
『合衆国最後の日』(原題:Twilight’s Last Gleaming)は、1977年公開のアメリカ=西ドイツ合作映画。原作はウォルター・ウェイガーの小説『Viper Three』
原題はアメリカ合衆国国歌「星条旗」の一節から取られており、直訳すれば「黄昏の最後の輝き」。その言葉通り、本作は“国家がまだ自らを信じていた最後の瞬間”を描いた政治スリラーである。
スタッフ
- 監督:ロバート・アルドリッチ
- 脚本:ロナルド・M・コーエン、エドワード・ヒューブッシュ
- 原作:ウォルター・ウェイガー『Viper Three』
- 製作:マーヴ・アデルソン
- 製作総指揮:ヘルムート・イエデレ
- 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
- 撮影:ロバート・ハウザー
- 編集:マイケル・ルチアーノ、ウィリアム・マーティン、モーリー・ワイントローブ
- 配給:日本ヘラルド映画
- 公開:1977年2月9日(アメリカ)/1977年5月21日(日本)
- 上映時間:146分
アルドリッチ監督は通常、ジョセフ・ビロックを撮影監督に起用していたが、ビロックの妻が撮影前に病に倒れたため、ロバート・ハウザーを起用した。
当初、大統領のイメージはケネディであり、ポール・ニューマンに打診したが断られ、違う人物像に変更した。
キャスト

- ローレンス・デル(元空軍将軍):バート・ランカスター
- マーティン・マッケンジー空軍大将:リチャード・ウィドマーク
- スティーブンス大統領:チャールズ・ダーニング
- ウィリス・パウエル:ポール・ウィンフィールド
- アーサー・レンフルー:ジョセフ・コットン
- オージー・ガルバス:バート・ヤング
アルドリッチはバート・ランカスターにこの題材に関する自身の考えを売り込み、ランカスターは映画化を承諾した。
ランカスターはこの映画を「大統領の陰謀 PART2…非常にメロドラマ的な表現で表現された、非常に力強い政治劇」と評した。
あらすじ
軍刑務所を脱獄した元空軍将軍ローレンス・デルは、かつて自らが設計に関わったモンタナ州のICBM基地を制圧し、9基の核ミサイルを掌握する。
彼の要求は金ではない。大統領が全国放送で、アメリカ政府がベトナム戦争の敗北を承知のうえで戦争を継続していたという極秘文書を公表することだった。
政府中枢は交渉と同時に武力解決を模索するが、事態は次第に制御不能へと転がり落ちていく。核発射まで秒読みとなる中、国家は「真実」と「存続」のどちらを選ぶのかを迫られる。
映画レビュー:国家が嘘をついた瞬間、人はどこに立つのか

この映画が本当に描いているのは、「国家が自分自身に嘘をついた瞬間から、何が壊れ始めるのか」という問いだ。
ローレンス・デル将軍は狂人ではない。理想主義者でも、革命家でもない。ただ、嘘の上に積み上げられた国家の姿に耐えられなくなった男だ。
重要なのは、“外国の敵”ではなく、“この国を作った側の人間”である点だ。内部にいた者だからこそ、嘘の構造を正確に理解している。
デルの要求は単純だ。「勝てないと分かっていた戦争を、なぜ続けたのかを国民に話せ」。だが、政府側の反応はさらに単純で、そして冷酷だ。「それは話せない」
この映画が突きつける問いは、単純だが致命的だ。なぜ政府は、真実を話さなかったのか。その答えは、「体面を守るため」でも、「責任を回避するため」でもない。ましてや、個々の政治家の私利私欲でもない。この映画が描いているのは、もっと根深い不信である。
政府が、国民を信じていない。
ローレンス・デル将軍が告発しようとしたのは、ベトナム戦争の敗北そのものではない。それは過去の政権の決定であり、現職の大統領や閣僚が直接責任を問われる話ではない。それでもなお、政府は真実を封印する。
政府は恐れている。「国民は、この真実に耐えられない」と。
ここに、この映画の冷酷な構造がある。民主主義国家でありながら、統治する側は、統治される側を信頼していない。国民は政治家を信じ、票を投じ、権力を預ける。だが政治家は、国民を信じない。
国家はこう考えている。真実を語れば、国民は動揺し、怒り、国家そのものを否定するかもしれない。だから、語らない。だから、「知らないほうが幸せだ」という顔で、沈黙を正当化する。
だがそれは、保護ではない。見下しだ。
この映画において、核ミサイルは脅威の象徴ではない。真に恐ろしいのは、「国民には真実を理解する力がない」という、統治者の思い込みだ。
国家が崩れるのを恐れているのではない。国民が、自分たちの判断で国家を評価し直すことを恐れている。
スティーブンス大統領が善人として描かれていることは重要だ。冷酷な独裁者ではない。悩み、苦しみ、良心を持っている。それでも決断できない。
なぜなら、国民を信じていないからだ。
「真実を話せば、この国は立っていられないかもしれない」
この恐怖は、国家への忠誠ではなく、国民への不信から生まれている。
終盤、大統領が自ら人質となる場面は、個人としては誠実だ。だが同時に、制度の嘘を個人の美談で覆い隠す行為でもある。個人が責任を引き受けることで、国家は真実を語らずに済む。ここに、この映画の最も苦い皮肉がある。
結局、真実は公表されない。国家は存続する。だがそれは、国民との信頼を犠牲にして生き延びた国家だ。
原題 Twilight’s Last Gleaming が指しているのは、「国家が輝いていた最後の瞬間」ではない。国家が、国民を信じていたかもしれない最後の残光である。
この映画が冷たいのは、希望を語らないからではない。むしろ逆だ。国民を信じるという選択肢が、最初から排除されていることを、静かに暴くからだ。
『合衆国最後の日』は、クーデター映画でも、陰謀スリラーでもない。これは、民主主義国家が、民主主義そのものを信じなくなった瞬間を描いた映画である。
国家は、人よりも長く生きる。だが、国民を信じない国家は、必ず黄昏を迎える。それは革命ではなく、静かな信用の死として訪れる。
この映画は、その黄昏がすでに始まっていることを、誰にも叫ばず、淡々と示している。
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