シネマの流星

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『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

『ライアンの娘』(原題: Ryan's Daughter)は、1970年のイギリス映画。アイルランド独立戦争前のアイルランド島の寒村を舞台に、駐在しているイギリス軍将校と、その村に住む人妻ロージーとの不倫を通して描かれるヒューマン・ドラマ。人々の誤解、嫉妬、欲望が、孤立した村で渦を巻き、ひとつの不倫が人間関係と共同体を揺るがす。

スタッフ

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

  • 監督:デヴィッド・リーン
  • 脚本:ロバート・ボルト
  • 製作:アンソニー・ハヴロック=アラン
  • 音楽:モーリス・ジャール
  • 撮影:フレディ・ヤング
  • 編集:ノーマン・サヴェージ
  • 配給:MGM
  • 公開:1970年

監督は『戦場にかける橋』や『アラビアのロレンス』『ドクトル・ジバゴ』などのデヴィッド・リーン。撮影はアイルランドのディングル半島で行われた。

キャスト

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

  • チャールズ・ショーネシー:ロバート・ミッチャム
  • ロージー・ライアン:サラ・マイルズ
  • ランドルフ・ドリアン少佐:クリストファー・ジョーンズ
  • トーマス・ライアン:レオ・マッカーン
  • コリンズ神父:トレヴァー・ハワード
  • マイケル(村の知恵遅れの青年):ジョン・ミルズ

あらすじ

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

1916年、イースター蜂起の失敗後。アイルランド独立運動の火がくすぶる寒村キラリーに、教師チャールズが戻ってくる。チャールズを待っていたのは、村一番の美貌と噂されるロージー。年の離れた二人は結婚し、村人に祝福されるが、初夜から“心と身体のすれ違い”が始まる。

そんなロージーの前に、戦争で心を壊したイギリス軍将校ランドルフが赴任する。負傷した身体と孤独は、ロージーの満たされぬ想いと引き寄せ合い、二人は密かな関係へと落ちていく。その姿を、村の知恵遅れの青年マイケルは陰から見つめていた。

一方、独立派はドイツからの武器密輸を計画。しかし密告によって作戦は破綻し、村にはイギリス軍への憎悪が渦巻く。その怒りは、ロージーへと向けられ、彼女は“裏切り者”としてリンチにかけられてしまう。

暴力の只中で、夫チャールズは身を挺してロージーを守り抜く。その姿に、ロージーはようやく彼の深い愛を知るが、すべては遅すぎた。村を捨てるように二人は街を離れていく。神父が「二人は別れるのか」と問うと、チャールズは静かに頷く。「わからん。その疑問がお前への花向けだ」。二人の未来も、愛のゆくえも、答えはない。ただ、アイルランドの荒波だけが、ふたりの選んだ別れを静かに飲み込むのだった。

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映画レビュー:愛した人を救えないとき、何を抱えて生きていくのか

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

『ライアンの娘』は、不倫の物語ではなく、「未熟な愛」と「遅すぎる愛」がぶつかり合う物語である。ロージー、ランドルフ、チャールズ、そして村全体。誰もが誰かを求めているのに、求め方が下手すぎて、みんなが少しずつ壊れていく。

ロージーが欲しがっているのは、恋愛そのものというより、「自分の人生が燃えている手応え」だ。年上で穏やかなチャールズとの結婚は、優しさと安定をくれるが、身体の熱を受け止めるには足りない。初夜のつまずきは、ただのセックスの問題ではない。ロージーにとって「私は女としてちゃんと見られているのか?」という問いが、最初の夜から空中に放り出されたままになる。

そこに現れるのが、戦場帰りで心身ともに傷ついたランドルフだ。ロージーの飢えた視線と、ランドルフの壊れかけた眼差しは、最初から健康的ではない。互いの「欠け」を埋めるのではなく、「穴と穴」がくっついたような関係だ。それでも、二人が木立の中で抱き合う場面には、どうしようもない切実さがある。満たされない妻と、戦争に魂を置き忘れてきた男が、一瞬だけ「生きている」と錯覚できる時間。それは間違いでありながら、嘘とも言い切れない感情だ。

一方、チャールズの愛は、あまりに静かで、あまりに遅い。ロージーを深く想っているのに、その想いを「正しさ」と「我慢」のフィルターに通してしまう。問いたださない、責めない。その優しさは、ロージーから見れば「私を女として見ていない」という別の暴力になる。それでも最後まで選ぶのは、ロージーを罰することではなく、「彼女のいる場所に、ともに立ち続けること」だ。これは、夫としては滑稽で、男としては惨めで、しかし人間としては恐ろしいほどの誠実さでもある。

物語の途中から、舞台は個人の感情を超えていく。村人たちの憎しみ、独立運動の高揚、裏切り者探し。アイルランドの歴史と鬱屈が、すべて「ロージーの身体」に押しつけられる。村人はロージーを責め、髪を刈り、服を剥ぎ、彼女を見世物にする。

ここで村が求めているのは、真実ではない。自分たちの怒りを安全にぶつけられる「標的」だ。罰したいのではなく、混乱した世界の不安を、誰か一人に背負わせたい。

この映画が重く、長く、心に残るのは、誰も「完全には間違っていない」し、誰も「完全には正しくない」からだ。

ロージーの欲望も、ランドルフの逃避も、村人たちの怒りも、チャールズの沈黙も、どれも人間の証明と恐れの別の顔にすぎない。

村を去るバスに乗る二人。チャールズは、神父に「別れるのか」と問われ、無言で頷く。そして神父が言う。「わからん。その疑問がお前への花向けだ」

ここが、この映画の哲学の核心だ。

チャールズは、ロージーを本当に理解できたのか?ロージーは、チャールズの愛を本当に受け取れたのか?どれも「わからない」。人生は、はっきりした答えが出ないまま続いていく。その「わからなさ」ごと相手を抱きしめることしか、人にはできないのだと映画は告げている。

『ライアンの娘』は、不倫を裁く物語ではなく、「人は、愛した相手のすべてを理解することなんてできない」と、アイルランドの風と嵐の中に刻み込んだ映画だ。

それでも人は、傷つきながら、勘違いしながら、誰かの側に立とうとする。その不完全さこそが、人間の愛のいちばん深い場所なのだと、この長い物語は、教えてくれる。

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