
『夜の終りに』(原題:Niewinni Czarodzieje)は、1960年公開のポーランド映画。監督は『灰とダイヤモンド』のアンジェイ・ワイダ。原作を持たない初のオリジナル脚本で、原題は直訳すれば「無邪気な魔法使い」になる。ワイダはそれを「魅力を発揮する若者たち」と解釈した。夜のワルシャワを漂うジャズのリズムの中で、出会いと距離、触れそうで触れない関係の温度を、83分で鋭く描く。
スタッフ
- 監督:アンジェイ・ワイダ
- 脚本:イェジ・アンジェイエフスキ/イェジ・スコリモフスキ
- 音楽:クシシュトフ・コメダ
- 撮影:クシシュトフ・ウィニエウィッチ
- 公開:1960年12月17日(ポーランド)/1963年6月23日(日本)
- 上映時間:83分
撮影は1959年夏の2か月で行われ、全編にわたってコメダのジャズが流れる。脚本の第一稿では、最後に二人は別れ別れになる設定だったが、結末を決めないまま撮影が始まった。
キャスト

- アンジェイ「バジリ」:タデウシュ・ウォムニツキ
- マグダ「ペラギア」:クリスティナ・スティプウコウスカ
- エドマンド:ズビグニェフ・ツィブルスキ
- ミルカ:ワンダ・コチェスカ
- ジャーナリスト:カリーナ・イェドルシク
- 看護師テレサ:テレサ・シュミギエロフナ
- ドゥデック:ロマン・ポランスキー
ポランスキーがコントラバス奏者として出演する。アンジェイに殴られるボクサー役は脚本のスコリモフスキで、場面では実際に出血している。
あらすじ

ワルシャワ。若い医師アンジェイは、昼はボクシング・ジムの医務室で働き、夜は素人バンドのドラマーとして街に出る。親友エドマンドとナイトクラブへ行った夜、アンジェイは美しい娘マグダに出会う。終電を逃した彼女を自分のアパートへ連れて行き、「今夜は夜通し遊ぼう」と二人の時間が始まる。彼女は「ペラギア」と偽名を名乗り、二人は会話とゲームで距離を測り合い、少しずつ打ち解けていく。
やがて朝が来る。仲間が押しかけ、騒がしさが部屋の空気を変える。ふと気づけばマグダの姿は消え、アンジェイは街中を探し回る。だが、どこにもいない。失意のまま戻ると、マグダは部屋で待っていた。眠りに落ちるアンジェイを見届け、彼女は帰り支度をするが、なぜか、もう一度部屋へ戻っていく。
映画レビュー:触れそうで触れない夜、距離だけが近づく

この映画の主人公は、恋そのものというより「恋が始まる直前の空気」だ。名前を偽り、駆け引きをし、遊びのルールを作り、相手の反応を試す。その軽さは一見自由に見えるが、自由とは同時に、よりどころの無さでもある。夜が明けるまでの短い時間に、人は自分の正体を守りながら、ほんの少しだけ本音を漏らしてしまう。その漏れ方が、この映画の美しさになる。
『夜の終りに』は、恋愛映画というより、距離の映画だ。二人は近づくが、確かめ合うほど離れていく。言葉は多いのに、決定的なことは言わない。触れそうで触れない。抱きしめそうで抱きしめない。ここには、激しい事件も大きな告白もない。あるのは、夜のあいだだけ許される“保留”の時間だ。マグダが偽名を名乗るのは、相手を欺くためというより、自分を守るために見える。名前とは、他人に渡してしまう鍵みたいなものだ。鍵を渡せば、相手はあなたの部屋に入れる。
けれどこの映画の二人は、扉の前で遊ぶ。扉を叩きはするが、入れるとは言わない。だから夜のゲームが必要になる。マッチ箱を弾いて、勝敗で服を脱ぐ。子どもっぽい遊びに見えるが、本質は「どこまで踏み込めるか」を、偶然の形に預けることだ。自分で決めるのは怖い。だから運に決めさせる。その弱さが、妙に正直だ。
アンジェイも同じだ。医師として働きながら、ボクシングとジャズの間で暮らす。“強さ”の世界にいながら、実際には強さを演じているようにも見える。殴り合いのリングが、彼生活の舞台であり、恋のやり方にもそれが混ざる。勝つか負けるか、押すか引くか。恋が「相手を知ること」より先に、「相手に勝ちたい」に寄ってしまう瞬間がある。この映画は、その危うい瞬間をずっと引き延ばして見せる。
ジャズが全編に流れるのも意味がある。ジャズは、きれいに終わらないことがある。決着をつけずに次のフレーズへ行く。揺れているのに進む。その感じが、二人の夜とそっくりだ。会話も関係も、完成を目指していない。完成しないまま、朝へ滑り込む。
だから観客は、「結局どうなるのか」を期待するより、「今この揺れが何を守っているのか」を考え始める。面白いのは、夜が明けたときに世界の質が変わることだ。朝になると仲間が来て、部屋が現実に侵食される。二人だけのルールが崩れる。夜の密室で成立していた“特別さ”が、社会の気配に薄められる。するとマグダは消える。
アンジェイは街を探し回るが見つからない。ここは残酷だ。人は、失ってから初めて「欲しかった」と気づくことがある。夜の間、彼女を試していたのに、朝になった瞬間、試されていたのは自分だと分かる。
そして、戻ってくるマグダ。ここで映画は、簡単な答えを出さない。彼女は去る準備をするのに、戻ってしまう。この“戻り”が、この映画の核心だ。人は自由でいたい。けれど自由でいるためには、ときどき自分で自分を孤独にしてしまう。
戻るという行為は、縛られたい願望ではない。むしろ、「一度は自由に出たうえで、それでももう一度選び直す」という動きだ。選び直した関係だけが、たぶん本物に近づく。
『夜の終りに』は、愛を語らない。語らないことで、愛の周辺にある細かい感情。見栄、怖さ、好奇心、疲れ、やさしさ、逃げ癖をそのまま残す。夜は終わる。だが終わり方は一つではない。終わりは別れにもなるし、始まりにもなる。
この映画は、答えより先に、夜の手触りを残す。その手触りが、観終わったあとも妙に消えない。
