シネマの流星

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『ピンクの豹』〜優雅に転ぶ、不条理はエレガンスのかたちでやってくる

『ピンクの豹』〜優雅に転ぶ、不条理はエレガンスのかたちでやってくる

『ピンクの豹』(The Pink Panther)は、1963年製作のアメリカ映画。ブレイク・エドワーズ監督、音楽ヘンリー・マンシーニ。イタリアの雪原とローマの夜を背景に、貴族にして大怪盗(デヴィッド・ニーヴン)、王女、愛人、そして空回りの警部クルーゾー(ピーター・セラーズ)が絡み合う“恋と宝石”のコメディである。オープニングではフリッツ・フリーレングのアニメと実写がフュージョンし、後に独立した人気キャラクターとなるピンクパンサー像を生んだ。マンシーニの主題は、映画が終わっても口笛に残る。

スタッフ

監督:ブレイク・エドワーズ
脚本:モーリス・リッチマン、ブレイク・エドワーズ
製作:マーティン・ジュロー
製作総指揮:ウォルター・ミリッシュ(ノンクレジット)
音楽:ヘンリー・マンシーニ
撮影:フィリップ・H・ラスロップ
編集:ラルフ・E・ウィンタース
配給:ユナイテッド・アーティスツ
公開:1963年12月18日(伊)/1964年2月29日(日)/1964年3月18日(米)
上映時間:115分
製作国:アメリカ

キャスト

『ピンクの豹』〜優雅に転ぶ、不条理はエレガンスのかたちでやってくる

チャールズ・リットン卿(怪盗ファントム):デヴィッド・ニーヴン
クルーゾー警部:ピーター・セラーズ
ダーラ王女:クラウディア・カルディナーレ(※本文に名はないが実作の王女役)
シモーヌ:カプチーヌ
ジョージ:ロバート・ワグナー

あらすじ

『ピンクの豹』〜優雅に転ぶ、不条理はエレガンスのかたちでやってくる

中東の王女ダーラは、革命の余波から逃れてコルティーナに滞在。彼女の宝石は、内部に豹の影が浮かぶ名ダイヤ「ピンク・パンサー」。その宝石を狙い、英国貴族にして怪盗ファントムのリットン卿が接近する。

一方、ファントム逮捕に燃えるクルーゾー警部も現地入りするが、妻シモーヌは実はリットンの愛人で、情報は筒抜け。そこへ甥ジョージまで加わり、恋と利害の四角関係が雪上からローマへ転がっていく。

仮装パーティーの夜、三者三様の思惑が交錯。ダイヤは王女の手で一旦“消され”、市街チェイスの末に連行されたのは意外にもクルーゾー。裁判でポケットから転がり出たのは、盗まれたはずの宝石——。喝采の中、世は誤解を抱いたまま、クルーゾーだけが“伝説の大怪盗”として勘違いの名声を得る。

映画レビュー:『ピンクの豹』

『ピンクの豹』〜優雅に転ぶ、不条理はエレガンスのかたちでやってくる

『ピンクの豹』が面白いのは、泥棒のトリックよりも、この世界そのものが勘違いで動いているところにある。誰もが誰かを装い、欲望は仮面をかぶっている。怪盗は貴族の顔をして、妻は愛人を演じ、王女は政治を恋に変える。いちばん正義感の強い警部・クルーゾーが、最後には“伝説の怪盗”として誤解されてしまう。

ここで描かれているのは、「真実よりも、語られた物語のほうが現実を支配する」という皮肉だ。

ブレイク・エドワーズ監督は、笑いを通して“世界の不条理”を描いた。クルーゾー警部が部屋に入るたびに、ものが壊れ、計画は狂う。何をしてもうまくいかないが、それでも前に進もうとする。このドタバタこそが、世界が偶然でできていることを受け入れるためのリズムになっている。

滑稽さは失敗ではなく、「不完全な世界でどう生きるか」という優雅な答えなのだ。

オープニングのアニメーションは、そんな映画の哲学を象徴している。ピンクの豹がクレジットの文字と戯れ、実写の世界に飛び込んでくる。アニメと実写の境目が消え、映画そのものが“遊び場”になる。『ピンクの豹』は、ただの実写+アニメの融合ではない。「映画という現実を、虚構が自由に操ることができる」という宣言だった。

そして、ヘンリー・マンシーニのテーマ曲。あの気だるいサックスが鳴ると、すべてが許されるような気分になる。罪も、失敗も、音楽のリズムに溶けていく。

テーマ曲「The Pink Panther Theme」は、音楽というよりも“歩き方”に近い。ベースが一歩ごとに忍び寄り、サックスがウインクを交わす。それは、怪盗ファントムの足音であり、同時に人生のいたずらのリズムでもある。人は皆、何かを盗みながら生きている。時間を、チャンスを、あるいは誰かの心を。その罪悪感を、マンシーニの音楽はユーモアで包み、優しく許してくれる。

この音楽がすごいのは、“物語を支配しない”ことだ。どんな場面にも、音楽が少し遅れて寄り添う。それが映画の空気をふっと柔らかくする。エドワーズの映像が構築したリズムに、マンシーニは呼吸を与えた。だからこの映画では、笑いと音が一体になって“スタイル”を作っている。それは、ただの喜劇音楽ではなく、人生の間(ま)をデザインする音楽だった。

この映画では「正しさ」よりも、「どう転ぶか」が大切なのだ。転んでもスマートに見せれば、それが人生のユーモアになる。だからこそ、クルーゾーが最後に“勘違いの英雄”になる展開は、単なるギャグではなく、世界の成り立ちそのものへのジョークである。『ピンクの豹』が今も愛されるのは、それが“幸せな不完全さ”を描いているからだ。完璧ではない世界で、優雅に転ぶ。その美学。映画やマンシーニの音楽は、それを最もチャーミングな形で教えてくれる。『ピンクの豹』の根底に流れるものは、日本の落語なのである。

1960年代前半のアメリカ映画への影響

『ピンクの豹』〜優雅に転ぶ、不条理はエレガンスのかたちでやってくる

1960年代初め、ハリウッドは変わりつつあった。テレビが勢いを増し、古いスター映画は時代遅れになりつつあった。『ピンクの豹』は、そんな時代に「新しいおしゃれさ」を見せつけた作品だった。

まず第一に、この映画は国際的な舞台とスタイルの時代を開いた。イタリアのスキーリゾートやローマの街を使い、華やかで軽やかな空気を作り出した。この流れは『シャレード』(63年)や『おしゃれ泥棒』(66年)など、ヨーロッパを舞台にしたロマンティック・サスペンス映画と並走する。

第二に、タイトルデザインと音楽が映画の顔そのものになった。ピンクパンサーというキャラクターは、オープニングから独立して人気を得た。そしてマンシーニのテーマ曲は、サウンドトラック文化を広げ、映画の“イメージを音で売る”時代をつくった。「音楽が映画のブランドを作る」という考え方が、007シリーズなどと共に時代を走る。

第三に、この映画は、無能な権力者”を愛すべき存在に変えた。ピーター・セラーズ演じるクルーゾー警部は、真面目なのに空回りばかり。でもその姿が、どこか人間らしくて魅力的だった。ここに、後の60年代的な「反権威の笑い」が始まる。

社会の正しさよりも、失敗する人間の面白さを愛でる。それがアメリカのコメディの新しい流れを作った。

『ピンクの豹』は、そうした時代の転換点にあった。重厚なドラマや正義の物語ではなく、“軽さとスタイル”で世界を笑う映画。その軽やかさこそ、60年代という時代の自由とユーモアの象徴だったのだ。

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