シネマの流星

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『かまきり夫人の告白』〜欲望の事故、幸福の頂点から崖が見える

『かまきり夫人の告白』〜欲望の事故、幸福の頂点から崖が見える

『五月みどりのかまきり夫人の告白』は、1975年11月1日に公開された東映映画。監督は牧口雄二、脚本は安西英夫。主演は五月みどり。冷えきった結婚生活の中で欲求不満を募らせた女が、男たちを次々に誘惑し、そのたびに相手の運命を狂わせていく異色の官能ドラマである。

1974年公開の『エマニエル夫人』が日本で女性客が殺到し、配収17億円の大ヒットした流れを受けて企画され、36歳の五月みどりが“魔性の女”として起用された。

本作は単なる便乗企画にとどまらない。性を扇情的に見せるだけでなく、欲望が人をどう変質させるか、そして「自由に見える女」が本当に自由なのかを、かなり露悪的に映し出している。

スタッフ

  • 監督:牧口雄二
  • 脚本:安西英夫(野波静雄)
  • 音楽:渡辺岳夫
  • 撮影:塩見作治
  • 編集:神田忠男
  • 製作会社:東映京都撮影所
  • 配給:東映
  • 公開:1975年11月1日
  • 上映時間:65分

キャスト

『かまきり夫人の告白』〜欲望の事故、幸福の頂点から崖が見える

  • 五月みどり:五月みどり
  • 津島泰一:山城新伍
  • 星川小百合:森崎由紀
  • 川村良夫:岡八郎
  • 木元健次:伊吹吾郎

あらすじ

タレントの五月みどりは、評論家で大学教授でもある夫・津島泰一と世間では理想の夫婦として見られていた。だが実際には二人の仲は冷えきっており、みどりは満たされない思いを抱えたまま車に乗り込み、性的な冒険へと出る。

サーキットでは、死を恐れぬレーサーを誘惑し、彼の生き方を変えてしまう。隣家の男は家庭も財産も投げ出し、産婦人科医は破滅し、美少年は性的な向きを変えられ、化粧品会社の重役は欲望を露わにし、最後にはライフルを持つ殺し屋と危うい同居生活に入る。みどりが触れた男たちは、幸福になるどころか、むしろ自分の輪郭を崩していく。

短いエピソードを連ねながら、映画は一人の女の彷徨と、そこに巻き込まれていく男たちの弱さを濃密に描いていく。

映画レビュー:食い尽くすのは女ではなく、欲望そのものだ

『かまきり夫人の告白』〜欲望の事故、幸福の頂点から崖が見える

『五月みどりのかまきり夫人の告白』という題名は、最初からかなり下世話だ。しかも“かまきり夫人”という言葉には、男を喰う女という分かりやすいイメージがついている。実際、映画の表面だけ見ればそういう話である。五月みどりが男を誘い、その男たちが次々におかしくなっていく。いかにも男の恐怖と好奇心が混ざった見方だ。

だが、見ているうちに少し印象が変わる。この映画で本当に人を壊しているのは、五月みどり本人というより、男たちの中にもともとあった欲望ではないかと思えてくる。

レーサーは死を恐れなくなるのではなく、女を知ったことで死が急に現実になる。隣家の男は愛に溺れたというより、自分の退屈な生活を壊す口実を見つけてしまう。みどりは何かを作り出すというより、すでにそこにあったものを表へ引っ張り出しているだけである。

ここで面白いのは、五月みどりが“悪女”として完全には描かれていないことだ。たしかに彼女は奔放で、相手を破滅に導く。だが、その行動には復讐の計画性も、冷酷な支配欲もない。むしろ空虚さの方が強い。満たされないから動く。動いても満たされないから、また次へ行く。その反復が、男たちを食い尽くすというより、彼女自身の中の穴の大きさを見せてしまう。

夫婦生活が冷えきっているという出発点は大きい。世間から見れば理想の夫婦でも、内側ではとうに終わっている。このズレが、この映画の土台にある。人は外から見える姿だけでは生きられない。肩書きや見栄や世間体で整えた生活が、身体の実感と切れてしまったとき、欲望はただの快楽ではなく「生きている感覚の確認」になる。みどりが旅に出るのは、快楽を求めているというより、自分がまだ反応できる人間か確かめているからだ。

ただし、その確認の仕方が他人を巻き込みすぎる。そこに映画の残酷さがある。欲望は個人のものだが、結果は個人で済まない。誰かの家庭が壊れ、仕事が壊れ、身体が壊れ、人生が壊れる。自分の空白を埋めようとする行為が、別の誰かの足場を崩してしまう。この連鎖は、かなり冷たい。

そこには1970年代の東映らしい下品さも、雑さも、勢いもある。その雑さの中に、妙に見逃せない感覚がある。人は自分が思うほど自分の主人ではない、という感覚だ。欲望にしても、愛情にしても、理性の管理下にはきれいに収まらない。ちょっとした出会いや刺激で、簡単に自分の形が崩れる。その危うさが、この映画では極端な形で並べられている。

最後に現れる殺し屋の話は象徴的だ。みどりは、最初から死の匂いをまとった男に惹かれる。ここまで来ると、彼女が求めているのは安定でも幸福でもない。もっと切迫したもの、破滅と隣り合うような強度なのだ。普通の生活では感じられないほどの手応えを求めて、危険へ寄っていく。その果てに男は蜂の巣になる。こんな結末を迎えても、映画は教訓めいた顔をしない。ただ、「そうなった」と突き放す。

65分という短さも効いている。説明は足りないし、人物造形も荒い。だがその荒さが逆に、衝動の速さを伝える。考える前に惹かれ、惹かれる前に壊れる。このテンポの悪さではなく、このテンポの早さこそが映画の持ち味だ。

『五月みどりのかまきり夫人の告白』は、上品な映画ではないし、整った映画でもない。だが、欲望をきれいに飾らず、むしろみっともなく、危険で、滑稽なものとして晒している点で、正直だ。ここで食い尽くされるのは男だけではない。女もまた、自分の空虚さに少しずつ食われている。

かまきり夫人という呼び名は派手だが、実際に画面にいるのは、ただ人を壊す怪物ではない。満たされなさを抱えたまま、刺激の中をさまよう一人の女である。その姿が扇情的であればあるほど、どこか寂しく見えてくる。そこに、この映画のいちばん苦いところがある。

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『かまきり夫人の告白』が描く幸福のかたち

性は、ずるい。人類存続のための行為だと頭で分かっていても、身体に落ちてくるのは「生きてる」という快楽の速報だ。その速報は、しばしば最悪のニュース、死や破滅とセットで届く。『かまきり夫人』が面白いのは、まさにそこだ。欲望が満たされた瞬間、男がいちばん脆くなる。幸福の頂点から、いきなり崖が見えてしまう。

快楽の瞬間は、世界が一点に縮む。仕事も世間も未来も、いったん消える。自分が自分の身体に戻ってくる。その瞬間だけ切り取れば、幸福に近い。むしろ幸福の“純度”だけなら、ここまで純粋なものは少ない。人は普段、あれこれ考えすぎて、自分の中で散らばっている。

しかし、快楽が鋭いほど、そのあとが怖い。幸福は“差”を作る。ピークが高いほど、平地が味気なくなる。だから男は、もう一度同じ高さを欲しがる。あるいは、同じ高さに届かなかったときに、自分の人生全体が急に色褪せて見える。破滅へ向かう男は、快楽に溺れたというより、快楽によって世界の彩度を変えられてしまった男だ。

ここで「かまきり」の話が効いてくる。カマキリの雌が交尾のあと雄を食べることがあるのは、残酷な逸話として有名だ。雌はただ栄養が必要で、たまたま目の前に最も都合のいいタンパク源がいる。交尾(生の継続)と捕食(死)が、同じ場で、同じリズムで起きてしまう。生と死が仲良く同居している。

では、雄カマキリは幸福なのか。「幸福」を“長く安全に生きること”だとするなら、もちろん不幸だ。食われて終わりだし、本人の未来はない。でも「幸福」を“役割を果たしたこと”だとするなら、違う顔が出る。雄は交尾した瞬間に、生物として最大級の目的を達成してしまっている。生存より先に、継続へ接続してしまう。だからその直後に死んでも、種の目から見れば“成功”だ。幸福というより、“完了”に近い。

ただ、人間は厄介で、雄カマキリのように割り切れない。人間の性は、繁殖だけじゃない。自己確認でもあるし、愛でもあるし、支配でもあるし、寂しさの穴埋めでもある。だから交尾のあとに「食われる」、破滅するとき、そこには単なる自然の必然じゃなく、だいたい“意味”がまとわりつく。恥、後悔、罪悪感、執着、嫉妬、依存。人間は食われるとき、身体だけじゃなく、物語まで一緒に食われる。

快楽を口実に他人を踏み台にすれば、食われたのは人生そのものだ。けれど、快楽の後に自分の欲望の責任を自分で回収できたなら、あれは一度きりの火花ではなく、人生の温度になる。

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