シネマの流星

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『わが谷は緑なりき』〜過去形が人を支えるとき。失われた谷ではなく、受け渡された時間

『わが谷は緑なりき』〜過去形が人を支えるとき。失われた谷ではなく、受け渡された時間

わが谷は緑なりき(原題:How Green Was My Valley)は、1941年に公開されたアメリカ映画。監督はジョン・フォード。19世紀末から20世紀初頭のイギリス・ウェールズ地方、炭坑を中心に成り立つロンダ谷を舞台に、一家の記憶を通して共同体の変化と喪失を描く。

物語は、谷を去ろうとする初老のヒュー・モーガンの回想として語られる。かつて緑に満ち、家族と隣人が強く結びついていた谷。しかし産業の論理、賃金の引き下げ、組合運動、事故と死が重なり、家族も共同体も少しずつ形を変えていく。

スタッフ

『わが谷は緑なりき』〜過去形が人を支えるとき。失われた谷ではなく、受け渡された時間

  • 監督:ジョン・フォード
  • 脚本:フィリップ・ダン
  • 原作:リチャード・レウェリン
  • 音楽:アルフレッド・ニューマン
  • 撮影:アーサー・C・ミラー
  • 製作:20世紀フォックス
  • 公開:1941年10月26日(アメリカ)/1950年12月23日(日本)
  • 上映時間:118分

原作はリチャード・レウェリンが書いた小説『How Green Was My Valley』である。

キャスト

『わが谷は緑なりき』〜過去形が人を支えるとき。失われた谷ではなく、受け渡された時間

  • ヒュー(末っ子):ロディ・マクドウォール
  • 父ギルム:ドナルド・クリスプ
  • 母ベス:サラ・オールグッド
  • アンハード(姉):モーリン・オハラ
  • グリュフィード牧師:ウォルター・ピジョン

あらすじ

『わが谷は緑なりき』〜過去形が人を支えるとき。失われた谷ではなく、受け渡された時間

初老となったヒュー・モーガンは、故郷ロンダの谷を去るにあたり、家族と共同体に支えられた少年時代を回想する。炭坑で働く父と兄たち、気丈な母、姉アンハードと過ごす日々は慎ましくも幸福に満ちていたが、賃金引き下げをきっかけに家族と谷は分断されていく。兄たちは家を離れ、ストライキや事故によって共同体は次第に荒廃する。

『わが谷は緑なりき』〜過去形が人を支えるとき。失われた谷ではなく、受け渡された時間

病に倒れたヒューは牧師グリュフィードの献身により回復し、教育を受けて成長するが、時代の変化は容赦なく谷を蝕む。やがて兄の事故死を機にヒューも炭坑に入り、父は落盤事故で命を落とす。父の死を見届けたヒューは、かつて緑に満ちていた谷と家族の記憶を胸に、故郷を後にする。

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映画レビュー:失われた色ではなく、受け渡された時間の名

『わが谷は緑なりき』〜過去形が人を支えるとき。失われた谷ではなく、受け渡された時間

わが谷は緑なりきという題名は、過去への嘆きではない。それは「かつて緑だった」という事実を、静かに肯定するための言葉だ。

この映画は、谷が衰退していく物語ではある。炭坑の賃金は下がり、兄たちは家を出て、父は命を落とし、共同体は変質していく。だがジョン・フォードは、それを喪失としてだけは描かない。むしろこの映画は、「世界は変わるが、変わったからこそ、確かに存在したものがはっきりと見える」という感覚に満ちている。

ヒューの回想の中で描かれる谷は、確かに緑だ。それは自然の色ではない。人々が同じ時間に起き、同じ炭坑へ向かい、同じ食卓に集まり、同じ祈りを口にしていたことによって生まれた“生活の色”である。緑とは、共同体が呼吸していた証なのだ。

時代が進み、その呼吸が揃わなくなったとき、谷は緑でなくなる。だがそれは「壊れた」のではない。「役目を終えた」のだ。兄たちが谷を去るのも、父の信じた秩序が通用しなくなるのも、否定として描かれてはいない。それぞれが、自分の時間を生き始めた結果にすぎない。

この映画の重要な点は、誰も過去に戻ろうとしないことだ。母は嘆きながらも前を向き、兄たちは新天地へ向かい、ヒュー自身も、やがて谷を離れる。誰も「緑だった谷を取り戻そう」とは言わない。なぜなら、緑だった時間は、すでに受け渡されているからだ。

タイトルの「なりき」という過去形は、決定的に重要だ。現在形でも、未来形でもない。「かつてそうであった」という完了形。そこには悔恨ではなく、確認がある。確かにそこに生き、確かに幸せだった。その事実を、否定しないための言葉だ。

グリュフィード牧師とアンハードのすれ違う愛も、悲劇としてだけは描かれない。結ばれなかったからこそ、二人の感情は共同体の中で純度を保つ。個人の欲望が、世界を壊さないために選ばれた距離。それは抑圧ではなく、成熟の形でもある。

父の死もまた、単なる犠牲ではない。時代に敗れたのではなく、自分の信じた生き方を最後まで生き切った。その姿を見届けたヒューは、父の価値観をそのまま継ぐことはできないが、「人はどう生きれば誇りを持てるのか」という問いだけは、確かに受け取る。この映画は、変化を祝福する。それは進歩礼賛ではないし、郷愁でもない。「変わることでしか、次の緑は生まれない」という、静かな信頼だ。

ラストでヒューが谷を去るとき、観客は寂しさを覚える。だが同時に、安心もする。何も失っていない。谷で生きた時間、家族と過ごした日々、痛みと温もりの記憶は、すべてヒューの中にある。緑は風景から消えても、人の内側で生き続ける。

『わが谷は緑なりき』とは、失われた世界の追悼ではない。それは、確かに存在した幸福を、次の時代へ手渡すための言葉だ。

ジョン・フォードは、この映画でこう語っている。世界は変わる。人は散っていく。それでも、あの谷は確かに緑だった。だから、人は前に進めるのだ、と。

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