
『ハッド』(Hud)は、1963年に公開されたアメリカ映画。ラリー・マクマートリーの原作を脚色。テキサスの広大な牧場を舞台に、息子ハッドと、父ホーマーとの対立を通し、自由の空洞化を描く。ニューシネマ前夜の重要作である。
スタッフ

- 監督:マーティン・リット
- 脚本:アーヴィング・ラヴェッチ、ハリエット・フランク Jr.
- 原作:ラリー・マクマートリー
- 音楽:エルマー・バーンスタイン
- 撮影:ジェームズ・ウォン・ハウ
- 製作:パラマウント
- 公開:1963年
- 上映時間:112分
哀愁と旅愁が漂う素晴らしき音楽の作曲は、エルマー・バーンスタイン。『大脱走』のマーチも手掛けている。撮影は、中国で生まれ、ハリウッドで活躍したジェームズ・ウォン・ハウ。
キャスト

- ハッド・バノン:ポール・ニューマン
- ホーマー・バノン:メルヴィン・ダグラス
- アルマ・ブラウン:パトリシア・ニール
- ロン(ロニー)・バノン:ブランドン・デ・ワイルド
あらすじ

テキサスに牧場を構えるホーマーと、放埒な息子ハッドは折り合いが悪い。牛に感染症が見つかり、全頭処分という政府命令を前に、二人の溝は決定的になる。牧場の未来を賭ける父に対し、ハッドは「隠して売り抜けろ」と迫る。家政婦アルマへの欲望、甥ロンへの暴力、家族の崩壊。そのさなか、事故で父ホーマーは死に、アルマも去り、ロンも家を出る。広大な牧場にたったひとり残されたハッド。成功も家族も去ったあと、男の背に吹くのはテキサスの乾いた風だけだった。
映画レビュー:ハッドは、なぜ“虚無”に微笑むことができたのか

ラストで、ポール・ニューマン演じるハッドが見せる、あの微笑み。あれは「強がり」でも「諦め」でも「達観」でもない。もっと原始的で、もっと深い、“自分の運命を受け入れた男の静かな誇り” だ。
この物語は、ただ孤独に沈む男の話ではない。自由の果てに虚無があり、虚無の中心に立つことを選んだ男の話である。
娯楽もなく、刺激もなく、風景はどこまでも同じ。毎日が退屈と繰り返しで満ちている。テキサスの広大な空虚を前にして、ハッドは苛立ちながらも安心している。なぜなら、この虚無はハッドを責めないからだ。その虚無の心地よさは、田舎で生きる者にとっては、痛いほどわかる。
都会へ行きたいとは思わない。なにも無いという無限の居心地のよさを、愛している。ハッドも、都会の喧騒より、誰も自分を追わない広大な虚無の中にいたほうが居心地がいい。
虚無はハッドを孤独にするが、同時に守ってもいる。父ホーマーを失い、甥ロンは去り、アルマも去っていく。ハッドの強がりも虚勢も、もう誰にも向ける相手がいない。
それでも泣かない。怒り狂わない。大声も出さない。ただ静かに、虚無を見つめる。その視線はこう語っている。
「そうだよな、こうなるってわかってた」
人生が用意した“因果応報”を真正面から受け止める男の姿だ。強がりでも、諦めでもない。もっと硬くて清々しい。他人も自分の人生を責めない男の表情である。
ラスト、ハッドは、父のいない牧場でひとりタバコを吸う。牛もいない。家も静まり返っている。誰も帰ってこない。そのとき見せる微笑。
「これでいいんだ」「全部背負って生きていく」
誰かの優しさにもたれかからず、愛されようと足掻くこともやめ、ただ“自分の重さで立つ”。虚無は空洞だ。その空洞に、ハッドは自分の形を見つけた。"何も残らない自由” に行き着いた。
この映画はハッドを罰して終わらせない。むしろ、ふさわしい境地へと送り届けている。孤独の中心に立ってもなお、それを肯定するような微笑みだ。
この映画の結末は冷酷に見えて、とても温かい。家族を失い、愛を失い、居場所を失ってもハッドは折れなかった。むしろ、虚無に微笑んでみせたことで、初めて本当の自由になった。そういう不器用で優しい感情を持っている。
風が吹き抜ける土地。どこにも行けないようで、どこにでも行けるような空。
その広大な孤独の真ん中で、ハッドはようやく自分を許した。自分を手に入れた。そして、わずかに微笑んだ。その笑みこそが、ハッドという男に与えられた遅すぎる救いなのだ。
Amazonプライムで観る:『ハッド』
|
|
