
『市民ケーン』(原題:Citizen Kane)は、1941年に公開されたアメリカ映画。監督・脚本・製作・主演をオーソン・ウェルズが務めた。25歳で撮ったデビュー作にして、映画史上最高傑作の一つと評される。新聞王チャールズ・フォスター・ケーンの死の謎「ローズバッド(バラのつぼみ)」を軸に、生涯が周囲の証言によって再構成されていく。深度焦点撮影、非線形構成、音響編集、照明設計。そのすべてが映画表現の革命となった。
スタッフ
- 監督・製作・脚本:オーソン・ウェルズ
- 共同脚本:ハーマン・J・マンキーウィッツ
- 撮影:グレッグ・トーランド
- 音楽:バーナード・ハーマン
- 編集:ロバート・ワイズ
- 配給:RKO
- 公開:1941年5月1日(米)
- 上映時間:119分
音楽は『サイコ』や『タクシードライバー』で有名なバーナード・ハーマン。編集は『ウエストサイド物語』の監督ロバート・ワイズが担当している。
キャスト

- チャールズ・フォスター・ケーン:オーソン・ウェルズ
- ジェデッドアイア・リーランド:ジョゼフ・コットン
- スーザン・アレクサンダー:ドロシー・カミンゴア
- バーンステイン:エヴェレット・スローン
- ウォルター・サッチャー:ジョージ・クールリス
- メアリー・ケーン:アグネス・ムーアヘッド
ケーンの親友役に『第三の男』で主演するジョゼフ・コットン。新聞記者を『シェーン』のアラン・ラッドが演じている。
あらすじ

広大な邸宅「ザナドゥ」で新聞王チャールズ・フォスター・ケーンが死ぬ。最期の言葉は、「ローズバッド(薔薇のつぼみ)」。その謎を追う記者トンプソンは、かつてケーンと関わった人々に取材を重ねる。母親に引き離され、富と引き換えに幼少期を失った少年。新聞を買収し、大衆を扇動し、政治家を目指した青年。愛をも「所有」しようとし、やがてすべてを失った男。人生は成功の連続でありながら、同時に空洞の拡大でもあった。最後に見つかるのは、燃やされていく一枚のそり。そこに刻まれた名“ROSEBUD”。それはケーンが最後まで取り戻せなかった「幸福」の名であった。
映画レビュー:世界を手にして、手の温度を失う

『市民ケーン』は、成功の物語ではなく、喪失の解剖である。富も名声も愛も手にした男が、人生の最後に握っていたのは、小さなスノードームだった。新聞王は、世界を手にした代わりに、世界を感じる手を失った。
ケーンは何を求めていたのか。愛か、承認か、支配か。その人区別を失ったまま、人生は膨張していく。ケーンにとって愛するとは所有することであり、成功するとは支配することだった。その積み重ねの果てに残るのは、ただの空洞、心の迷宮だった。
誰かを愛そうとすればするほど、ケーンはその相手を自分の一部にしようとした。スーザンに歌手の夢を押しつけたのも、彼女を輝かせるためではなく、「自分の夢の延長」に置くためだった。
この映画は、幼少期の一瞬、雪の中で遊ぶ少年ケーンの記憶をめぐる物語である。富と引き換えに、ケーンは「誰かに抱きしめられる」という感覚を失った。
“ローズバッド”は、その消えた温度の象徴。"薔薇のつぼみ"は、もう戻れない時間である。
ケーンは、人生のどこかで凍りついた時間が、最後の吐息として口をついて出た。ウェルズのカメラは、人間の“内なる建築”を描く。巨大な屋敷の柱やアーチ、遠近を誇張する構図は、ケーンの心の断層そのもの。広大な空間の中で、ケーンは常に小さく映る。光は遠く、声は反響し、影だけが異様に長い。それは「孤独の物理的な形」であり、映画が“孤独”を空間で表現した瞬間だった。
そして、この映画が『市民ケーン』と名づけられた理由も、そこにある。ケーンは市民を動かし、自らも“市民”であろうとした。市民に身を委ね、市民のために動き、市民の代表として存在しようとした。だが、社会における声が大きくなるほど、ケーンの「個」は遠ざかっていく。「市民」であろうとするほど、人間であることから離れていった。富と権力によって拡張された“公共の顔”が、内側の“私”を覆い隠していく。
『市民ケーン』とは、名声と孤独が同じ根から生まれる真実を抱えた映画である。ケーンはその名を呼ばれるたびに、子どもの頃の“名もなき自分”から遠ざかっていく。だから、最期の言葉は名ではなく、たった一つの呼びかけ“ローズバッド”だった。それは市民の言葉ではなく、子どもの叫び。
ラスト、そりが燃やされる場面。その炎は、単なる秘密の終焉ではない。「失われた人間性の葬送」であり、同時に「赦し」でもある。どれほど歪んでも、人はかつての無垢をどこかに抱いて生きている。それが灰となって消えるとき、ようやくケーンは“人間としての死”を迎える。
音楽レビュー:バーナード・ハーマンの“鳴らない旋律”

『市民ケーン』の音楽を担当したのは、後に『サイコ』『タクシードライバー』を生み出すバーナード・ハーマン。この映画の音楽は、感情を導くための装飾ではない。それは「沈黙の輪郭」を描くための音である。
ハーマンは、旋律よりも“間”を信じている。低音の弦が緩やかに波打ち、ブラスが遠くで響く。音が部屋の奥で迷っているかのようだ。ザナドゥの冷たい広間に響くその音は、ケーンの孤独の“残響”に近い。
冒頭の“ローズバッド”の場面。音は静かに膨らみ、そして吸い込まれるように消える。それは、ケーンの人生が音もなく閉じる瞬間を予告している。
ハーマンの音楽は、観客の感情を操作しない。それは、“人間の内面の残響”を可視化している。
終盤、燃え上がる炎のシーンでも、音楽は決して劇的にならない。その抑制こそが、ケーンの人生の重さを響かせている。音の少なさが、沈黙の深さを際立たせる。
『市民ケーン』は、問いの映画である。「人間とは何か?」という問いを、物語の奥に埋め込み、観る者に託す。その答えは誰も語らない。だからこそ、この映画は終わらない。“ローズバッド”は謎ではなく、すべての人が心に抱く原点の名だ。それを忘れたとき、人は成功しても幸福にはなれない。そして、それを探す旅こそが、生きるということの本質なのだ。
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