
『真夜中のカーボーイ』(原題:Midnight Cowboy)は、1969年製作(日本公開1969年)のアメリカ映画。監督はジョン・シュレシンジャー、脚本はウォルド・ソルト。ジェームズ・レオ・ハーリヒーの同名小説を原作とし、主演はジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマン。
ニューヨークの荒廃した都市を舞台に、テキサスから来た青年ジョーと病弱なラッツォの友情を描き、113分の物語はアメリカン・ニューシネマを代表する金字塔として記憶されている。
スタッフ

- 監督:ジョン・シュレシンジャー
- 脚本:ウォルド・ソルト
- 原作:ジェームズ・レオ・ハーリヒー
- 製作:ジェローム・ヘルマン
- 音楽:ジョン・バリー
- 撮影:アダム・ホレンダー
- 編集:ヒュー・A・ロバートソン
- 配給:ユナイテッド・アーティスツ
- 公開:1969年5月25日(米)/1969年10月18日(日本)
- 上映時間:113分
キャスト

- ジョー・バック:ジョン・ヴォイト
- ラッツォ:ダスティン・ホフマン
- キャス:シルヴィア・マイルズ
- オダニエル:ジョン・マクギヴァー
- シャーリー:ブレンダ・ヴァッカロ
- タウニー:バーナード・ヒューズ
- サリー:ルース・ホワイト
- アニー:ジェニファー・ソルト
ジョーがマンハッタン行きのバスを下車するシーンで、ヴェトナム帰還兵の乗客役で無名時代のアル・パチーノが出演しているが、上映版ではカットされている。フィルムが残っていたら観てみたいものだ。
ジョーとラッツォが交差点を渡るところへタクシーが突っ込み、危うく轢かれそうになったラッツォが「I'm walking here!」と怒鳴るシーンは、エキストラなしで撮影しており、まったくのアドリブだった。
あらすじ

テキサスの田舎からニューヨークに渡った青年ジョー・バック(ジョン・ヴォイト)は、ジゴロとして成功する夢を抱いていた。しかし世間知らずの彼は最初の客キャス(シルヴィア・マイルズ)に逆に金を奪われ、所持金を失い路頭に迷う。
そんな中で出会ったのが、足が悪く病を抱える詐欺師ラッツォ(ダスティン・ホフマン)だった。二人は廃墟のようなアパートで共同生活を始め、貧困と寒さに追い詰められながらも友情を育む。ラッツォは「人生に必要なのはサンシャインとココナッツミルクだ」と語り、フロリダでの生活を夢見るが病状は悪化。
ジョーはラジオを売って旅費を工面し、ラッツォと共にマイアミ行きのバスに乗る。カウボーイ装束を脱ぎ捨てたジョーは新しい人生を決意するが、到着目前にラッツォは彼の腕の中で息を引き取る。夢に満ちた旅路は、残酷な現実の中で幕を閉じる。
映画レビュー:都会の荒野に射し込む“友情”という微光

ジョーが纏うカウボーイハットは、自由と男らしさの象徴でありながら、ニューヨークでは仮装のように滑稽だ。憧憬は都市の冷たい現実に打ち砕かれ、その姿は「過去の夢」を纏った亡霊に過ぎない。ラッツォは足を引きずり、肺を病み、社会から排除された身体を抱えている。ふたりはアメリカが「敗者」として切り捨てた存在であり、都市の荒野を漂う放浪者。
この映画は「疎外された存在同士の連帯」を描いているが、慰めの物語ではない。ニューヨークは男たちを孤立させる。それでもジョーとラッツォは、取引や役割を超えて互いを承認する。その姿は、体制の外に生きることを選んだ者たちの最後の足掻きである。
敬愛する井筒監督がこれを「共感の踏み絵」と呼ぶのも当然だ。大学生の頃に観ても何も分からず、ただ通り過ぎてしまった作品が、いま観ると全身を撃ち抜いてくる。青春とは、故郷を捨てて放浪に踏み出した瞬間に始まるからだ。
「人生に必要なものは2つある。サンシャインとココナッツミルクだ」。ラッツォのデタラメな言葉は、国家や社会を嘲笑う呪文のように響く。行けなかった“心のマイアミ”は、アメリカンドリームの楽園ではなく、敗者だけが知る永遠の幻影だ。ラッツォは惨めなのか?否。敗者として滅びゆく過程こそが、体制を否定する唯一の祝祭なのである。
だからこそ、ジョーが最後にカウボーイ装束を捨てる場面は、単なる衣替えではない。虚構にすがる「アメリカ人」であることを放棄し、敗者としての人間を選んだ宣言だ。夢を叶えることではなく、夢を共に語ること。それが勝者の神話を踏みつけにする抵抗の形なのだ。
俺たちは、ココナッツミルクのパスタを作ろうじゃないか。永久にふたりは“噂の男”である。その噂は成功の物語ではなく、国家の物語を拒絶した敗者たちの足跡だ。
『真夜中のカーボーイ』は、アメリカを肯定しない。よるべきな者たちが生きて滅びる過程を肯定する。
最期に身を滅ぼそうと、その過程こそが祝福に値する。ラッツォとジョーの旅路は、成功物語の対極に立ちながらも、その反逆のプロセスゆえに輝き続ける。
アメリカン・ニューシネマにおける位置づけ

『俺たちに明日はない』(1967)は、社会に銃声をぶち込み、性愛と暴力を神話化した。「血の雨」とともに散るその姿は、体制に対する若者の怒りを赤裸々に映し出した。
『イージー・ライダー』(1969)は、バイクで放浪し、ヒッピーの夢を風に託した。その旅も、結局は保守的な銃弾に撃ち落とされる。
これらが〈反抗の祝祭〉を描いたとすれば、『真夜中のカーボーイ』は〈敗北の祝祭〉を描いた作品だ。銃声も暴走もなく、ただ都会の片隅で擦り切れ、孤独と貧困に苛まれた末に滅びていく。しかし、そのプロセスこそがアメリカという国家を真に批判する。なぜなら、この国が誇る「夢」と「成功」の物語を完全に拒否し、敗者の歩みを価値として提示したからだ。
アメリカン・ニューシネマの多くが「反抗しても結局は撃ち殺される」という宿命を描いたのに対し、本作は「そもそも撃つ力すら持たない者たち」の物語を選んだ。だからこそ、より徹底して国家を否定し、より挑戦的に“よるべきな者たち”を肯定する。
『真夜中のカーボーイ』は、アメリカンドリームの外側に生きる者たちの存在を、美談ではなく“痕跡”として映画史に焼き付けた。ニューシネマの潮流の中でも、もっとも静かで、もっとも激しくアメリカを否定した一本である。
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アメリカン・ニューシネマの傑作