
『デリンジャー』(原題:Dillinger)は、1973年制作のアメリカ合衆国の映画。ジョン・ミリアス。ミリアスの映画監督デビュー作品である。1930年代に実在したギャング、ジョン・デリンジャーを描く。
スタッフ
- 監督・脚本:ジョン・ミリアス
- 製作:バズ・フェイトシャンズ
- 製作総指揮:サミュエル・Z・アーコフ、ローレンス・ゴードン
- 音楽:バリー・デ・ヴォーゾン
- 撮影:ジュールス・ブレンナー
- 編集:フレッド・R・フェイトシャンズ・Jr
- 製作:アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ
- 公開:1973年
- 上映時間:107分
南カリフォルニア大学の映画学科で学んだジョン・ミリアスは、29歳で映画デビューを飾り、この映画を千日前の弥生座で恋人で観た井筒監督も「アメリカン人らしい作家」と評している。
キャスト

- ジョン・デリンジャー:ウォーレン・オーツ
- メルヴィン・パーヴィス:ベン・ジョンソン
- ビリー・フレシェット:ミシェル・フィリップス
- ホーマー・ヴァン・メーター:ハリー・ディーン・スタントン
- ベビーフェイス・ネルソン:リチャード・ドレイファス
- アンナ・セージ:クロリス・リーチマン
あらすじ
1930年代、大恐慌下のアメリカ。ジョン・デリンジャーは仲間たちと銀行強盗を繰り返し、各地を転々としながら逃走を続けていた。時に人々から喝采を浴び、時に冷酷な犯罪者として恐れられる存在となっていく。
一方、FBI捜査官メルヴィン・パーヴィスは、フーバー長官の命のもと、名だたる犯罪者たちを次々と射殺し、名声を高めていく。デリンジャーの逃走と、パーヴィスの追跡は、やがて避けられない交差点へと向かう。映画館の前、赤いドレスの女を目印に、神話は唐突に終わりを迎える。
映画レビュー:神話になる前に、撃たれる男

『デリンジャー』は、アウトローの栄光を描く映画ではない。むしろ、その栄光がどれほど脆く、外側から作られたものかを冷静に示す作品だ。
ウォーレン・オーツのデリンジャーは、カリスマ的というより、どこか疲れた男に見える。大胆な銀行強盗を重ねながらも、表情には高揚より倦みが漂う。自分が“有名になっている”ことを理解しているが、それを積極的に利用しようとはしない。神話を演じる役者ではなく、神話に巻き込まれていく当人である。
印象的なのは、デリンジャーがしばしば「返す」男として描かれる点だ。奪った金を分け与え、時には突き返す。この振る舞いは善行ではない。自身が、金や成功に執着していないことの表れだ。求めているのは富ではなく、走っている状態そのもの、捕まっていないという事実だけである。
対するパーヴィスは、秩序の側に立ちながら、どこか虚ろだ。法を語らない。正義を叫ばない。ただ任務として撃つ。その行為が新聞に載り、評価されることに、微かな違和感を覚えながらも、引き返すことはない。パーヴィスもまた、役割から降りられない男だ。
この映画では、二人は対極ではない。どちらも「個人としての出口」を失った存在である。デリンジャーは逃げ続けることでしか生を保てず、パーヴィスは撃ち続けることでしか自分を確認できない。追う者と逃げる者は、同じ円環の内側にいる。
クライマックスの射殺は、劇的でありながら、拍子抜けするほどあっけない。長い逃走と銃撃の果てに訪れるのは、英雄的な最期ではない。観客が期待する「伝説の完成」を、映画は拒否する。神話になる前に、男はただ倒れる。
タイトルが示すのは人物名だが、実際に描かれているのは「名前が消費される過程」である。ジョン・デリンジャーという固有名は、人々の噂や新聞記事の中で膨らみ、やがて国家によって処理される。残るのは伝説ではなく、空席だ。
『デリンジャー』は、アウトロー映画でありながら、自由の賛歌ではない。自由に見える生き方が、どれほど早く制度に回収されるかを示す、静かな記録である。走り続けた男と、撃ち続けた男。そのどちらにも救済はなく、ただ役割だけが最後まで残る。
ジョン・ミリアスのデビュー作である本作は、後年の英雄的マッチョ像とは異なり、むしろ英雄が成立しない世界を描いている。だからこそ、この映画は派手に燃え上がらず、鈍く、重く、観る者の中に沈殿する。神話の不在を描いたギャング映画として、『デリンジャー』は今なお異質な輝きを放っている。
Amazonプライムで観る:『デリンジャー』
