シネマの流星

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『郵便配達は二度ベルを鳴らす』〜一度目は誘惑、二度目は精算、欲望が鳴らす呼び出し音

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』〜一度目は誘惑、二度目は精算、欲望が鳴らす呼び出し音

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(原題:Ossession)は、1943年のイタリアの犯罪ドラマ映画。ルキノ・ヴィスコンティ監督の長編処女作で、出演はマッシモ・ジロッティとクララ・カラマイなど。原題の「Ossession」は、イタリア語で「執着」の意味。 原作はジェームズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』だが、原作者の許諾を得ることなく映画化された違法な作品であるため、イタリア公開時に数日で上映禁止となり、長らく「幻の処女作」と呼ばれていた。

スタッフ

  • 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
  • 脚本ルキノ・ヴィスコンティ、マリオ・アリカータ、ジュゼッペ・デ・サンティス、ジャンニ・プッチーニ
  • 原作:ジェームズ・M・ケイン『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』
  • 製作:カミッロ・パガーニ
  • 音楽:ジュゼッペ・ロゼーティ
  • 撮影アルド・トンティ、ドメニコ・スカーラ
  • 編集:マリオ・セランドレイ
  • 製作会社:インダストリエ・チネマトグラフィケ・イタリアーネ(I.C.I.)
  • 配給:I.C.I.、インターナショナル・プロモーション
  • 公開1943年5月16日(イタリア)、1979年5月26日(日本)
  • 上映時間:140分

キャスト

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』〜一度目は誘惑、二度目は精算、欲望が鳴らす呼び出し音

  • ジーノ:マッシモ・ジロッティ
  • ジョヴァンナ:クララ・カラマイ
  • ブラガーナ(食堂の店主):ファン・デ・ランダ
  • アニータ(ジーノが関係を持つ女性):ディーア・クリスティアーニ
  • スペイン人(旅芸人):エリオ・マルクッツォ
  • 刑事:ヴィットリオ・ドゥーゼ

あらすじ

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』〜一度目は誘惑、二度目は精算、欲望が鳴らす呼び出し音

北イタリア・ポー川沿いの食堂に現れた風来坊ジーノは、店主ブラガーナの若い妻ジョヴァンナと惹かれ合い、その日のうちに肉体関係を結ぶ。二人は夫の目を盗み駆け落ちを試みるが、ジョヴァンナは放浪生活に耐えられず戻ってしまう。

ジーノは列車で知り合った旅芸人の“スペイン人”と共に各地を放浪し、ジョヴァンナを忘れようとする。しかし旅先でブラガーナ夫妻と再会してしまい、そのまま三人で車に乗ることになる。戻る途中、ジーノとジョヴァンナはブラガーナ殺害を決意し、事故を装って実行する。

だが、罪を共有した二人の間には不信と疑念が渦巻き、ジーノは別の女アニータのもとへ通うようになる。さらにブラガーナの生命保険の存在が疑念を深め、二人は警察に追われる身となる。

ジーノはジョヴァンナへの疑いを抱きつつも、彼女が自分の子を身ごもっていると知り、共にやり直す決意を固める。しかし逃亡途中に車が事故を起こし、ジョヴァンナは死亡。直後に警察が到着し、ジーノは連行される。

映画レビュー:欲望は、道ではなく“沼”である

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』〜一度目は誘惑、二度目は精算、欲望が鳴らす呼び出し音

ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を観ると、物語の中心にあるのは犯罪でも不倫でもないと気づく。ここで描かれているのは、欲望が人間にどんな“重さ”を与えるのかという、もっと素朴で、もっと避けがたい事実だ。

北イタリアの食堂にふらりと現れたジーノと、閉塞した空間に押し込められたジョヴァンナ。二人の関係は恋でも情熱でもなく、もっと泥のように濁っていて、もっと抗いがたい。ヴィスコンティはこの泥を“運命”ではなく、“選択の積み重ね”として描く。

選んだ瞬間は軽い。だが積み重なると、動けなくなる。その粘りつく重さが、この映画全体にまとわりついている。

ジョヴァンナは夫ブラガーナとの生活から逃れたいと願うが、その願いは自由ではなく、「誰かに自分を救ってほしい」という依存の形をしている。

ジーノも同じで、自由を求めながら、結局は誰かの影に引き戻される。二人は似ているようで、実は正反対の方向に傷ついていて、だからこそ互いを埋め合わせようとしてしまう。この関係は積極的な愛ではなく、消耗し合う安堵だ。その安堵こそが、最も逃れがたい。

ブラガーナ殺害も、計画というより“濁りの果て”だ。何かを得ようとしたというより、何も変えられない自分たちを壊したかっただけ。ヴィスコンティは、この行為を劇的に盛り上げず、むしろ淡々とした日常の延長に置く。人生の破綻は、こんなふうに静かで、こんなふうに笑えない。

犯行後、二人の間に流れるのは幸福でも達成でもなく、「逃げても、結局は同じ自分に追いつかれる」という諦め。ジーノはジョヴァンナを疑い、ジョヴァンナは疑われることを恐れ、二人は愛しながらも相手の存在によって沈んでいく。

ヴィスコンティはここで、人を破滅させるのは罪ではなく、罪によって裸にされた“本当の自分”であることを示す。自分の弱さに直面したとき、人は自由どころか、より深い沼に沈んでいく。

ラストの転落は、罰ではない。むしろ「これ以上沈まないための終わり方」である。ジョヴァンナの死は唐突ではなく、二人の濁った関係が行き着く必然の底だ。警官に連行されるジーノの姿は、悲劇というより、やっと“立つ場所”を得た人間の姿。

何の居場所もなく流れてきた男が、何の自由もなく生きてきた女に出会い、互いの欠落を埋めようとして、互いの欠落に呑み込まれていく。

この映画が切ないのは、登場人物たちが悪いからではない。誰よりも不器用で、誰よりも人間的だからだ。

『Ossessione(執着)』という原題が指すものは、愛ではなく、自由でもなく、抜け出せない“生き方の癖”だ。人は欲望によって走り出すのではない。欲望によって立ち止まれなくなるのだ。

ヴィスコンティの処女作とは思えないほど、この映画は人間の“にごり”をよく知っている。その"にごり"を、責めず、飾らず、ただそこにあるものとして映し続ける。

人生の泥にまみれ、道ではなく沼を歩いてしまう人間たちの姿を、これほど静かに、これほど残酷に、これほど優しく描いた映画は多くない。

タイトルの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」が示すもの

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』〜一度目は誘惑、二度目は精算、欲望が鳴らす呼び出し音

この映画には、文字どおりの郵便配達員も、二回ベルを鳴らすショットも出てこない。
それでも、しっくりくるのは、「ベル」が人生からの“呼び出し音”として機能しているからだ。

一度目のベルは、まだ選べる。北イタリアの食堂にジーノが現れた瞬間、ジョヴァンナの心の中で最初のベルが鳴る。このまま退屈だが安全な生活を続けるのか、それとも、どこへ転ぶか分からない欲望に身を預けるのか。この段階では、まだ引き返せる。「猶予」の時間だ。

二度目のベルは、もう選べない。ブラガーナ殺害を決意し、車のハンドルを握ったとき、二人はその第二のベルに応答してしまう。そこで鳴っているのは、「やり直しますか?」ではなく、「あなたが選んだ結果を受け取りますか?」という問いだ。

一度目のベルは誘惑であり、二度目のベルは精算。

タイトルに込められているのは、「人生は大事な場面で必ず二度呼ぶ。一度目は可能性として、二度目は請求書として」という、にがい実感。

ジーノとジョヴァンナは、一度目のベルが鳴ったとき、自分が何を求めているのかをはっきり見ようとしない。ただ退屈から逃れたい、この閉塞から出たい。その“ぼんやりした欲望”のままに動く。

だから二度目のベルが鳴ったとき、何が請求されているのか自分でも分からない。分からないまま、すべてを失っていく。

ベルは、人生が人に与える「確認」のタイミングだ。そのとき、何を見ているか。相手の目なのか、自分の欲望なのか、金なのか、恐怖なのか。

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』というタイトルは、この「確認」を一度逃した者に、もう一度だけチャンスを与える。しかし、その二回目はもはや“選択”ではなく、“責任”としての呼び出しになる、と告げている。

ジーノがラストで連行されていく姿は、犯罪者の末路ではなく、二度目のベルにようやく応答した人間の姿。あの瞬間、初めて、自分が何をしてきたのかと向き合わざるをえない場所に立たされる。

自由も愛も手にしてはいないが、「自分の物語には自分が署名をした」という事実だけは、やっとそこに生まれる。