シネマの流星

映画とは魔法。どこでもドアであり、タイムマシン。映画館の暗闇はブラックホール。スクリーンの光は無数の星たち。映画より映画館のファン

『台北暮色』〜孤独は風になる、暮色の中の空白、橋の上の呼吸

『台北暮色』〜孤独は風になる、暮色の中の空白、橋の上の呼吸

『台北暮色』(原題:強尼・凱克/英題:Missing Johnny)は、2017年に製作された台湾映画(日本公開2018年)。監督・脚本はホアン・シー。長年ホウ・シャオシェンの助監督として研鑽を積んだ彼女の長編デビュー作であり、台北という都市に漂う孤独と、交わることのない他者同士のささやかな邂逅を、繊細なまなざしで描く。製作総指揮をホウ・シャオシェンが務め、主演はモデル出身のリマ・ジタンと、『カップルズ』のクー・ユールン。台北映画祭で四冠を獲得した。

スタッフ

監督・脚本:ホアン・シー
製作総指揮:ホウ・シャオシェン
音楽:Nulbarich「Silent Wonderland」
製作会社:A PEOPLE CINEMA
公開:2018年11月24日(日本)
上映時間:107分
製作国:台湾

キャスト

『台北暮色』〜孤独は風になる、暮色の中の空白、橋の上の呼吸

リマ・ジタン(シュー)

クー・ユールン(フォン)

ホアン・ユエン(リー)

あらすじ

『台北暮色』〜孤独は風になる、暮色の中の空白、橋の上の呼吸

台北の住宅街。孤独に暮らす女性シューのもとに、何度も「ジョニーはいますか?」という間違い電話がかかってくる。見知らぬ名前に戸惑いながらも、彼女の中には“ジョニー”という存在への奇妙な想像が膨らんでいく。一方、車の中で生活する中年の男フォン、人と交わることができない青年リー。三人は互いに関係のない生活を送りながら、ある日ふとしたきっかけで出会う。シューの部屋から逃げた一羽のインコを探す小さな出来事が、三人の孤独な世界を微かに重ね合わせていく。やがてインコの行方とともに、シューが抱える過去と喪失が静かに浮かび上がる。都市の暮色の中で、彼らは言葉にならないまま、誰かと繋がる可能性を探していく。

映画レビュー:孤独という風景、橋の上のまなざし

『台北暮色』〜孤独は風になる、暮色の中の空白、橋の上の呼吸

『台北暮色』の孤独は、悲しみではない。それは「個として生きるための空白」だ。
この映画の登場人物たちは、誰かと分かり合うことを目的にしていない。むしろ、自分の輪郭を確かめるために、他者との距離を必要としている。都市のノイズと光の中で、孤独は欠落ではなく、生の証として静かに呼吸している。

ホアン・シーのカメラは、物語を語らない。風景を見つめる。路地裏の壁の質感、通りを渡るバイクの音、電線に止まる鳥。街のざわめき、路面の温度、光の粒がそのままスクリーンを漂う。説明されない感情の隙間に、観客の心が反応する。何も起きない物語ほど、観客の中で何かが起きる。

映画とは、わからないことをわかろうとする運動だ。だからこの映画は、わからないことが正解だ。

ブルックリン・ブリッジからのマンハッタン、太左衛門橋から見下ろす道頓堀、そしてこの映画の忠孝橋。どの橋にも共通しているのは、街の中心から半歩引いた視線。喧騒の只中ではなく、少し離れて世界を見つめるまなざしだ。橋は、日常と非日常をつなぐインフラ。我々はその上を歩きながら、憧れと現実のあいだに立っている。都市の光を遠くに見ながら、「生きる」ということの輪郭を指でなぞる。

『台北暮色』は、そんな橋の上のまなざしをもった映画だ。物語の終わりに何かが解決するわけではない。ただ、風が通り抜ける。その風がスクリーンを揺らし、観客の内側にも同じ風が吹く。

孤独は癒されない。けれど、孤独があるからこそ他者を感じる。

街の光の向こうに自分の影を見つけるとき、人は初めて「ひとりでいる」ことの意味を理解する。それが、台北という都市が静かに教えてくれる“生”のかたちだ。

台北暮色の舞台:忠孝橋

最初に向かったのがホテルから近くの「忠孝橋」。と言っても15分から20分くらい歩く。

ここは映画『台北暮色』のラストで主人公の車がエンストし、大渋滞をつくってしまう場所。

たぶん、この道路だ。ここで車がエンストする。

せっかくなので橋を渡ってみる。黄昏に来たかったが、青空も清々しい。

ニューヨークのマンハッタンに似た風景。入道雲が夏を彩る。

台湾は右側通行。だから車も左ハンドル。日本と逆。

人生とは非日常を求めながら、日常を愛すること。ニューヨークにあるブルックリン・ブリッジと同じ匂いがあった。

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