シネマの流星

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『ブギーナイツ』〜肉体と資本の祝祭、ポルノの黄金期と奈落

『ブギーナイツ』〜肉体と資本の祝祭、ポルノの黄金期と奈落

『ブギーナイツ』(原題:Boogie Nights)は、1997年公開のアメリカ映画(日本公開1998年)。監督・脚本はポール・トーマス・アンダーソン。1988年の短編『The Dirk Diggler Story』を自作で長編化し、実在のポルノ男優ジョン・ホームズをモデルに、1970年代末から80年代のポルノ業界の光と影を描く。高校中退の青年エディ・アダムスが“ダーク・ディグラー”としてスターへ昇り詰め、享楽の頂から転落し、仲間との再起に向かうまでの軌跡を、音楽と群像劇のうねりで刻む。

スタッフ

『ブギーナイツ』〜肉体と資本の祝祭、ポルノの黄金期と奈落

  • 監督:ポール・トーマス・アンダーソン
  • 脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
  • 製作:ポール・トーマス・アンダーソン、ロイド・レヴィン、ジョン・S・ライオンズ、ジョアン・セラー
  • 製作総指揮:ローレンス・ゴードン
  • 音楽:マイケル・ペン、カリン・ラットマン
  • 撮影:ロバート・エルスウィット
  • 編集:ディラン・ティチェナー
  • 配給:ニュー・ライン・シネマ(米)、ギャガ・コミュニケーションズ(日)
  • 公開:1997年10月10日(米)、1998年10月10日(日)
  • 上映時間:156分
  • 製作国:アメリカ合衆国

キャスト

『ブギーナイツ』〜肉体と資本の祝祭、ポルノの黄金期と奈落

  • マーク・ウォルバーグ(エディ・アダムス/ダーク・ディグラー)
  • バート・レイノルズ(ジャック・ホーナー)
  • ジュリアン・ムーア(アンバー・ウェイブス)
  • ヘザー・グラハム(ローラーガール)
  • ジョン・C・ライリー(リード・ロスチャイルド)
  • フィリップ・シーモア・ホフマン(スコッティ)
  • ドン・チードル(バック・スウォープ)
  • フィリップ・ベイカー・ホール(フロイド・ゴンドリ)
  • アルフレッド・モリーナ(ラハド・ジャクソン)
  • トーマス・ジェーン(トッド・パーカー)

あらすじ

『ブギーナイツ』〜肉体と資本の祝祭、ポルノの黄金期と奈落

1977年、トーランス。家庭不和の中でナイトクラブに勤めるエディ・アダムスは、ポルノ監督ジャック・ホーナーに見出され“ダーク・ディグラー”としてデビューする。人気女優ローラーガールと組んだオーディションを経てスターへ。親友リードとアクション仕立てのシリーズを当て、豪勢な暮らしを謳歌するが、79年の大晦日に仲間の悲劇が起き、80年代に入るとドラッグ依存や業界のビデオ化の波で歯車が狂い始める。ジャックと対立したダークは解雇され、音楽へ活路を求めるが失敗。売春や無謀なドラッグ取引に手を出し、銃撃戦に巻き込まれる。一方、バックは強盗事件に遭遇して転機を掴み、アンバーは親権を失い、ローラーガールはGED取得を目指す。やがてダークはジャックと和解し、仲間たちはそれぞれの場所で小さな再出発を果たす。

映画レビュー:音楽と群像で見せる“栄光→転落→再起”の王道ドラマ

『ブギーナイツ』〜肉体と資本の祝祭、ポルノの黄金期と奈落

レオナルド・ディカプリオがブギーナイツの出演を断り、タイタニックに出たことを悔やんだというのも、あながち誇張ではない。

ポルノ業界という刺激的な舞台を使いながら、物語の骨格は実に王道だ。見出され、上り詰め、驕り、堕ち、帰ってくる。アンダーソンは人物や風景を“ストーカーのように”追い、魅力的なものをひたすら憑け回す。カメラはディスコの光、プールサイドの蒸気、夜のフリーウェイを滑るように舐め、観客をその場の空気へ連れ込む。

ジャックの“映画”主義と、時代が押し寄せる“ビデオ”の波。その対立が80年代の転落劇に説得力を与える。リトル・ビルの悲劇的な夜、ダークとリードの空回りする音楽挑戦、モリーナの家での地獄のような一幕——緊張と笑いが同居し、長尺を感じさせない。

終盤、登場人物それぞれの“ささやかな再出発”が描かれる。バックは店を持ち、アンバーは現場に残り、ローラーガールは学び直す。ダークは原点である撮影現場へ戻る。アメリカン・グラフィティから始まり、最後はレイジング・ブル。

青春の熱狂を駆け抜け、傷だらけの自己を鏡に見つめる地点に着地する。余計な演出がなくても人生はそれだけで面白い——ゴージャスな楽曲群と俳優陣の熱で、その実感を押し出す一本だ。

映画レビュー:カメラ/身体/資本―“映すこと”が犯すことになるとき

『ブギーナイツ』〜肉体と資本の祝祭、ポルノの黄金期と奈落

この映画の本当の主役はカメラだ。人物を追い、風景を追い、執拗に憑依する。カメラが勃起している。カメラが射精している。カメラが映像とファックしている。アンダーソンは“見る/見られる”の非対称を、欲望の運動として可視化する。

ダークの“特異な身体”は市場の偶像となり、資本は身体に形を与え続ける。しかし資本が与える栄光は、同じ運動で主体を空洞化する。フィルムからビデオへ。手触りのある“映画”は儀式性を失い、即時性と大量生産の論理が世界を塗り替える。ジャックの挫折は、作家の矜持が資本の流速に敗北する寓話であり、同時に“形式が倫理を規定する”という厄介な真実の証明でもある。

転落の章で、ダークは自分を売り、他者を欺き、暴力のフレームに呑み込まれる。その瞬間、カメラは快楽の機械から記録の機械へと変質する。映し続けることは、同時に罪の証人であること。それでも映画は救いを拒まない。小さく、しかし「再配置」。バックは店内のステレオの音を“自分の音”に変え、ローラーガールは学び直し、ダークは再びカメラの前に立つ。身体は資本に搾取されうるが、同時に関係の結び直しによって回復されうるという希望。

『ブギーナイツ』は、肉体・視線・資本が絡み合うアメリカを、祝祭と墜落のリズムで描き切る。アメリカン・グラフィティの眩い出走から、レイジング・ブルの孤独な自己凝視へ。快楽の運動は終わらないが、その速度の中でこそ、人は自分の輪郭を、たとえ一瞬でも取り戻す。ヘザー・グラハムの裸があれば映画はできる。挑発的な真理を掲げつつ、映画はこう囁く。映すことは、世界と関係を結び直すことでもあるのだ。

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