シネマの流星

映画とは魔法。どこでもドアであり、タイムマシン。映画館の暗闇はブラックホール。スクリーンの光は無数の星たち。映画より映画館のファン

映画『グランメゾン・パリ』と木村拓哉

グランメゾン・パリ

木村拓哉のCMが凄いのは、商品と一体化し、自らの細胞を消費者に気づかれないように変えらているからだ。NikonのCMがわかりやすい。フルサイズでは剛健、入門一眼レフでは冒険心、デジカメでは家庭的と、そのカメラに合わせて眼光と眼差しを変えてきた。カメラに表情を与え、生きもののように躍動させる。

物に生命力を与えられる数少ない俳優。だから木村拓哉がCMする商品は爆発的な売上を記録した。木村拓哉は「技術」で演技をせず「技能」で演技をする。技術は自分のために使い、技能は誰かのために使う。

グランメゾン・パリのマリニエールの鍋スープ

『グランメゾン・パリ』の料理人・尾花夏樹が操る高村刃物の包丁も自分のためではなく他者のために腕を振るう。鋭利な美しさ、触れるものを切ってしまうような優しさを体現している。木村拓哉ほど料理人の役が似合う俳優は存在しない。

映画『グランメゾン・パリ』公開前夜にTBSで放送された『グランメゾン東京』のTVスペシャルでもそれは発揮された。このドラマの主役は鈴木京香であり沢村一樹であり、玉森裕太。尾花夏樹はターミネーターのようにバイクに乗り、影を潜める。

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木村拓哉は太陽。自ら燦々と輝く連続ドラマの主役と、周りの惑星たちを輝かせる脇役としての太陽を使い分ける。中村アンも北村一輝も窪田正孝も、木村拓哉と芝居をしているときが最も輝いている。木村拓哉はスター(星)ではない。星は太陽がないと輝けない。木村拓哉は日本でも唯一と言っていい太陽であり宇宙である。

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テレビドラマはCMありきで作られ時間の枠も決まっている。フィギュアスケートのショートプログラムであり、映画はフリー演技。自由に羽ばたける代わりに粗が目立ちやすい。映画『グランメゾン・パリ』は尾花夏樹がパリにオープンした店でミシュランの三つ星を目指すストーリー。

過程もオチもお決まりであり、マーケティングありきでドラマの延長戦として製作されている。思考停止で観れば心地よいが、新たなスパイスを求める観客を満足させるのが難しい。芸術はアーティストの脳の書斎で生まれ自分本位。芸能は大衆に寄り添うもの。木村拓哉は後者の申し子である。

この映画ではフランス料理とは何か?がテーマとなる。アートも同じ。フランスはラトゥール、モネ、ゴーギャンなど偉大な芸術家を産んでいるが、それ以上にゴッホ、レオナルド、ラファエロなど他国の文化をM&Aすることで世界最高の水準を維持している。

それは日本も同じ。和の文化の源流は中国や朝鮮であり、多くの日本人が外国への敬意と感謝を失っている。グランメゾン・パリは勧善懲悪、荒唐無稽、予定調和、不撓不屈と大衆芸能の伝統を受け継ぎ、YouTubeの倍速のようなスピード感、説明過多、料理映画をアクション映画に変えた現代性も反映している。

物語はミシュランの三ツ星を目指すが、完成した映画は高級飲食店がランチ限定で1000円台で提供する料理のようなもの。芸術と芸能、技術と技能をハイブリッドした作品であり、一年をリセットし、新しい年を始める推進力をくれる。いま観たい映画を届けてくれた。パリで日本人シェフが経営するフレンチを食べたくなった。

映画レビュー:火の前に立つ理由

『グランメゾン・パリ』は、ミシュラン三つ星を目指す料理映画の体裁を取りながら、その中心にあるのは“料理”ではない。ここで語られるのは、火の前に立ち続ける人間が、なぜ再び立ち上がるのか。その理由である。

物語は王道だ。シェフ・尾花夏樹がパリで再び挑戦する。仲間と衝突し、文化の壁に阻まれ、過去に足を掴まれる。この映画が光るのは、予定調和の先にある“問い”を誠実に扱っている点だ。

料理とは何か?この作品は、答えを「味」ではなく「関係性」の中に置く。

フランス料理は芸術と比較される。技巧、構築、完璧性。しかしフランスという国は、歴史上、他国の文化を吸収し、混ぜ合わせ、磨き上げることで最先端を保ってきた。料理も同じだ。

尾花の厨房には、日本、フランス、アジア、ストリート、伝統。異なる温度と背景を持つ者たちが集まり、互いの“異物性”が一皿に変わっていく。

映画が描く「三つ星への道」は、技術の勝利ではない。むしろ、他者の違いを受け入れ、それを美味しさに変換する力の物語だ。

だからこそ、この作品は予定調和でありながら、普遍性を持つ。世界中の台所で、毎日くり返されている営みだからだ。

映画が面白いのは、この“厨房の哲学”が、日本という国の文化にも重なっていることだ。日本文化は長らく外来の体系を取り込み、再構築してきた。

和食も、芸術も、思想も、外から来た火種を育てて自分のものにしてきた。だから、パリで日本人シェフが店を構えるという設定は決して唐突ではなく、この映画のリアリティを底から支えている。

映画とは本来、合理性ではなく“体温”に働きかけるもの。この映画の最も重要な部分は、料理でも勝負でも仕掛けでもない。

火を前にして、なぜ人は立ち続けるのか、そこを描いた点である。

尾花夏樹は、過去に敗れ、仲間に迷惑をかけ、信用を失った。それでも立ち上がる。火の前に戻るのは、成功のためではない。

料理は、人をつなぐ言語であり、自分を取り戻す唯一の場所。結局のところ、三つ星は物語の「目的」ではなく「結果」にすぎない。この映画は、挫折した人間が、再び火を扱う理由を描いた作品だ。

観終えたあと、ふと気づく。三つ星を得たのは料理ではなく、再生する姿そのものだったのだと。

『グランメゾン・パリ』は、料理映画の衣をまとった「人がどこで立ち直るのか」という物語であり、その答えを“厨房の火”の中に静かに示している。

グランメゾン・パリの鍋つゆのスープパスタ

木村拓哉(尾花夏樹)が考案したナポリタン「オバナポ」

木村拓哉と吉岡里帆という怪物

パリを舞台にした映画

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