シネマの流星

映画とは魔法。どこでもドアであり、タイムマシン。映画館の暗闇はブラックホール。スクリーンの光は無数の星たち。映画より映画館のファン

『ハッド』〜孤独に負けなかった男の笑み、乾いた風に辿り着いた最後の自由

『ハッド』〜孤独に負けなかった男の笑み、乾いた風に辿り着いた最後の自由

『ハッド』(Hud)は、1963年に公開されたアメリカ映画。ラリー・マクマートリーの原作を脚色。テキサスの広大な牧場を舞台に、息子ハッドと、父ホーマーとの対立を通し、自由の空洞化を描く。ニューシネマ前夜の重要作である。

スタッフ

『ハッド』〜孤独に負けなかった男の笑み、乾いた風に辿り着いた最後の自由

  • 監督:マーティン・リット
  • 脚本:アーヴィング・ラヴェッチ、ハリエット・フランク Jr.
  • 原作:ラリー・マクマートリー
  • 音楽:エルマー・バーンスタイン
  • 撮影:ジェームズ・ウォン・ハウ
  • 製作:パラマウント
  • 公開:1963年
  • 上映時間:112分

哀愁と旅愁が漂う素晴らしき音楽の作曲は、エルマー・バーンスタイン。『大脱走』のマーチも手掛けている。撮影は、中国で生まれ、ハリウッドで活躍したジェームズ・ウォン・ハウ。

キャスト

『ハッド』〜孤独に負けなかった男の笑み、乾いた風に辿り着いた最後の自由

  • ハッド・バノン:ポール・ニューマン
  • ホーマー・バノン:メルヴィン・ダグラス
  • アルマ・ブラウン:パトリシア・ニール
  • ロン(ロニー)・バノン:ブランドン・デ・ワイルド

あらすじ

『ハッド』〜孤独に負けなかった男の笑み、乾いた風に辿り着いた最後の自由

テキサスに牧場を構えるホーマーと、放埒な息子ハッドは折り合いが悪い。牛に感染症が見つかり、全頭処分という政府命令を前に、二人の溝は決定的になる。牧場の未来を賭ける父に対し、ハッドは「隠して売り抜けろ」と迫る。家政婦アルマへの欲望、甥ロンへの暴力、家族の崩壊。そのさなか、事故で父ホーマーは死に、アルマも去り、ロンも家を出る。広大な牧場にたったひとり残されたハッド。成功も家族も去ったあと、男の背に吹くのはテキサスの乾いた風だけだった。

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映画レビュー:ハッドは、なぜ“虚無”に微笑むことができたのか

『ハッド』〜孤独に負けなかった男の笑み、乾いた風に辿り着いた最後の自由

ラストで、ポール・ニューマン演じるハッドが見せる、あの微笑み。あれは「強がり」でも「諦め」でも「達観」でもない。もっと原始的で、もっと深い、“自分の運命を受け入れた男の静かな誇り” だ。

この物語は、ただ孤独に沈む男の話ではない。自由の果てに虚無があり、虚無の中心に立つことを選んだ男の話である。

娯楽もなく、刺激もなく、風景はどこまでも同じ。毎日が退屈と繰り返しで満ちている。テキサスの広大な空虚を前にして、ハッドは苛立ちながらも安心している。なぜなら、この虚無はハッドを責めないからだ。その虚無の心地よさは、田舎で生きる者にとっては、痛いほどわかる。

都会へ行きたいとは思わない。なにも無いという無限の居心地のよさを、愛している。ハッドも、都会の喧騒より、誰も自分を追わない広大な虚無の中にいたほうが居心地がいい。

虚無はハッドを孤独にするが、同時に守ってもいる。父ホーマーを失い、甥ロンは去り、アルマも去っていく。ハッドの強がりも虚勢も、もう誰にも向ける相手がいない。

それでも泣かない。怒り狂わない。大声も出さない。ただ静かに、虚無を見つめる。その視線はこう語っている。

「そうだよな、こうなるってわかってた」

人生が用意した“因果応報”を真正面から受け止める男の姿だ。強がりでも、諦めでもない。もっと硬くて清々しい。他人も自分の人生を責めない男の表情である。

ラスト、ハッドは、父のいない牧場でひとりタバコを吸う。牛もいない。家も静まり返っている。誰も帰ってこない。そのとき見せる微笑。

「これでいいんだ」「全部背負って生きていく」

誰かの優しさにもたれかからず、愛されようと足掻くこともやめ、ただ“自分の重さで立つ”。虚無は空洞だ。その空洞に、ハッドは自分の形を見つけた。"何も残らない自由” に行き着いた。

この映画はハッドを罰して終わらせない。むしろ、ふさわしい境地へと送り届けている。孤独の中心に立ってもなお、それを肯定するような微笑みだ。

この映画の結末は冷酷に見えて、とても温かい。家族を失い、愛を失い、居場所を失ってもハッドは折れなかった。むしろ、虚無に微笑んでみせたことで、初めて本当の自由になった。そういう不器用で優しい感情を持っている。

風が吹き抜ける土地。どこにも行けないようで、どこにでも行けるような空。

その広大な孤独の真ん中で、ハッドはようやく自分を許した。自分を手に入れた。そして、わずかに微笑んだ。その笑みこそが、ハッドという男に与えられた遅すぎる救いなのだ。

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『ロンゲスト・ヤード』〜人生の一番長いヤードは、自分への距離

『ロンゲスト・ヤード』〜人生の一番長いヤードは、自分への距離

『ロンゲスト・ヤード』(The Longest Yard)は、1974年に公開されたアメリカ映画。監督はロバート・アルドリッチ。主演はバート・レイノルズ。堕ちた元NFL選手が、囚人たちを率いて看守チームと対決するフットボール映画でありながら、その内側には「人間はどこで再び立ち上がれるのか」という普遍的な問いが流れている。

スタッフ

  • 監督:ロバート・アルドリッチ
  • 脚本:トレイシー・キーナン・ウィン
  • 原案・製作:アルバート・S・ラディ
  • 音楽:フランク・デ・ヴォル
  • 撮影:ジョセフ・F・バイロック
  • 編集:マイケル・ルチアーノ
  • 製作会社:パラマウント映画
  • 公開:1974年8月21日、1975年5月17日(日本)
  • 上映時間:122分

下品この下ないファースト・テイク、バート・レイノルズと警官のやりとりを観た井筒監督は「こんなテンポの映画を将来、撮るに違いない」と思って見守っていた。

キャスト

『ロンゲスト・ヤード』〜人生の一番長いヤードは、自分への距離

  • ポール・クルー:バート・レイノルズ
  • ヘイズン刑務所長:エディ・アルバート
  • クナウア看守長:エド・ローター
  • ネイト・スカボロ(元プロ選手のコーチ):マイケル・コンラッド
  • ジェームズ・ファレル(便利屋・マネージャ):ジェームズ・ハンプトン
  • ポップ(囚人の老人):ジョン・スティードマン

マネキン人形でも恥ずかしくて着ない衣装を着こなすバート・レイノルズを井筒監督は「気取りというものが辞書にない」と絶賛している。

あらすじ

『ロンゲスト・ヤード』〜人生の一番長いヤードは、自分への距離

警官への暴行で実刑となった元NFLスターのポール・クルーは、囚人からも軽蔑される存在として刑務所に送られる。彼は八百長でキャリアを失った過去を持ち、誰からも信用されていない。

フットボール狂の所長ヘイズンは、看守チームを優勝させるため、クルーに囚人チームの結成を命じる。しかし裏で“囚人側は負けろ”と指示し、クルーを脅迫する。クルーは拒みつつも、やがて囚人たちの願いや怒りと向き合い、仲間を失いながらも「勝負を捨てる」か「自尊心を取り戻す」かの岐路に立たされる。

試合は本気となり、囚人チーム“ミーン・マシーン”は看守に追い詰められながらも再び立ち上がる。クルーは裏切りをやめ、勝利を選択。囚人たちは36-35で看守を破る。

そして試合後、彼が歩き出した方向を見た所長は「逃亡だ」と騒ぎ、看守長に射殺を命じる。だが看守長は撃たず、クルーが拾いに向かったのが「試合球」であるとわかると、ただ静かに「勝負あったな」とヘイズンへ銃を返す。クルーはボールを渡し、通路へ消えていく。

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映画レビュー:人は「自分を許す瞬間」にだけ、本当の力を取り戻す

『ロンゲスト・ヤード』〜人生の一番長いヤードは、自分への距離

『ロンゲスト・ヤード』は、看守と囚人の対立を描きながら、その奥で “自己赦免” という個人的で深いテーマを扱っている。主人公ポール・クルーは、問題児でも英雄でもない。ただ、自分の人生を途中で投げ出してしまった男だ。

囚人たちはそれぞれ、力はあるが、社会に居場所を奪われた男たちだ。フットボールを求める理由はひとつ。「誰かに認められたい」のではなく、「自分をもう一度信じたい」からだ。クルーは囚人たちと関わるうちに、封印していた心の筋肉がじわじわと動き始める。ゲームのためではなく、勝ち負けのためでもなく、“自分の恥を終わらせるため” にフィールドに戻る。

ハーフタイムでの裏切りは、まだ自分を許せていなかった証である。所長に脅され、仲間を守るために意図的に負けるクルー。しかし囚人たちは、その姿を“また逃げた”と見る。クルー自身もまた、胸の奥でそのことを理解している。ここが映画の核心である。

クルーは敵にではなく、仲間に裏切られたのでもなく、自分に裏切られた。この瞬間こそ、どこまでも自分を許していない証なのだ。

老囚人ポップの言葉に背中を押され、クルーは再びフィールドに立つ。この復帰には、ヒーロー的な高揚感はない。むしろ静かで、痛みを抱えたままの歩みだ。しかし、この歩みが、人生で最も重要な瞬間になる。逃げる自分を終わらせるために戻る。

その姿を見て、囚人たちは初めて「この男を信じてもいい」と思う。看守を倒すためではなく、自分の存在を肯定するために戦い始める。

勝利後、帰る観客の中へクルーが歩き出すシーンが秀逸だ。所長は逃亡とみなし、看守長に射撃を命じる。だが看守長は撃たない。クルーが拾いに行ったものは、ただのボール だ。逃げない。言い訳もしない。勝利の余韻に浸るわけでもない。ただ、試合を終えた男としてボールを戻しに行く。このボールは、キンタマ(自尊心)の象徴である。

クルーはトロフィーを手にしない。称賛も浴びない。ただ、球を返して通路へ消える、その姿は失われた人生を取り戻した者だけが持つ静かな光を帯びている。

人は、他人のためではなく「自分のために立ち戻ったとき」本当に強くなる。暴力や勝利の爽快さではなく、クルーが“自分に対する嘘”をやめる瞬間 を描いている。

仲間のために戦ったのではない。正義のためでもない。刑務所内の権力を倒すためでもない。ただ、一度捨てた人生の手綱を、もう一度握り直しただけだ。

その強さこそが、全力で走り切った囚人チームが勝ち得た、試合以上の報酬だった。

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映画レビュー:同じ過ちの“二周目”で、人は本当に試される

『ロンゲスト・ヤード』〜人生の一番長いヤードは、自分への距離

『ロンゲスト・ヤード』でいちばん深い問いは、「ポール・クルーは、なぜいつも“誰かのため”に自分を安く売ってしまうのか」「なぜ今回はそれをやめられたのか」というところにある。

最初の八百長は、「親孝行」という名の自己放棄だった。プロ時代、クルーは父親の老後のために八百長に手を染める。ここが重要なのは、単なる金の亡者ではないことだ。クルーは、自分のためだけに試合を売ったのではない。そこには「親父を楽にしてやりたい」という、ひとつの“言い訳を伴った善意”がある。

ここでクルーが壊したのはキャリアではなく、「自分という人間への信頼」そのものだ。そして、所長の“取引”は、プロ時代の八百長の完全なコピーだ。

刑務所でのフットボールは、ただの娯楽ではない。所長ヘイズンは、クルーの過去を完全に把握したうえで、同じ構図を再現する。

どちらの八百長も「誰かのため」という顔をしているが、実際には「自分が傷つくリスクを減らすため」の選択でもある。逃げるとき、人はたいてい“いい理由”を持っている。クルーの悲劇は、その“いい理由”を持つ才能が高すぎることだ。

ハーフタイムでクルーは、一度は「負けるほう」を選ぶ。それは囚人たちへの裏切りであると同時に、「ああ、やっぱり俺は同じことを繰り返すんだな」という自己確認でもある。クルーは、自分自身を一番深く裏切っている。

プロ時代の八百長は一度きりの過ちで済んだ。しかし、二度目に同じ構造をなぞろうとした瞬間、それは「過去の失敗」ではなく「自分の本質」になってしまう。

一度の過ちは事故だが、二度目の同じ過ちは、その人間の“性質”になる。

クルーがハーフタイムで揺れているのは、実は看守と囚人の間ではなく「一度きりの失敗で終わる男」になるか「一生逃げ続ける男」になるかという、自分の“定義”を決める境界線の上だ。

老囚人ポップは、クルーに説教をしない。正義や義理を持ち出さない。代わりに突きつけるのは、たったひとつの問いだ。

「このまま終わって、お前は自分の顔に耐えられるのか?」

ここで問われているのは、善悪ではない。この映画が問い詰めるのはもっと個人的で残酷なことだ。

「今日の自分を、10年後の自分が見たとき、どう思う?」

クルーにとって、フィールドに戻ることは看守への反抗でも、囚人への義理立てでもなく、未来の自分に見せられる顔を作りに行く行為だ。

重要なのは、クルーがここで初めて「父親の老後のためにやった」という過去に、内心でNOを突きつけていることだ。あれは親孝行ではなかった。あれは父を守るふりをして、自分の弱さから目をそらしただけだった。

今回フィールドに戻ることは、「父親に対する本当の敬意」を、遅すぎる形で取り戻そうとする動きでもある。この意味で、クルーの選択は、父親への遅すぎる手紙でもある。

ラストでクルーは、観客の退場口へ向かうような動きをする。所長はそれを“逃亡”と決めつけ、射殺を命じる。だがクルーが拾いに行ったのは、栄光でも自由でもなく、ただの試合球だ。クルーはトロフィーも演説もいらない。欲しいのは、「ちゃんと戦いきった」という内側の感覚だけだ。ボールを返して通路へ消えていく姿は、派手なヒーローの凱旋ではない。「これでようやく、昨日までの自分と手が切れた」という、静かな離婚届みたいなものだ。

一度目の八百長は、若さと愚かさの産物かもしれない。だが二度目は、その人の“生き方そのもの”になる

クルーは二度目の誘惑の前で立ち止まり、ようやく自分自身に「NO」を言う。クルーが本当に救ったのは、自分の人生の物語だ。

「俺はあのときから何も変わってない」と思い続けて生きるか、「あそこでやっと変わった」と言える瞬間を持つか。その違いが、クルーにとっての“Longest Yard”だった。

この映画は、同じ過ちを跳ね除けたときにしか手に入らない小さな誇りを、刑務所のフットボールという、いちばん粗い舞台で描いている。

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『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

『バリー・リンドン』(Barry Lyndon)は、1975年に公開された歴史映画。18世紀ヨーロッパの社会階級、戦争、結婚、賭博、決闘。人間の運命が“偶然と欲望”に揺さぶられる世界を、スタンリー・キューブリックが圧倒的な視覚美で描いた大作。原作はサッカレーの小説『The Luck of Barry Lyndon』(1844年)。

スタッフ

  • 監督・脚本・製作:スタンリー・キューブリック
  • 原作:ウィリアム・メイクピース・サッカレー
  • 製作総指揮:ヤン・ハーラン
  • 音楽:レナード・ローゼンマン(ハンデル、シューベルトなどの既存曲を編曲)
  • 撮影:ジョン・オルコット
  • 編集:トニー・ローソン
  • 配給:ワーナー・ブラザース
  • 公開:1975年12月18日、1976年7月3日(日本)
  • 上映時間:185分

音楽プロデューサーは、当初ニーノ・ロータだったが、キューブリックが時代設定に合わないシューベルトの作品を用いたことに意見が対立し、降板した。後任は『エデンの東』や『理由なき反抗』のレナード・ローゼンマンが務めた。

キューブリックや撮影のジョン・オルコットは、時代の雰囲気を忠実に再現するため、ロウソクの光だけで撮影。NASAのために開発された明るいレンズを使用した。

キャスト

  • レドモンド・バリー/バリー・リンドン:ライアン・オニール
  • レディ・リンドン:マリサ・ベレンソン
  • ブリンドン子爵:レオン・ヴィタリ
  • ポツドルフ大尉:ハーディ・クリューガー
  • シュヴァリエ・ド・バリバリ:パトリック・マギー
  • バリーの母ベル:マリー・キーン
  • ナレーター:マイケル・ホーダーン

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あらすじ

『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

18世紀のアイルランドに生まれたレドモンド・バリーは、従姉ノラへの恋と彼女の求婚者クイン大尉への嫉妬から決闘を行うが、家族による芝居によって村を追われる。無一文となったバリーは七年戦争に志願して渡欧し、戦場での脱走・変装・詐術を経てプロイセン軍に入隊、のちにスパイ任務で知り合ったギャンブラーのシュヴァリエと行動を共にし、ヨーロッパ社交界でイカサマ賭博に生きるようになる。

その途上で病弱なリンドン卿の若い妻レディ・リンドンを誘惑し、やがて卿が亡くなると結婚して「バリー・リンドン」と名乗り領地を手に入れる。しかし放蕩と浪費に溺れ、妻の連れ子ブリンドン子爵と深く対立し、評判を失い、最愛の息子ブライアンの死で家庭は崩壊する。

没落したバリーは酒に溺れ、家計は破綻。ついにブリンドン子爵から決闘を申し込まれ片脚を失う重傷を負う。バリーは年金と引き換えに国を去るよう命じられ、母と共にイギリスを離れて放浪生活へ戻る。彼のその後の消息は定かではない。

映画レビュー:成功とは“偶然に拾った椅子”であり、転げ落ちるもの

『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

『バリー・リンドン』は、出世物語にも栄光の物語にも見えるが、実際には「人間は、何によって人生を左右されているのか」という問いが、175分の静かな奔流となって画面を流れていく。

バリーは特別な才能を持たない男だ。勇気があるわけでも、知性に秀でているわけでもない。ただ、“その場その場で刺激に反応する”というシンプルな衝動で生きている。その衝動が、恋を引き寄せ、決闘を招き、戦争に巻き込まれ、脱走へ追いやり、イカサマ賭博に手を染め、やがて貴族の未亡人と結婚する。

バリーは階段を登るのではない。転がりながら、たまたま高い場所に落ち着いてしまった男である。

人生の選択の大半は、熟考の結果ではなく、怒り、嫉妬、欲望、退屈しのぎ。そういった即興の反応から決まっていく。バリーはその反応の純度が高く、特別な怪物ではない。

上流社会に到達した途端、バリーは自分の「空白」と向き合わされる。レディ・リンドンと結婚し、豪奢な邸宅に住み、貴族としての振る舞いを身につけようとする。しかし努力すればするほど、自分の“不在”が際立つ。教養がない、誇りの置きどころが曖昧、どこに立てば良いのか理解していない。

成功とは、金や肩書を手に入れることではなく、その場所を支えるための「自分という芯」を持っていることだ。バリーにはそれがない。だから、見栄と浪費で“自分の形”を外側から作り始める。だが、外側から固めた形は、ひとつの不運で簡単に崩れる。息子ブライアンの死は、その崩壊の最初の亀裂だ。バリーは息子を愛することで、自分の空虚さを埋めようとしていた。その唯一の“意味”が消えたとき、バリーは落ちるしかなくなる。

バリーは悪人ではない。しかし善人でもない。ただ、幸福をつかむ器を与えられなかった人間だ。それでも、落ちぶれた最後の瞬間。決闘に敗れ、片足を失い、年金と引き換えに国を追われる場面、そこに奇妙な静けさがある。

成功の輝きより、失敗のあとの静けさのほうが、人を真実に近づける。愛した分だけ、痛みも増す。高く登った分だけ、落ちる時の音が大きく響く。

キューブリックの冷静な構図は、その皮肉を“美しさ”として包み込む。もがきのすべてが、キャンドルの光の中に漂う埃のように見える。

バリーはどこに行っても「借り物」だった。軍隊の服も借り物、ギャンブルの技も借り物、貴族の称号も借り物、息子への愛さえ、拠りどころとして借りていた。自分の名前で立つことができなかった。だが、その不器用さは、時代と階級の中に生まれた普通の人間の姿でもある。

『バリー・リンドン』は、成功と失敗を対立させない。どちらも大差ない。人はどちらにいても孤独で、どちらにいても迷い、どちらにいても自分を見失う。だからこそ、人生は美しい。どんな終わり方をしても、その人の物語に変わりはない。

キューブリックの冷徹な視線は、バリーを突き放しているように見えて、実はもっと深い場所で肯定している。

「人はみな、何者にもなりきれないまま、生きて、そして散っていく」

その静かな事実を、キャンドルの炎のように揺らめく映像で刻みつけた映画。滑稽で、残酷で、それでも目を離せない生のかたちが、『バリー・リンドン』には詰まっている。

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映画レビュー:なぜバリーは、自分から銃弾を受けにいったのか?

『バリー・リンドン』〜銃弾は敗北ではなく、帰郷の扉、偽りの頂から、本当の自分へ

バリーは、数奇な運命を“銃弾を避けることで”くぐり抜けてきた男だ。クイン大尉との決闘を生き延び、戦場でも死を回避し、脱走兵として処刑を免れ、詐欺師として貴族の元で地位を得るまで、一度として銃弾が肉体を貫くことはなかった。バリーが貴族の頂点に近づけたのは「被弾しなかった人生」の上に成り立っている。

しかし、バリーが社会階級の最上階に触れたあと、その地位を失う原因となるのは “自ら浴びた銃弾” である。なぜバリーは、義息ブリンドンに銃を撃たせたのか?

若いバリーは、行き当たりばったりで行動しながらも、不思議なほど “死だけは避ける”才能 に恵まれていた。戦争では、戦術でも勇敢さでもなく、ただ“運”と“その場しのぎ”で生き残る。この生存は、「自分にはまだ何かがある」 という幻想を与える。

その幻想が、詐欺へ、賭博へ、貴族への上昇へと導いていく。実態のない空気の階段を、運だけで登っていくような生き方だ。

手にしたものはどれも仮のもので、それでも一瞬、眼前には スコットランドの貴族の青空(=虚空) が広がる。バリーは中身を持たないゆえに“空”を持てた男だった。

しかし、成功した瞬間、「銃弾を避ける理由」を失った。バリーが求めたものは、愛でも誇りでもなく、ただ 「自分が何者かになれる場所」。しかし、貴族の生活に入ったとき、悟り始める。自分には、教養もない。貴族としての誇りもない。構築してきた人生の支柱もない。上に登り切った瞬間、自分の空虚さしか見えなくなる。

成功したあと、バリーは初めて “生き残る意味の喪失” と向き合わされる。銃弾を避けてきた理由が、もうどこにもなかった。

物語の終盤、ブリンドン子爵に決闘を挑まれたとき、バリーは相手を倒すことができた。経験がある。蛮勇もある。運もまだ残っている。

それでも、あえて引き金を引かず、自ら無防備になり、銃弾を受ける道を選ぶ。これは衝動ではない。むしろ、人生で初めての“能動的な選択”だった。

バリーは気づいた。自分が歩んできた上昇の階段は、運に押し上げられただけの、中身のない仮設の高台だったと。そこに居続ける理由は、もうどこにもない。銃弾を受けるとは、「バリー・リンドン」という偽名を終わらせる行為だった。

バリーは貴族から落ちていくのではなく、自分で降りていった。銃弾を受け、左脚を失い、決闘相手からの年金と交換で国を去る。この結末は「失脚」ではない。

自身が架空の階級から降り、レドモンド・バリーという出発点に戻るための道だ。ようやく、自分の本当の場所を選んだ。貴族の空は借り物で、アイルランドの虚空こそが、本当に自分の頭上にあった空だった。

貴族という虚像から離れたとき、初めてバリーは、虚空の本当の意味を知る。それは「何も持たないこと」ではなく、「自分の名前で立つこと」

バリーは“負けた”のではなく、“戻った”のだ。多くの人物は成功を目指して生きるが、成功が自分を壊すと気づいている者はほとんどいない。

バリーは偶然によって階段を登った。そして最後は、自分の意志で階段を降りた。撃たれた瞬間は、敗北ではなく、「生涯で初めて、自分の人生に責任を持った瞬間」でもある。銃弾を受けることで、バリーは初めて“自分の重さ”を手に入れた。

過剰な虚飾もなく、借り物の称号もなく、レドモンド・バリーとして呼吸できる生を選んだ。

なぜバリーは自ら銃弾を受けたのか?それは、手にしてきたものすべてが「避けた銃弾の上に築かれた偽りの人生」だと悟ったからだ。そして、銃弾を受けることによってしか、自分の人生を“自分のもの”として取り戻すことができなかったからだ。

銃弾は、身を滅ぼすのではなく、レドモンド・バリーという本当の名前へ帰すための扉となった。

バリーは人生の最後に、虚空のスコットランドを捨て、虚空のアイルランドへと帰っていった。そこには、初めて自分で選んだ空が広がっている。

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『ゲッタウェイ』〜銃声より速く、心が追いつく

『ゲッタウェイ』〜銃声より速く、心が追いつく

『ゲッタウェイ』(The Getaway)は、1972年のアメリカの映画。原作はジム・トンプスンが1958年に著した同名の小説。この映画をきっかけに、スティーブ・マックイーンとアリ・マッグローは翌年に結婚し、本当の夫婦になる。

スタッフ

  • 監督:サム・ペキンパー
  • 脚本:ウォルター・ヒル
  • 原作:ジム・トンプスン
  • 製作:デイヴィッド・フォスター、ミッチェル・ブロウアー
  • 音楽:クインシー・ジョーンズ
  • 撮影:ルシアン・バラード
  • 編集:ロバート・L・ウォルフ
  • 公開:1972年12月13日、1973年3月16日(日本)
  • 上映時間:122分

井筒監督は、サム・ペキンパーの演出について「マックの射つ心がスッと僕の目の中に融けて入る。とってつけるのではなく、より判らせるその作風が、ペキンパーを孤高に追い上げていた」と絶賛。

キャスト

『ゲッタウェイ』〜銃声より速く、心が追いつく

  • ドク・マッコイ:スティーブ・マックイーン
  • キャロル・マッコイ:アリ・マッグロー
  • ジャック・ベイノン:ベン・ジョンソン
  • ルディ・バトラー:アル・レッティエリ
  • フラン・クリントン:サリー・ストラザース

井筒監督は、この映画のマックを「正義も悪もない。暴力で理性を表現できる俳優」と賞賛している。

あらすじ

『ゲッタウェイ』〜銃声より速く、心が追いつく

刑務所に服役中のドク・マッコイは仮釈放が拒否され、裏で手を回した大物ベイノンの力で釈放される。その見返りとして銀行強盗を命じられ、妻キャロル、仲間ルディと共に50万ドルを奪うが、金を独占しようとしたルディを撃退した後、ベイノンの別荘へ向かう。ベイノンは弟の横領を隠すため強盗を画策し、さらにドク排除のためキャロルを抱き込んでいたが、キャロルは逆にベイノンを射殺し、ドクと共に逃走する。

二人はメキシコを目指し国境の町エルパソへ向かうが、置き引き騒ぎで顔と大金を見られ、指名手配同然の状態に。生き延びていたルディとベイノンの弟も追跡を開始する。通報されながらも「犯罪者御用達の宿」に辿り着いたドクとキャロルは、激しい銃撃戦の末に敵を退ける。修理屋の協力で国境を越え、大金とともにメキシコへ走り去るのだった。

映画レビュー:夫婦は、逃げながらようやく“同じ速さ”になる

『ゲッタウェイ』は、強盗映画に見えて、実のところ“夫婦の速度”を描いた映画だ。逃走という極限下で、ふたりが互いの痛みと欲望をさらけ出し、同じ方向へ走る覚悟を固めていく。ペキンパーはその過程を、銃撃やカーアクションの陰に置いている。

キャロルは夫を釈放させるために、ベイノンに身体を売り、生涯で一番苦い決断をする。ふたりの逃走の始まりには、すでに“裏切りの傷”がある。この映画の緊張は、警察や追手ではなく、夫婦がその傷をいつ、どうやって見つめ合うかにある。

ドクはキャロルを責める。キャロルは泣き、反論し、それでも離れず、ハンドルを握る。ふたりは怒鳴り合い、沈黙し、金を失い、命を落としかける。不思議なことに、逃げれば逃げるほど、互いへの依存は強まり、理解が深まっていく。

信頼とは、正しさの上に作られるものではなく、「それでも一緒にいる」という選択の積み重ねによって育つ。そんな真実がこの映画にはある。

追手との銃撃戦、裏切り、傷、血。その後に訪れる静かな状況で、ふたりは寄り添う。

『ゲッタウェイ』は、愛を救いとは描かない。生き延びた先でしか愛を実感できない、そんな不器用さが胸に残る。

ドクとキャロルは、同じ闇を分け合うことで夫婦になる。それまでは、夫と妻という役割を演じながら、どこか別々の生き物だった。だが、警察に追われ、写真を晒され、金を奪われ、どうにもならない現実にぶつかるたびに、少しずつ歩幅が揃っていく。

逃走とは、外側の世界からの逃げではなく、互いの心にある「疑い」と「弱さ」からの脱出である。

敵を倒し、国境を越えるころ、ふたりは本当の夫婦になっている。式も誓いもない。ただ、逃げ続けた日々の中で、同じ危険を共有し、同じ選択をしてきた。それだけで十分だと、マックもペキンパーも、静かに告げる。

ドクもキャロルも、もう正しい生き方には戻れない。だが、ふたりで走り続けるという決意は、誰にも奪えない。

最後にドクが、オンボロのトラックを譲り受ける場面は、勝利ではない。「これでやっと一緒に生きていける」という開放感だ。

『ゲッタウェイ』は、愛の物語でも信頼を取り戻す物語でもなく、同じ速度で生きるための闘争を続けた夫婦の物語だ。互いを疑い、怒り、裏切りを飲み込み、それでも手を離さない。その不格好な愛の形が、マックの無言の強さとともに、最後のフレームまで息づいている。

 

マックの傑作映画

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

『ライアンの娘』(原題: Ryan's Daughter)は、1970年のイギリス映画。アイルランド独立戦争前のアイルランド島の寒村を舞台に、駐在しているイギリス軍将校と、その村に住む人妻ロージーとの不倫を通して描かれるヒューマン・ドラマ。人々の誤解、嫉妬、欲望が、孤立した村で渦を巻き、ひとつの不倫が人間関係と共同体を揺るがす。

スタッフ

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

  • 監督:デヴィッド・リーン
  • 脚本:ロバート・ボルト
  • 製作:アンソニー・ハヴロック=アラン
  • 音楽:モーリス・ジャール
  • 撮影:フレディ・ヤング
  • 編集:ノーマン・サヴェージ
  • 配給:MGM
  • 公開:1970年

監督は『戦場にかける橋』や『アラビアのロレンス』などのデヴィッド・リーン。撮影はアイルランドのディングル半島で行われた。

キャスト

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

  • チャールズ・ショーネシー:ロバート・ミッチャム
  • ロージー・ライアン:サラ・マイルズ
  • ランドルフ・ドリアン少佐:クリストファー・ジョーンズ
  • トーマス・ライアン:レオ・マッカーン
  • コリンズ神父:トレヴァー・ハワード
  • マイケル(村の知恵遅れの青年):ジョン・ミルズ

あらすじ

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

1916年、イースター蜂起の失敗後。アイルランド独立運動の火がくすぶる寒村キラリーに、教師チャールズが戻ってくる。チャールズを待っていたのは、村一番の美貌と噂されるロージー。年の離れた二人は結婚し、村人に祝福されるが、初夜から“心と身体のすれ違い”が始まる。

そんなロージーの前に、戦争で心を壊したイギリス軍将校ランドルフが赴任する。負傷した身体と孤独は、ロージーの満たされぬ想いと引き寄せ合い、二人は密かな関係へと落ちていく。その姿を、村の知恵遅れの青年マイケルは陰から見つめていた。

一方、独立派はドイツからの武器密輸を計画。しかし密告によって作戦は破綻し、村にはイギリス軍への憎悪が渦巻く。その怒りは、ロージーへと向けられ、彼女は“裏切り者”としてリンチにかけられてしまう。

暴力の只中で、夫チャールズは身を挺してロージーを守り抜く。その姿に、ロージーはようやく彼の深い愛を知るが、すべては遅すぎた。村を捨てるように二人は街を離れていく。神父が「二人は別れるのか」と問うと、チャールズは静かに頷く。「わからん。その疑問がお前への花向けだ」。二人の未来も、愛のゆくえも、答えはない。ただ、アイルランドの荒波だけが、ふたりの選んだ別れを静かに飲み込むのだった。

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映画レビュー:愛した人を救えないとき、何を抱えて生きていくのか

『ライアンの娘』〜愛は遅れ、誤解は先に届く、欲望の小さな火が、村を燃やしていく

『ライアンの娘』は、不倫の物語ではなく、「未熟な愛」と「遅すぎる愛」がぶつかり合う物語である。ロージー、ランドルフ、チャールズ、そして村全体。誰もが誰かを求めているのに、求め方が下手すぎて、みんなが少しずつ壊れていく。

ロージーが欲しがっているのは、恋愛そのものというより、「自分の人生が燃えている手応え」だ。年上で穏やかなチャールズとの結婚は、優しさと安定をくれるが、身体の熱を受け止めるには足りない。初夜のつまずきは、ただのセックスの問題ではない。ロージーにとって「私は女としてちゃんと見られているのか?」という問いが、最初の夜から空中に放り出されたままになる。

そこに現れるのが、戦場帰りで心身ともに傷ついたランドルフだ。ロージーの飢えた視線と、ランドルフの壊れかけた眼差しは、最初から健康的ではない。互いの「欠け」を埋めるのではなく、「穴と穴」がくっついたような関係だ。それでも、二人が木立の中で抱き合う場面には、どうしようもない切実さがある。満たされない妻と、戦争に魂を置き忘れてきた男が、一瞬だけ「生きている」と錯覚できる時間。それは間違いでありながら、嘘とも言い切れない感情だ。

一方、チャールズの愛は、あまりに静かで、あまりに遅い。ロージーを深く想っているのに、その想いを「正しさ」と「我慢」のフィルターに通してしまう。問いたださない、責めない。その優しさは、ロージーから見れば「私を女として見ていない」という別の暴力になる。それでも最後まで選ぶのは、ロージーを罰することではなく、「彼女のいる場所に、ともに立ち続けること」だ。これは、夫としては滑稽で、男としては惨めで、しかし人間としては恐ろしいほどの誠実さでもある。

物語の途中から、舞台は個人の感情を超えていく。村人たちの憎しみ、独立運動の高揚、裏切り者探し。アイルランドの歴史と鬱屈が、すべて「ロージーの身体」に押しつけられる。村人はロージーを責め、髪を刈り、服を剥ぎ、彼女を見世物にする。

ここで村が求めているのは、真実ではない。自分たちの怒りを安全にぶつけられる「標的」だ。罰したいのではなく、混乱した世界の不安を、誰か一人に背負わせたい。

この映画が重く、長く、心に残るのは、誰も「完全には間違っていない」し、誰も「完全には正しくない」からだ。

ロージーの欲望も、ランドルフの逃避も、村人たちの怒りも、チャールズの沈黙も、どれも人間の証明と恐れの別の顔にすぎない。

村を去るバスに乗る二人。チャールズは、神父に「別れるのか」と問われ、無言で頷く。そして神父が言う。「わからん。その疑問がお前への花向けだ」

ここが、この映画の哲学の核心だ。

チャールズは、ロージーを本当に理解できたのか?ロージーは、チャールズの愛を本当に受け取れたのか?どれも「わからない」。人生は、はっきりした答えが出ないまま続いていく。その「わからなさ」ごと相手を抱きしめることしか、人にはできないのだと映画は告げている。

『ライアンの娘』は、不倫を裁く物語ではなく、「人は、愛した相手のすべてを理解することなんてできない」と、アイルランドの風と嵐の中に刻み込んだ映画だ。

それでも人は、傷つきながら、勘違いしながら、誰かの側に立とうとする。その不完全さこそが、人間の愛のいちばん深い場所なのだと、この長い物語は、教えてくれる。

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『トラック野郎・爆走一番星』〜失恋のハンドルは離さない、失恋は発車ベル

『トラック野郎・爆走一番星』〜失恋のハンドルは離さない、哀しみを積んで走る

『トラック野郎・爆走一番星』は、1975年12月公開の東映娯楽映画。大ヒットとなった前作の勢いを受け、より濃密な人間ドラマと、「昭和の道を走る者たち」の哀歓を盛り込んだシリーズ第2作である。マドンナ役はあべ静江。ライバルとなる“ボルサリーノ2”を田中邦衛が怪演し、ロードムービーでありながら、情念と生活の重みが深く沈殿する一本に仕上がった。

スタッフ

監督:鈴木則文
脚本:鈴木則文、澤井信一郎
音楽:木下忠司
撮影:飯村雅彦
製作:東映
公開:1975年
上映時間:96分

キャスト

『トラック野郎・爆走一番星』〜失恋のハンドルは離さない、哀しみを積んで走る

星桃次郎(一番星):菅原文太
松下金造(やもめのジョナサン):愛川欽也
高見沢瑛子:あべ静江
杉本千秋:加茂さくら
赤塚周平:なべおさみ
須間田三四郎:山城新伍
片岡光二:夏八木勲
ボルサリーノ2:田中邦衛
松下君江:春川ますみ
女教師:研ナオコ

あらすじ

新潟の山中で女子学生のバスに歌で割って入る桃次郎とジョナサン。東京へ戻って仕事をこなしつつ、桃次郎は“理想の女”を求めて見合い写真を撮る。

姫路の台貫場で出会うのは、警官・赤塚、そしてバキュームカーの女運転手・千秋。千秋とは喧嘩腰で衝突しながらも、どこか憎めない空気をまとっていく。

ドライブイン「おふくろ」では、女子大生・瑛子と出会い、桃次郎はまたも一目惚れ。
だが太宰治を「果物」だと思うなど、文化的なボロを出しては失笑を買い続ける。

桃次郎の見合い写真は誤って千秋に渡り、彼女は桃次郎に惹かれはじめる。瑛子への想いと千秋の誤解が、桃次郎をますます混乱させていく。

一方、ジョナサンは“ボルサリーノ2”に襲われる。それはかつてジョナサンが“花巻の鬼台貫”だった頃に絡む因縁だった。ジョナサン一家は長崎へ“遅い新婚旅行”へ向かい、
途中で知り合った小野姉弟の境遇に胸を痛める。

帰路、「おふくろ」で瑛子と再会した桃次郎は、彼女に“九州へ行く理由”を頼まれ、心が揺れる。一方千秋は、桃次郎の乱雑な振る舞いが「照れ隠し」だと誤解し続け、赤塚は千秋の処女性を妄想して逆上し、最終的に懲戒免職に。その千秋と赤塚は、ドライブインで“突然の結婚式”を挙げる。

大晦日、桃次郎は勇気を出して瑛子に告白に向かうが、瑛子は義兄への元へ向かう決心をしていた。恋に破れた桃次郎は、道を流す途中で小野姉弟の父親と遭遇。金がなく帰れなかった父親を一番星号に乗せ、長崎を目指す。

白バイ、パトカー、障害物。次々と迫る追跡を、ボルサリーノ2をはじめ仲間トラックが援護する。そして深夜0時前、桃次郎は約束の“父親の帰宅”を間に合わせるため、一番星号を走らせ続け、ついに家族を再会させる。それが、大晦日のすべてだった。

映画レビュー:桃次郎という“失恋の達人”

『トラック野郎・爆走一番星』〜失恋のハンドルは離さない、哀しみを積んで走る

『爆走一番星』の桃次郎は、恋愛に関して、どうしようもなく下手だ。惚れた相手に近づくための“努力の方向”はズレているし、思い込みは激しいし、何より、肝心なところでいつも一歩間違える。

太宰治を必死で読みあさるのも、「惚れた女の足元に立ちたい」という、不器用な背伸びでしかない。だが、そうやって精一杯カッコつけた瞬間に限って、桃次郎は一番カッコ悪い姿をさらしてしまう。プロポーズは完全に空振り。恋に必死になればなるほど、桃次郎の背中には“負け犬”の影が伸びていく。

それでも、スクリーンのこちら側は、不思議と桃次郎を哀れに感じない。むしろ、胸の奥が少しあったかくなり、なぜか「いいぞ桃次郎」と言いたくなる。なぜか?理由は単純で、しかし深い。

桃次郎は、自分の恋が砕けても「誰のせいにもしない」からだ。

瑛子に恋人がいたことを知った瞬間、桃次郎は悲しみに飲まれるが、そこに恨みや嫉妬はない。「うまくいかなかったのは、自分が届かなかっただけ」

その潔さが、痛いほどの人間味となって残る。そして重要なのは、桃次郎の失恋の直後に起きる“長崎への爆走”だ。

瑛子にフラれた男が、ふつうなら落ち込み、酒でもあおって終わりだろう。だが桃次郎は違う。自分の恋が失敗したまさにその足で、今度は“誰かのため”にアクセルを踏み込む。薫と雄一の父親を、除夜の鐘までに長崎へ連れていく。理由なんてない。ただ、あの姉弟の寂しさを見たとき、放っておけなかった。それだけだ。

恋は敗れた。面子も立たない。努力も空回り。恥は山ほどかいた。

それでも、桃次郎はハンドルを握る手を離さない。振られた男の心には、普通は空洞ができる。しかし、桃次郎の胸にできた空洞は、“他者のために走る”という形で、逆に熱を帯びていく。失恋は発車ベルである。

だからこそ、桃次郎の背中に、奇妙な清々しさが灯る。

「女なんかにわかんねえ、最高の気分だ」

振られた男の言葉にしては、こんなに晴れた響きの名言はない。恋愛は負けた。でも、人間としては負けていない。桃次郎の失恋は哀れではなく、むしろ“勝ち方”に見えてくる。なぜなら、恋の行方はどうあれ、誰かを前へ進める力だけは、桃次郎自身から失われていないからだ。

恋に敗れても、人生には勝てる。それが桃次郎のカッコ悪さであり、そして最大のカッコよさだ。

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菅原文太の傑作映画

新海誠の映画レビュー集を出版しました

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新海誠監督ご本人も気づかなった作品の深淵に迫った映画レビュー集です。

『トラック野郎・御意見無用』〜トラックとは、孤独と自由を両立させる唯一の場所

『トラック野郎・御意見無用』〜トラックとは、孤独と自由を両立させる唯一の場所

『トラック野郎・御意見無用』は、1975年8月公開の東映映画。監督は鈴木則文。菅原文太と愛川欽也の名コンビで織りなす、笑い・活劇・哀愁が渾然一体となった痛快シリーズの第1作である。本来は“盆興行の穴埋め”として作られた一本が、初日から1500人を動員し、最終配給収入は7億9410万円を記録。空前の大ヒットとなりシリーズ化が急遽決定した。

スタッフ

  • 監督:鈴木則文
  • 脚本:鈴木則文、澤井信一郎
  • 音楽:木下忠司
  • 撮影:仲沢半次郎
  • 編集:田中修
  • 製作:東映
  • 公開:1975年
  • 上映時間:98分

「トラック野郎」という題名は、当時の東映東京撮影所(以下、東映東京)企画部長・天尾完次による命名。本来は、「菅原文太とダウン・タウン・ブギウギ・バンドが一緒に組んで銀行強盗をする」という内容で映画の企画が進められていたが、まったく違う内容の作品になった。

キャスト

  • 星桃次郎(一番星):菅原文太
  • 松下金造(やもめのジョナサン):愛川欽也
  • 倉加野洋子:中島ゆたか
  • 竜崎京子(モナリザお京):夏純子
  • 万田千吉:湯原昌幸
  • 松下君江(母ちゃん):春川ますみ
  • 竜崎勝(関門のドラゴン):佐藤允
  • ガソリンスタンド従業員:ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

本作誕生のきっかけは、ジョナサン役の愛川欽也が吹き替えを担当していたアメリカCBSのテレビドラマ『ルート66』のようなロードムービーを作りたいという構想を抱き、自ら東映に企画を持ち込んだのが始まりである。初代マドンナに中島ゆたかをキャスティングし、製作された。

あらすじ

下関の渋滞を“緊急自動車”と偽って突破する二台のトラック。11トン車「一番星号」を駆るのは、星桃次郎。4トン車「ジョナサン号」を駆るのは、やもめで子だくさんの松下金造。女好きで喧嘩っ早い桃次郎と、家庭思いでお調子者のジョナサン。正反対の2人は、道路の上では固い“荷仲間”だ。

盛岡のドライブインで、桃次郎はウェイトレスの洋子に一目惚れ。一方で、女トラッカーのモナリザお京は、桃次郎を密かに想っている。九州からやって来た“関門のドラゴン”こと竜崎勝が桃次郎に勝負を挑み、夜の公道で大迫力のデッドヒートとなるが、桃次郎は千吉の邪魔で敗北。

桃次郎の恋、ドラゴンの妹であるお京の恋、ジョナサン家の子育て、仲間たちの喧嘩と友情が、トラックの排気音とともに路上で交差していく。

途中、幼い少女・由美が捨てられていたり、ジョナサンが“花巻の鬼台貫”との因縁に苦しんだりと、人生の痛みが笑いの裏側にのぞく。

やがて桃次郎は、洋子に隠された事情を知る。彼女の好きな男・松岡明が、6,000万円の賠償金を抱え、今日、遠洋漁船で海に出るという。桃次郎は恋敵のために、そして洋子のために、盛岡から下北港までの“恋の飛脚”を買って出る。

白バイもパトカーも蹴散らし、一番星号は3時間の道を2時間半で駆け抜け、洋子と明の再会を実現させる。桃次郎は何も言わずに背を向け、再び、道路の風にまぎれるように走り去っていく。

映画レビュー:道の上でしか、生き方を証明できない男たち

『トラック野郎・御意見無用』〜トラックとは、孤独と自由を両立させる唯一の場所

胸に刺さるのは、笑いでも活劇でもなく、「人はなぜ、こんなにも不器用にしか愛せないのか」という痛みと笑いである。

この映画の世界では、うまく愛することのできる者はほとんどいない。

桃次郎は好きになった女の前に立つと、急に臆病になる。ジョナサンは、家族を愛しているのに、必要以上に空回りする。お京は、桃次郎を思いながら、言葉にできないまま恋を失う。千吉は、軽さの裏に“居場所のなさ”を隠している。洋子は、献身的でありながら、自分の幸せを信じられない。

皆、人生の舵が少しだけ曲がったまま、道路を転がっている。その“曲がり”こそが可笑しさであり、哀しさであり、美しさだ。

桃次郎にとって、一番星号のキャビンは家でもあり、棺でもある。人生の大事な瞬間をすべて運転席の中で迎える。恋を諦めるときも、友情を貫くときも、誰にも頼らず、誰にも属さず、ハンドルの重さだけが、人生の重みとリンクしている。

自由は孤独とセットだ。桃次郎はそれを誰よりも知っている。だからこそ、自分には手に入れられない幸せを、洋子に渡すことができる。

桃次郎は負け続けるヒーローだ。女にも仕事にも勝てない。勝負にも喧嘩にも完全な勝利はない。だが、人のために走るときだけ、誰よりも速くなる。人生は、失敗だらけで構わない。それでも続いていく。

『トラック野郎』のキャラクターたちは、誰ひとり完璧ではない。恋愛は空回り、喧嘩は見栄と意地ばかり、仕事は失敗続き、人生は予定通りにいかない。

だが、不器用な人間たちが、不器用なやり方で他人を想う。その姿こそが、スクリーンを明るく照らす。

鈴木則文は、「人生の可笑しさ」と「人生の切なさ」を同じカットの中で同時に描く。それが“トラック野郎”の魔法だ。

桃次郎が洋子の恋をつなぐために、パトカーを破壊し、封鎖を突破する。それは派手なアクションシーンの皮をかぶった「誰かのために走る」という桃次郎の流儀だ。

桃次郎は恋に破れたが、人生には勝った。勝利とは“手に入れること”ではなく、誰かの人生を前に進めること。道路の上でだけ、一番星は素直になれる。

桃次郎も、ジョナサンも、お京も、洋子も、みな少しだけ歪んでいる。その歪みの分だけ、道路の風が心地よく吹く。

人生はまっすぐ走れない。だからこそ、道は広くていい。曲がっても、遠回りしても、誰かの人生を少し前へ押すために走ることはできる。桃次郎が最後に背を向ける理由はただひとつ。

「人の幸せは自分の後ろ姿で守るものだ」

それが、一番星の哲学であり、道路の上にしか居場所を持てなかった男の、生の美しさである。

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菅原文太の傑作映画

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新海誠監督ご本人も気づかなった作品の深淵に迫った映画レビュー集です。

『現代やくざ 与太者の掟』〜掟の外に立つ男、誰にも属せない男が抱えた誠実さ

『現代やくざ 与太者の掟』〜掟の外に立つ男、誰にも属せない男が抱えた誠実さ

『現代やくざ 与太者の掟』は、1969年公開の東映アクション映画。監督は降旗康男。菅原文太が東映へ移籍して初めて主演を張った一本であり、任侠の滅びゆく時代と新宿という無国籍都市を背景に、ヤクザにも組織にも属さない男・勝又五郎の孤独な闘いを描く。

スタッフ

  • 監督:降旗康男
  • 脚本:村尾昭
  • 出演:菅原文太、待田京介、志村喬、藤純子、若山富三郎
  • 音楽:菊地俊輔
  • 主題歌:若山富三郎「夜霧に消えたチャコ」
  • 撮影:星島一郎
  • 編集:長沢嘉樹
  • 製作:東映東京撮影所
  • 配給:東映
  • 公開:1969年
  • 上映時間:92分

撮影場所は、新宿駅西口バスターミナル、伊勢丹新宿店前、新宿区柏木四丁目のアパート。ラストのドスを振り回し、拳銃を撃ちまくるヤクザ同士の大立ち回りは、新宿の歓楽街で撮影するのは難しいと見られ、セットで行われた。

キャスト

  • 勝又五郎:菅原文太
  • 福地鉄男:待田京介
  • 石井直吉(刺青師):志村喬
  • 樋口道子:田村奈巳
  • 江夏加奈子:橘ますみ
  • 勝又百合:武原英子
  • ヤッパの政:山城新伍
  • 荒尾徹(荒尾組組長):安部徹
  • 小峯弥生(喫茶白馬の元オルガン奏者):藤純子(友情出演)
  • 五代竜三:若山富三郎

菅原文太は1969年だけで、計20本の映画に出演している。売れる前の八名信夫、小林稔侍、石橋蓮司らがチンピラ役で出演している。

あらすじ

『現代やくざ 与太者の掟』〜掟の外に立つ男、誰にも属せない男が抱えた誠実さ

勝又五郎は、名曲喫茶で暴れるヤクザを刺し、傷害罪で刑務所に入る。3年後に出所した勝又は、新宿の雑踏に戻り、そこでスリに全財産を奪われるが、福地鉄男という男に助けられる。福地は新興組織・荒尾組の若頭であり、勝又を組に誘うが、勝又はヤクザを嫌って断る。

やがて勝又は、ヤッパの政ら“組に属さないアウトロー”と兄弟分となり、愚連隊としてノミ屋を開くが、縄張りが荒尾組と重なり、トラブルが発生。福地の仲裁で一度は収まりかけるが、資金の出処をめぐる誤解から福地の組内での立場が危うくなる。

勝又は借りを返すため、仲間とともに偽手形を使った詐欺を仕掛ける。成功したかに見えたが、荒尾組がその金を狙い、福地にも処刑命令が下る。福地は勝又と刀を交えながら、わざと自らドスを受けて死ぬ。

福地の叔父である五代竜三は怒りのまま荒尾組へ殴り込むが、倒れる。勝又は湯浅たちと別れ、ひとり五代の葬儀へ乗り込み、荒尾組を皆殺しにし、倒れる。救急隊に運ばれながら、勝又はただ一言つぶやく。「死んでたまるか」

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映画レビュー:組にも社会にも属せなかった男の最後の抵抗

勝又五郎は、最初から「外側の人間」だ。組に入らない、堅気にも戻れない、家族も、地位も、名前も守ってくれる組織もない。どこにも属さない空洞として、新宿を歩いている。

勝又はヤクザを嫌う。社会にはもっと嫌われている。ヤクザにも社会にも居場所がない「与太者」だ。組織から追放されたわけではなく、もともと入れない。社会から転落したわけではなく、最初から縁がない。だから、物語の中心には、任侠の掟ではなく、どこにも帰れない者同士のゆるい友情”がある。

福地との関係も、ヤッパの政たちとの兄弟分も、義理や盃が支配する世界の外側にある。そこにあるのは、人が人と関わるときに最低限だけ残る“温度”のようなもの。

福地は、勝又にとって唯一「帰る場所」に近い存在だった。ヤクザの世界にいながらも、勝又を気にかけ、助け、借りを作り、そして死ぬ。

福地は勝又に言葉ではなく“行動”で生き方を示す。最後、勝又のドスを自ら受けて死んだのは、裏切りでも義理でもなく、「お前は生きろ」という無言の命令だ。

勝又は、その死を見た瞬間、自分がもう引き返せない場所にいることを知る。組にも、社会にも、福地にも属せず、ただ“生き残る”という一点だけで立っている。

若山富三郎演じる五代の存在は、東映任侠映画が誇った“古い男の美学”そのものだ。その美学は、荒尾組の銃弾にあっけなく飲まれる。

勝又の時代は、義理でも任侠でも説明できない。ただ、“居場所のない者たち”が、利用され、暴力を押しつけられ、最後はひとりで血を流すだけの時代である。

ラストは、属する場所をすべて失った男が、最後に残された“暴力”という手段を使って、やっと自分を世界に刻みつける。殴り込みとは、怒りではなく、生存の叫び。

だから勝又は最後に「死んでたまるか」とつぶやく。

生きる理由を持たない男が、生きることそのものにしがみつくその姿は、任侠映画の英雄像ではなく、現代社会の底であえぐ“無所属者”の魂そのもの。

降旗康男が描いた“現代”とは、ヤクザの掟も、任侠も、義理も通じない、半端な世界のことだ。組に入れば搾取される、堅気になれば排除される、友情は使い捨てられ、正義はどこにもない。

勝又五郎は、その空白に立ち続ける。その痛みは、令和の時代にも強烈に響く。

帰属できない人間の孤独、居場所なき者が抱える暴力性、つながりが壊れるたび、人は何を支えに生きるのか?その問いが、映画の底に沈んでいる。

タイトルの“与太者の掟”とは、掟のある人間の話ではない。勝又には、掟がない。

借りは返す、自分を捨てる者には容赦しない、仲間を売らない、死にたくない。それだけ。勝又五郎の人生とは、掟のない者が、自分の手で掟をつくる物語だった。

『現代やくざ 与太者の掟』は、組織と社会の狭間で人が使い捨てられていく“時代の底”を描いた作品だ。

勝又五郎は、義理の男でも、正義の男でもない。ただ、死にたくないと願っただけの男だ。その“死にたくない”という願いこそ、もっとも誠実な人間の姿なのだ。

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