさせていたため、映画を『サタデーナイトフィーバー』に変更した。
本作はニューヨーク州ブルックリンで全編ロケ撮影された。最初は、『ロッキー』のジョン・G・アヴィルドセンが当初監督として採用されたが、撮影開始1ヶ月前に「コンセプトの不一致」を理由にジョン・バダムに交代された。
キャスト

- トニー:ジョン・トラボルタ
- ステファニー:カレン・リン・ゴーニイ
- ボビー:バリー・ミラー
- ジョーイ:ジョセフ・カリ
- ダブルJ:ポール・ペイプ
- アネット:ドナ・ペスコウ
制作費の制約もあり、ジョン・トラボルタ以外のキャストの多くは無名で、この映画がデビュー作になった俳優も多い。日本では本作の影響で「フィーバーする」という言い方が広まった。
あらすじ

ブルックリンのベイリッジ地区に住むトニー・マネロは、実家で暮らし、金物店で働いている。昼の彼は普通だ。だが週末の夜、ディスコ「2001オデッセイ」に立つと、彼は拍手と視線を浴びる“別の自分”になる。
仲間たちと夜をうろつき、女性を追い、橋で無謀な遊びをする。近所の少女アネットはトニーに執着し、トニーは一度はダンスコンテストのパートナーを引き受けるが、やがてマンハッタンに憧れるステファニーに強く惹かれる。二人は練習を重ね、コンテストで優勝するものの、トニーは判定に差別の影を感じ、賞を他のカップルに譲る。
しかし夜は祝福だけで終わらない。仲間内の暴力や性的な逸脱が噴き出し、ついにボビーが橋から転落して死ぬ。嫌悪と幻滅を抱えたトニーは、落書きだらけの地下鉄でマンハッタンへ向かう。朝、彼はステファニーに謝り、ここから先を変えたいと言う。二人は、恋人ではなく友人として関係を結び直そうとする。
映画レビュー:なぜ踊るのか。橋はなぜそこにあるのか

『サタデー・ナイト・フィーバー』は、ダンス映画の顔をしながら、実際には「息ができる場所」を探す映画だ。物語は派手に見えるが、足場はいつも現実に沈んでいる。貧しさ、家族、差別、そして「ここから出たい」という衝動。ディスコは楽園ではなく、現実の重さを一晩だけ別の形に変える避難所として置かれている。
この映画でダンスは、自己表現というより“呼吸”に近い。トニーは踊ることで自由になるのではない。踊ることで、ようやく自分の身体が自分に戻る。昼のトニーは、家族の期待と失業と宗教と男らしさのルールに押し潰されそうになっている。褒められるのは、賃上げとダンスだけ。トニーの価値は、生活の中では確認されない。だから週末の夜に、価値を取り返しに行く。
ディスコは別世界に見えるが、実際は現実の裏返しだ。みんなが光の下で強く振る舞うほど、暗い部分も一緒に連れてくる。仲間たちは連帯しているようで、弱った人間を守る仁義を持っていない。笑いながら境界線を踏み越え、誰かの傷を「ノリ」で片づけてしまう。夜の高揚は、人を解放すると同時に、人の幼さも暴く。
ブルックリン・ブリッジは「若さが自分の置き場を探すための、いちばん高い踊り場」である。ブルックリンには生活がある。家族がいて、仲間がいて、息苦しさもある。マンハッタンには夢がある。洗練、仕事、別の言葉、別のテンポ。橋はその二つを分ける線であると同時に、どちらにも属しきれない人間が、踏み入れるギリギリの国境線だ。
青春は「ここではないどこか」を欲しがるが、同時に、どこへ行っても自分を連れていってしまう。だから橋が青春の場所になる。橋の上は、出発でも到着でもない。まだ決まっていない時間が宙に浮いたまま流れている。トニーたちが橋へ行くのは、景色が綺麗だからだけではない。家の天井も、仲間内の序列も、宗教の視線も、いったん遠ざかる。風が強く、足場が硬く、空が広い。何者でもない自分を、何者かに変えたい衝動だけが残る。
この映画を観てブルックリン・ブリッジに行きたくなるのも、そこに物語の観光名所以上の感触があるからだ。橋は、若さの矛盾をそのまま立たせてくれる。行きたいのに怖い、変わりたいのに変われない、置いていきたいのに捨てられない。その全部を、橋はただ受け止める。ディスコが人工の光で現実を忘れさせる場所だとしたら、橋は自然の光と風で、現実を忘れずにいさせる場所だ。ブルックリン・ブリッジは、自分の人生を選び直すための、外気浴」のような空間になる。
トニーの部屋に貼られた『ロッキー』やブルース・リーや『セルピコ』のポスターも、ただの趣味ではない。強く、正しく、孤独に闘う男たちへの憧れだ。現実のトニーは、そうは振る舞いきれない。仲間の空気に流され、怒りを誤魔化し、取り返しのつかない場面で立ち尽くす。踊る姿が美しいのは、踊っている間だけは、その矛盾が一つの形にまとまるからだ。踊りは、トニーの中のバラバラを一瞬だけ整列させる。
ステファニーの部屋にマティスの《ジャズ》がある、という小さなディテールも効いている。ジャズは、即興で、ズレながら、でも前に進む音楽だ。マティスの《ジャズ》は、切り紙の色面でリズムを描く。彼女の憧れは、上品さというより、「自分で人生のテンポを決めること」に近い。トニーは彼女に惹かれながら、そのテンポについていけない。だから衝突する。恋愛を美談にせず、「違う世界を望む二人が、どう噛み合わないか」をちゃんと見せる。
トニーが優勝を拒み、賞を譲る場面は、何かが壊れた結果だ。勝つことの気持ちよさより、勝たせてもらった空虚さが勝った。拍手より、恥のほうが重くなった。初めて、夜のルールが現実の歪みとつながっていると気づく。。
それでも最後が救いなのは、完璧に変わったからではない。変われない自分を、言葉にして差し出したからだ。謝る。関係を結び直す。それは、地味な修復。ダンス映画のラストとしては地味すぎるほど地味だが、ここに未来がある。
『サタデー・ナイト・フィーバー』は、輝くダンスフロアの映画ではなく、橋と地下鉄の温度の映画だ。踊りは、現実に押し返されながら、それでも一歩だけ前へ出るための、折れかけた心を折らないための、最小限の抵抗だ。
最後に流れるビージーズの「愛はきらめきの中に」は、堕ちた朝に似合う光を持っている。ディスコで鳴っていたときの曲は、高揚を支える装置だった。だが地下鉄を降り、ステファニーの部屋にたどり着き、キスという小さな許しに触れた瞬間、メロディが別の意味に変わる。
大きな夢の約束ではない。人生がすぐ良くなる保証でもない。それでも、今夜だけは呼吸ができる、という感覚。その“きらめき”は床の光ではなく、やっと誰かに届いた言葉の上に生まれる。踊りが終わっても、人生は続く。その続き方を、この曲が静かに抱きしめる。
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