シネマの流星

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『麗しのサブリナ』〜憧れを脱いだとき、恋ははじまる

『麗しのサブリナ』〜憧れを脱いだとき、恋ははじまる

『麗しのサブリナ』(原題:Sabrina)は、1954年公開のアメリカ映画。監督はビリー・ワイルダー。主演はハンフリー・ボガート、オードリー・ヘプバーン、ウィリアム・ホールデン。富豪の屋敷の「運転手の娘」だったサブリナが、パリで変貌し、帰ってきたことで始まる三角関係を描く。

スタッフ

  • 監督・製作:ビリー・ワイルダー
  • 脚本:ビリー・ワイルダー、サミュエル・テイラー、アーネスト・レーマン
  • 原作:サミュエル・テイラー(戯曲『麗しのサブリナ』)
  • 音楽:フレデリック・ホランダー
  • 撮影:チャールズ・ラング Jr.
  • 編集:アーサー・シュミット
  • 配給:パラマウント映画
  • 公開:1954年9月17日(アメリカ)/1954年9月22日(日本)
  • 上映時間:113分

原作は、サミュエル・テイラーの戯曲『麗しのサブリナ』だが、先に舞台より映画が公開されている。

ジバンシィが提供した衣装によって、サブリナパンツというファッション文化を生み出した。公開当時、オードリーの髪型は「サブリナ・カット」として大流行した。

キャスト

『麗しのサブリナ』〜憧れを脱いだとき、恋ははじまる

  • ライナス・ララビー:ハンフリー・ボガート
  • サブリナ・フェアチャイルド:オードリー・ヘプバーン
  • デイビッド・ララビー:ウィリアム・ホールデン
  • オリバー・ララビー:ウォルター・ハムデン
  • トーマス・フェアチャイルド:ジョン・ウィリアムズ
  • エリザベス・タイソン:マーサ・ハイヤー

当初、ライナス役にはケーリー・グラントが予定されていたが、撮影1週間前になって出演を断ったため、ハンフリー・ボガートが起用された。

出演料は、ボガートが30万ドル、ウィリアム・ホールデンが12万5000ドル、主演2作目であるオードリー・ヘプバーンは1万5000ドルだった。

あらすじ

ロングアイランドの大富豪ララビー家。運転手の娘サブリナは次男デイビッドに恋をしているが、彼は彼女を見ていない。絶望したサブリナは自殺を図り、長男で仕事の鬼・ライナスに救われ、パリへ渡る。

2年後、洗練された女性として帰国したサブリナにデイビッドは夢中になる。しかし彼には家の都合で婚約が用意されている。家の事業のため、サブリナを「排除すべき障害」と見なしたライナスは、彼女を弟から引き離そうと動くが、やがて自分が彼女に惹かれていることに気づいていく。計算で始まった関係は、いつしか本人の人生を動かす選択に変わっていく。

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映画レビュー:シンデレラではない。対等になる物語

『麗しのサブリナ』〜憧れを脱いだとき、恋ははじまる

『麗しのサブリナ』の面白さは、三角関係が“若さの勝利”でも“誠実さの勝利”でもない点にある。サブリナがパリで手に入れたのは、単に服や髪型ではない。いちばん大きいのは、自分を見下ろす視線を内面から追い出したことだ。

前半のサブリナは、恋をしているのではなく、下から上を見ている。憧れの家、憧れの男、憧れの生活。その視線は切ないが、同時に危うい。憧れは、相手を人間にしない。像にしてしまう。だからサブリナは傷つく。自分が「見られていない」事実に耐えられないのではなく、自分が“見る側”に立てていないことに耐えられない。

パリは彼女を変えるが、変化は魔法ではない。自分の輪郭を自分で引き直した結果だ。サブリナが放つ自信の言葉は、背伸びではなく、価値の置き場所が変わった合図になる。恋はそのあとに来る。ワイルダーの演出はロマンチックに見えて、順序が冷静だ。

一方、ライナスはビジネスという檻の中にいる。計算、合理、損得。「恋」を知らないのではない。「恋が入り込む余地」を生活から削ってきた男だ。サブリナを遠ざけるための策が、逆に自身の硬い部分を壊していく。恋とは、相手を得ることではなく、自分の計画の外側に対象がいると認めることなのだと、この映画は言っている。

終盤、船とパリへ向かう流れが効いている。パリは“洗練”の土地ではなく、サブリナにとって「自分を自分として扱ってくれた場所」だ。だからこそ、彼女が戻ろうとするのは恋の逃避ではない。自分の尊厳の回収である。そこへライナスが追いつく。追いつくという行為は告白より重い。ライナスは初めて、計画を捨てて走る。

数字と契約書で世界を動かしてきた男が、損得を超えて身体を動かす。その瞬間、ライナスは“成功者”から“ひとりの人間”へと降りてくる。

重要なのは、サブリナがライナスを待っていないことだ。彼女は誰かに選ばれるためにそこにいるのではない。自分で戻ると決め、自分で去ると決める。その主体性があるからこそ、ライナスの追走は“奪う行為”にならない。

『麗しのサブリナ』はシンデレラ物語のように見えて、実は逆だ。王子に見初められて人生が変わる話ではない。自分の価値を自分で引き受けた結果、恋が対等になる話だ。

デイヴィッドは若さと衝動の象徴だが、魅力は軽やかさにある。軽やかさは、風向きで変わる。ライナスは重い。しかし重さは、変わるときに音を立てる。サブリナが最終的に向き合うのは、輝きではなく、変わろうとする意志だ。

この映画が優れているのは、三角関係を勝敗で描かない点にある。デイヴィッドが劣っていたわけではない。サブリナが成長したことで、釣り合わなくなっただけだ。恋は奪い合いではなく、時間差で生じる“現在地の違い”なのだと、この物語は静かに示す。

そしてラスト。船上での再会は劇的でありながら、どこか穏やかだ。サブリナはもう、見上げる少女ではない。ライナスもまた、見下ろす男ではない。ふたりは同じ高さに立っている。若さでも、誠実さでもなく、対等であること。この映画の本当のロマンは、そこにある。

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オードリーの魅力:軽さの中に、決断の芯がある

『麗しのサブリナ』〜憧れを脱いだとき、恋ははじまる

オードリーの魅力は「可憐さ」だけでは終わらない。軽い所作で場を明るくしながら、目の奥にだけ硬い芯を残す。サブリナの“変貌”が嘘に見えないのは、衣装や髪型より先に、目線の高さが変わるからだ。

ジバンシィの衣装が生んだサブリナ・パンツや、サブリナ・カットの流行は外側の現象にすぎない。本質は、オードリーが「洗練」を“飾り”ではなく“姿勢”として演じた点にある。背筋、歩幅、間の取り方。彼女は「私はサブリナよ」と言う以前に、もう身体がそう宣言している。

そして、オードリーは恋愛の場面で泣き落としをしない。媚びない。恨まない。むしろ、傷ついても自分の足で立つ。その立ち方が観客の心を動かす。可憐なのに、依存しない。

サブリナは、感情を爆発させない。失恋しても、利用されかけても、相手を責め立てない。その代わり、静かに距離を取る。静かに立ち去る。そこにあるのは受動ではなく、選択だ。

オードリーの身体は、いつも少しだけ前に重心がある。受け身ではない。受け止める姿勢だ。だから彼女が沈黙するとき、その沈黙は意志になる。

軽さの中に芯がある。華奢なのに折れない。柔らかいのに、曲がらない。

それがオードリー・ヘプバーンという女優の特異性だ。

彼女は“守られる女性”を演じていない。守られなくても立てる女性を演じている。

だから観客は彼女に憧れる。美しいからではない。自分で立つ姿が、美しいからだ。

 

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