シネマの流星

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『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

『愛のメモリー』(原題:Obsession)は、1976年のアメリカ映画。アルフレッド・ヒッチコック『めまい』へのオマージュとして構築されたサイコスリラーであり、“喪失した女性をもう一度つくり直そうとする男”という欲望を、デ・パルマは宗教画のような映像美とバーナード・ハーマンの遺作となる音楽で包み込む。

物語は二度の誘拐事件を軸にしながら、「愛」と「記憶」が混ざり合う領域へ踏み込む。人物の心理よりも、過去に呪縛される精神の構造そのものを描いた作品であり、“亡き妻の面影に人生を捧げる”男の盲目さが、フィレンツェの聖堂の静けさの中で、ゆっくりと崩壊していく。

スタッフ

  • 監督:ブライアン・デ・パルマ
  • 脚本:ポール・シュレイダー
  • 原案:ブライアン・デ・パルマ、ポール・シュレイダー
  • 音楽:バーナード・ハーマン
  • 撮影:ヴィルモス・スィグモンド
  • 編集:ポール・ハーシュ
  • 配給:コロンビア映画
  • 公開:1976年
  • 上映時間:98分

キャスト

『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

  • マイケル・コートランド:クリフ・ロバートソン
  • サンドラ/エリザベス:ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド
  • ロバート・ラッセル:ジョン・リスゴー

井筒監督は、『愛のメモリー』を、大阪の新世界のために作られた映画だという。井筒監督は『愛のメモリー』という陳腐な邦題より『愛の色即是空』のほうが良いという。

あらすじ

『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

1959年、ニューオーリンズ。資産家マイケルは、結婚10周年の夜に妻エリザベスと娘エイミーを誘拐される。警察を動かした結果、誘拐犯の車は橋から転落し、二人は死亡したと告げられる。マイケルは深い罪悪感のまま時を止めたように生き続け、妻と出会った聖堂を模した壮麗な墓を建てる。

1975年。共同経営者ロバートとともに訪れたフィレンツェで、マイケルはエリザベスと瓜二つの女性サンドラに出会う。奇跡的な再会に導かれるように二人は恋に落ち、マイケルは“妻の死からやり直せる”という幻想にすがるように彼女との結婚を決める。しかし帰国後、サンドラは何者かに誘拐され、過去の事件が再びゆっくりと蘇る。やがて二つの誘拐事件をつないでいたのは、マイケルのもっとも信頼する男の長年の企みだった。愛、記憶、罪悪感――マイケルが見つめていたのは“女”ではなく、“失った時間”そのものだったことが明らかになる。

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映画レビュー:過去を取り戻そうとするとき、人は誰を愛しているのか

『愛のメモリー』〜記憶という牢獄、男は女ではなく“失われた時間”を愛していた

『愛のメモリー』は、表向きは誘拐事件のミステリーだが、その奥で語っているのは、「喪失した者を再び作り直そうとする愛は、本当に愛なのか」という深い問いである。

マイケルは妻エリザベスを失った瞬間から時間が止まる。建てた巨大な墓は記念碑ではなく、凍った記憶そのもの。そこには悲しみよりも、「あの日の妻を永遠化したい」という強い願望が刻まれている。マイケルは喪った人を悼むのではなく、喪った“瞬間”を保存しようとする。そこへ現れるのが、妻の面影を宿したサンドラだ。

彼女を愛するというより、彼女に“過去を再演させようとする” マイケルの行動は、愛というよりも自己救済の儀式に近い。未来ではなく、過去に向かって恋をする。

サンドラが風景の中から現れた瞬間、マイケルは「妻が蘇った」と錯覚するが、そこには彼女自身の人生も感情も存在していない。マイケルが見つめているのは、彼女の顔の裏に貼り付けた“エリザベスの影”である。

ここにデ・パルマは、ヒッチコック『めまい』の構造を重ねる。人は喪失と向き合うとき、現実の人物よりも、記憶の中の人物を愛してしまう。記憶のほうが都合よく、純度が高く、裏切らないからだ。

しかし記憶は生きておらず、愛しているのは“その人”ではなく“その人の輪郭”だ。フィレンツェの聖堂という閉じた空間の中で、マイケルは過去に触れようと必死に手を伸ばし、そのたびに現在の女性サンドラの存在を削っていく。

二度目の誘拐事件は復讐でもあるが、より深い意味では、物語そのものがマイケルに迫る戒めのように響く。

記憶は愛ではない。愛は、生きている相手を選び直す行為だ。

ところがマイケルは最後の瞬間まで、「サンドラ=エリザベス」という幻想を捨てられない。娘だった彼女との再会が“赦し”に見える場面も、本当はマイケルが過去の凍りついた時間を解凍できないまま、一つの幻影を別の幻影で埋め替えてしまった瞬間である。

デ・パルマの視線は、ここに宿る。人は喪失から逃れようとするとき、別人を使って“過去そのもの”を蘇らせようとする。それは愛ではなく、「記憶を諦められない心の癖」である。

愛とは、相手の変化に付き合い、自分も変わりながら時間を共有することだ。しかしマイケルは、変化を拒み、時間を止め、失った妻の“完璧な像”だけを抱え込んでしまった。『愛のメモリー』の恐ろしさは、犯人の動機よりも、この“記憶を理想化する心”が誰にでも宿っている点にある。

人は喪ったものを美しくしすぎる。過去を優しく磨きすぎる。そして、現在の相手が過去の像とずれていくとき、愛ではなく、記憶の側にしがみついてしまう。

デ・パルマは問う。あなたが愛しているのは、その人自身か。それとも、あなたが作り上げた『記憶の肖像』か。

『愛のメモリー』は、サスペンスの形をしていながら、人が“誰かをもう一度愛そうとするとき”に抱えてしまう狂気を静かに映し出す。そして、喪失を過去の形で取り戻そうとする限り、愛は決して始まらないことを、痛いほど示している。

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