シネマの流星

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『新宿泥棒日記』〜万引きと革命のキス、都市が主役、愛は端役

『新宿泥棒日記』〜万引きと革命のキス、都市が主役、愛は端役

『新宿泥棒日記』は、1969年公開の日本映画。監督は大島渚、脚本は田村孟・佐々木守・足立正生・大島渚。創造社製作・ATG配給による白黒パート・カラーの実験的青春映画である。舞台は1968年の新宿。青年(横尾忠則)が紀伊國屋書店で万引きを繰り返し、偽店員の女(横山リエ)に捕まることで始まるふたりの関係は、性愛をめぐる滑稽な探求へと転じる。実在の紀伊國屋社長・田辺茂一や性科学者・高橋鐵、唐十郎率いる状況劇場の俳優陣が実名で登場し、ドキュメントと虚構の境界を交錯させながら〈性愛とは何か〉を問う。

あらすじ

『新宿泥棒日記』〜万引きと革命のキス、都市が主役、愛は端役

1968年夏の新宿。紀伊國屋書店で青年(横尾忠則)が万引きをすると、偽店員を装った女(横山リエ)に手を掴まれる。青年は「明日また」と再犯を予告し、翌日も同じことを繰り返す。やがて二人は親しくなり、恋人のような関係に進むが、いざ性交に及んでも盛り上がらない。困惑した二人は、性科学者・高橋鐵を訪ねたり、創造社の俳優たちのセックス談義に耳を傾けたりして「性とは何か」を模索する。
やがて物語は、唐十郎率いる状況劇場のパフォーマンスなど新宿のアンダーグラウンド文化と交錯し、性愛・演劇・政治が混じり合う幻想的な展開を見せてゆく。

スタッフ

  • 監督:大島渚
  • 脚本:田村孟、佐々木守、足立正生、大島渚
  • 製作:中島正幸
  • 撮影:吉岡康弘、仙元誠三
  • 編集:大島渚
  • 製作会社:創造社
  • 配給:ATG(日本アート・シアター・ギルド)
  • 公開:1969年2月25日
  • 上映時間:97分
  • フォーマット:白黒(一部カラー)

キャスト

  • 青年(岡ノ上鳥男):横尾忠則
  • 女(鈴木ウメ子):横山リエ
  • 紀伊國屋書店社長:田辺茂一(本人役)
  • 性科学者:高橋鐵(本人役)
  • 俳優:佐藤慶、渡辺文雄、戸浦六宏
  • 劇団状況劇場主宰者:唐十郎
  • 劇団状況劇場メンバー:麿赤兒、李礼仙、大久保鷹、不破万作、九頭登、藤原マキ、山中広介

映画レビュー:『新宿泥棒日記』—万引きと恋と68年の新宿

『新宿泥棒日記』〜万引きと革命のキス、都市が主役、愛は端役

本作をひとことで言えば、「アングラ青春ラブコメ×60年代新宿スケッチ」だ。青年が紀伊國屋書店で本を万引きする。手を掴んだのは偽店員の女。二人はやがて恋に落ちる、はずなのに、いざベッドに入っても「さっぱり盛り上がらない」。ここから映画は、セックスに悩む二人の珍道中に転がっていく。

性科学者のもとを訪ねたり、飲み屋で役者たちの赤裸々なセックス談義を聞いたり、さらには唐十郎率いる状況劇場が乱入してきたり。物語はどんどん逸脱し、真面目な性愛探求が、いつの間にか新宿アンダーグラウンド文化のショーケースに変わっていく。

面白いのは、青年を演じるのがグラフィック・デザイナーの横尾忠則、相手役がモデルの横山リエ、さらに紀伊國屋書店の社長・田辺茂一まで本人役で登場すること。映画と現実の境界がどんどん曖昧になり、観客は「これは物語なのか、ドキュメントなのか」と迷いながら、新宿という街の熱気に巻き込まれていく。

今で言うなら、「アート系実験映画と深夜バラエティが合体したカオス」みたいなものだ。万引き、恋、演劇、政治、性談義。何でも詰め込み、当時の新宿をそのままスクリーンに写し取る。エロでもコメディでも社会派でもあるが、どれかに収まらない“ごった煮感”こそが映画の魅力。

『新宿泥棒日記』は、シリアスに構える必要はない。むしろ肩の力を抜いて、1968年の新宿という遊園地を体験する映画だ。性の不発も、政治の熱も、演劇の過剰さも、すべてが「青春の一部」として軽やかに混ざり合う。混乱こそがエンタメ。それを大島渚は体現する。

映画レビュー:『新宿泥棒日記』—68年の街とヌーヴェル・バーグの影

『新宿泥棒日記』〜万引きと革命のキス、都市が主役、愛は端役

『新宿泥棒日記』は、性愛をめぐる小さな物語のフリをして、1968年という時代の震動をそのままスクリーンに刻みつける。万引きの青年と偽店員の女。彼らの交わりは、愛や性の解放を標榜するかに見えて、行為としては「成立しない」。むしろ“成立しないこと”そのものが、68年の気分を象徴している。革命のスローガンは街に溢れながら、実際の関係はぎこちなく、身体は宙吊りのまま。映画はその「不発」をあえて見せつける。

ここにヌーヴェル・バーグの影響が透ける。ジャン=リュック・ゴダールが物語を解体し、街の喧噪や政治のスローガンをフィルムに流し込んだように、大島渚も新宿という都市そのものを“主人公”として配置する。横尾忠則と横山リエの関係はあくまで媒介であり、カメラが本当に捉えたいのは、書店の熱気、劇場の混沌、政治的デモやアンダーグラウンドの雑踏といった「都市の身体」である。

唐十郎率いる状況劇場の介入は、そのまま政治的な「場の横断」を示す。物語の枠を突き破って、演劇が、現実が、政治が雪崩れ込む。ヌーヴェル・バーグがパリの街頭をフィルムに直結させたように、大島は新宿の路地や紀伊國屋書店を映画の中に持ち込み、フィクションとドキュメントを区別しない。ここで映画は単なる物語ではなく、現実の断片をめぐる闘争の場になる。

性愛の不発、演劇の混入、実名で登場する文化人たち。映画は断片をつなぎ合わせることで、むしろ統合を拒み、都市のカオスをそのまま提示する。

そこでは、関係は不発であり、制度は宙吊りであり、都市は劇場である。ヌーヴェル・バーグが投げた問いを、大島は日本の新宿に引き寄せて再生産する。だからこの映画は、いま見ても物語としては不完全でありながら、時代の気配をむき出しのまま残した、極めて政治的な映画なのである。

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by カエレバ